1) 絶対真理を求める人間の努力
人類は紀元前1万年ごろから狩猟採集の生活様式を離れ、農耕と牧畜による集団定住の社会生活を始めた。これが本格的な文明の第一歩であった。その後、農耕と牧畜による生活様式が成功するにつれて、定住生活はしだいに規模を広げて組織化され、部族と国家が登場する。この時期、人類の歴史において、人間の集団的な思考が臨界点に達する。部族と国家の形成から生じる政治的、経済的、倫理的な問題を意識し、それを解決しようとする試みが、同時多発的にいくつもの場所で起こった。地球上のいくつもの文明圏で、こうした試みが実を結ぶことになる。
こうした試みで最も重要なのは、人間が信じて従うことのできる絶対真理(Absolute Truth)とは何かを見いだすことにある。それが定まってはじめて、人間は絶対真理に拠って、ほかのあらゆる分野で思考の流れと哲学体系を展開していくことができるからである。絶対真理という概念に到達するまでには、何世紀にもわたる長い時間が必要であり、その過程は討論、瞑想、予見、確信、そして必要とあれば闘争を経ることになる。こうした過程を経て、東洋の道と西洋の神が、東西それぞれにおいて絶対真理として定着するのである。
中国、近東、ギリシア、ペルシアなどで、こうした流れが頂点に達したのは、紀元前6世紀前後の数百年間である。カール・ヤスパースは紀元前8世紀から前3世紀を、人間の思考の歴史における「枢軸時代」(Axial Age または Axis Age)と名づけた。この時期、世界各地で絶対真理を中心とする宗教と哲学の枠組みが形成された。こうして超自然の宗教と自然哲学の体系は、その後の人類の思考において「中心軸」の役割を果たすことになる。
枢軸時代のわずか数百年のあいだに、人類の偉大な師たちが現れた。老子、孔子、釈迦、ソクラテスが相次いで生まれた。そしてこの時期にモーセのユダヤ教が確立し、ゾロアスター教が成立し、ユダヤ教ではイザヤなどの預言者が登場する。枢軸時代の少し後にイエスが生まれ、さらにその後、旧約聖書の一部をユダヤ教、キリスト教とともに共有するイスラム教のムハンマドが生まれる。これによって、世界文明の柱となる主要な宗教と思想がすべて確立した。我々はいまなお、あの枢軸時代に確立した思想体系に従っているのである。
本書では、東洋と西洋を比較するために、聖書と『道徳経』の章句を数多く用いている。『道徳経』は19世紀後半から英語、ドイツ語、フランス語などに訳されて西洋に伝わりはじめ、これまでに250回以上西洋の言語に翻訳されてきた。しかしその内容は、とても同じ本を訳したとは思えないほど千差万別である。反対に、西洋の神についての表現は、いくつもの案を整理する過程を経て、ただひとつの文面しか存在しない。聖書ひとつがあるだけである。それでも、西洋の神の概念を東洋の文明に伝えるのもたやすくはない。東洋の文明では、絶対真理を人間が表現できるということを認めていないからである。これは、東西の根本的な哲学的思考が異なっていることを意味する。
西洋の神の概念が東洋に入ってきたとき、西洋の神と東洋の道の概念を比べるという事態が展開されるべきであった。しかし、東西の文明全体を見渡してはじめて生じるこうした動きは起こらなかった。現実には、儒教が主張する祖先の祭祀とキリスト教が主張する神への崇拝とが比べられ、衝突しただけであった。しかし、東西文明の哲学的に意味のある比較は、儒教の祖先祭祀ではなく、東洋の道と西洋の神を比べるところから出発すべきだったのである。7 本書では道と神を比較する。それは、道が代表する東洋の自然哲学と、神が代表する西洋の啓示宗教との比較になる。
2) 道と神の概念は紀元前6世紀ごろに集大成された
道は自然の概念を扱う絶対真理である。8 神は超自然的な存在を扱う絶対真理である。道の概念は『道徳経』で具体的に、そして儒教思想で折にふれて表現される。一神教の神の概念は、ユダヤ教のトーラー、すなわちモーセ五書で詳しく説かれる。道と神の概念が集大成されたのは、いずれも紀元前6世紀ごろのことである。
神の概念の成立は、複雑な発展の過程を経ている。まず多神教(polytheism)と一神教(monotheism)がある。ギリシア・ローマの多神教も、エジプト・ユダヤの一神教も、ともに地中海地域を中心に生まれた。神は人間の祈りに応え、道徳的な判断を下し、奇跡を起こす。ギリシア・ローマの多神教は、紀元前8世紀にホメロスが『イリアス』と『オデュッセイア』という書物のなかで詳しく記録している。続いて紀元4世紀、西洋でキリスト教がローマ帝国の国教に定められる。このとき、多神教の神殿と信仰が西洋で広範囲にわたって破壊された。9 こうしてキリスト教は多神教を打ち壊して、そびえ立つことになる。
キリスト教とユダヤ教は啓示宗教として旧約聖書を共有している。旧約聖書の最初の書である創世記から五番目の申命記までの五つの書は、モーセ五書と呼ばれる。これこそが律法を意味するトーラー(Torah)である。モーセ五書の起源となった一神教はエジプトで始まった。紀元前14世紀、エジプトのファラオ、アクエンアテン(Akhenaten)は、エジプトの多神教的な宗教を廃し、太陽神を唯一神として崇拝する一神教を打ち立てた。エジプトでは、この太陽神の信仰をアテン信仰(Atenism)と呼び、その神をアテン(Aten)と呼んだ。
エジプトの外では、紀元前6世紀、新興のペルシア帝国で一神教の運動が起こった。ゾロアスター教が国家の公式の宗教としてペルシアで認められたのである。ゾロアスター教は、ゾロアスターという預言者によって宗教として体系化された。ゾロアスター教はアフラ・マズダーを神として信じる宗教であり、アフラ・マズダーは光と善を象徴する普遍的で超越的な存在であって、宇宙を創造した神である。10 アフラ・マズダーは真理と秩序を代表し、宇宙における善と悪の対立を想定して、偽りと無秩序を代表する力と争う。この戦いでアフラ・マズダーが最終的に勝利する。その過程で、悪魔論、終末論、そして復活論といった概念が現れる。
エジプトの一神教とペルシアの一神教の出現は、モーセ五書に収められたユダヤ教の一神教の概念の成立に、きわめて重要な役割を果たすことになる。ユダヤ教はエジプトとペルシアで生まれた一神教の影響を受け、伝えられてきた神話や説話、そこに込められた哲学的な意味、そしてそれを新しい教義に当てはめる方法などを学んできた。これがモーセ五書としてまとめられる。モーセ五書は、モーセの誕生から800年後の紀元前5世紀に、エズラ(Ezra)によって今日の形に編まれた。
この800年のあいだに、天地創造の神話、ノアの洪水、モーセの出エジプトをめぐる物語が周辺の部族神話と絡み合い、そこから多くの影響を受けて完成したことは容易に想像できる。天地創造の物語、洪水にまつわる物語、そしてモーセとサムソンをめぐる物語の多くの部分は、おそらくバビロニアから取られたものであろう。エデンの園の物語はもともとバビロニアのものだが、ユダヤ人はバビロン捕囚以前からそれを知っていた。ユダヤ人がエルサレムに戻ったとき、モーセ五書は一冊の書物に編集されており、残りの部分はその後に続いていった。11
この観点から見れば、モーセ五書は、旧約聖書に記されているようにモーセひとりが神から直接授かった記録というよりも、長い期間を経て集められ、磨かれ、周辺のさまざまな重要な要素を吸収しながら、何世紀にもわたる知恵の集積として、いまの姿で我々に伝えられてきたものだというほうが事実に近い。
モーセの出エジプトから、エズラとネヘミヤ(Nehemiah)による旧約聖書の本文の確定までには、およそ800年の期間があった。このあいだに、ヤハウェの宗教の多くの部分は、いわば逆向きに進化し、モーセの原始的な宗教と一致するように、あるいは同一になるように発展していった。これは重要な基本的事実であり、ユダヤ宗教史の核心をなす内容である。12
スピノザは、モーセ五書に記された出来事のなかには、モーセの時代より後に起こったものがあると指摘している。13 申命記はモーセの死後に書かれたものと考えられている。フロイトは、ユダヤ教の神ヤハウェが、もとはこの地域の多神教のひとつである火山の神であったろうと推測した。モーセ五書にもこれを裏づける内容がある。たとえば申命記に記された「あなたの神、主は焼き尽くす火であり、ねたむ神である」といった言葉がそれである。スピノザとフロイトはユダヤ人であったため、こうした主張がもたらしうる影響を案じて、自らの本を死後に出版させた。14
では、ほぼ同じ時期に現れた老子の『道徳経』はどうだろうか。老子は一般に、春秋時代末期、紀元前6世紀の人とされている。この時期は、モーセ五書が編集を終えた形で現れた時期とほぼ重なる。伝説によれば、老子が函谷関を越えて人間の社会に別れを告げて去るとき、関所の役人である関令尹喜の求めに応じて書き残したのが『道徳経』である。しかし、よく見ると、彼がひとりの人間なのか、多くの人を代表するものなのか、あるいはどの時代の人なのか、はっきりしない点が多い。また、老子が著したとされる『道徳経』はいくつもの種類が見つかっている。現存する最古のものは、紀元前4世紀ごろに作られたものとされる。したがって『道徳経』もまた、老子ひとりの著作というよりは、春秋時代後期から戦国時代前期にかけて、多くの思想家が道家の思想を共有しながら、ひとつの思想体系として成り立ったものと見るほうが事実に近い。15
それゆえ、老子の『道徳経』とモーセの五書は、単に老子やモーセひとりの考えや作品ではなく、東西文明の胎動期にすでにかなり広く行き渡っていた自然と人間の関係についての核心的な思想を、東洋と西洋がそれぞれ『道徳経』とモーセ五書という形に凝縮したものと見るべきである。こうした文書は数百年の歳月を経るあいだに、周辺のほかの哲学や思想と交じり合い、影響を与え合いながら、自然に形づくられた幅広い基盤を持つようになった。このように捉えれば、道教における『道徳経』の重要性と、ユダヤ教におけるモーセ五書の重要性、そして東西文明の根本的な違いを理解する助けになる。
ユダヤ教のモーセ五書などの旧約聖書は、イエスの記録を収めた新約聖書とともに、キリスト教の聖書となる。旧約聖書は、創世記に始まり、紀元前1500年から紀元前400年のあいだのイスラエル民族の記録である。人間の犯した罪(sin)と悔い改め、神の裁きと救い、メシアについての預言などがその核心である。新約聖書は、イエスの誕生以後、紀元1世紀のイエスの教えとキリスト教の広まりを中心に扱う。そこでは、イエスがメシアとして全人類の罪を贖ったこと、そして恵みと救いの普遍性が強調されている。ユダヤ教は、イエスがメシアであるという新約聖書の核心を認めない点で、キリスト教と根本的に異なる。しかしユダヤ教もキリスト教も、絶対真理は人間が表現できるという示顕論に従う点では違いがない。
道の概念の流れもまた、歴史の流れをたどる。道の流れは、西洋におけるユダヤ教からキリスト教へ、そしてキリスト教のなかでの旧教と新教の分裂と成長という流れとは異なるパターンを見せる。道の概念は、分裂と闘争ではなく、発展と拡散の道を歩むことになる。東洋の陰陽論や、諸説を総合する傾向のためである。老子の『道徳経』の後で最も重要なのは、荘子(紀元前369―前286)の思想と哲学である。これによって道教は老荘哲学とも呼ばれる。『道徳経』と『荘子』のあいだには違いがある。老子の『道徳経』は、一語一文に多くの意味が圧縮された、高度に凝縮された書物である。一方『荘子』は『道徳経』よりはるかに厚い書物であり、物語の形で書かれていて面白くもあるが、内容の濃さという点では、『道徳経』に凝縮された思想とは違いがある。これは、『道徳経』が数百年にわたって道家思想を共有する多くの人々の知恵を集めたものであるのに対し、『荘子』の諸篇は荘子と弟子たちが力を合わせて、ときには荘子ひとりで書いたものだからである。16
道教は陰陽論や『易経』の変化論などを吸収しながら、それを道という概念として確立し、儒家、墨家、法家などほかの哲学思想に広めた。儒家、墨家、法家が東洋の社会と歴史の発展に及ぼした影響は計り知れない。しかしそれらは宇宙観、自然観、世界観などについては論じず、道教の概念に頼ることになる。したがって、東洋の文明が扱う自然と人間の関係、そしてそれにともなう宇宙観、自然の生成と作用などについての思想をまとめて示しているのは、老子の『道徳経』なのである。
3) 絶対真理を表現する二つの方法:不顕 vs 示顕
西洋の文明は、絶対真理を人間が表現できると信じている。「真理は表現できる」という哲学は、示顕(じけん)という言葉で表される。示顕の反対は、「真理は表現できない」という不顕(ふけん)としてまとめられるべきである。しかし西洋では、こうした概念を認める哲学的思考が消えて久しい。そのため西洋では、示顕の反対語として「隠蔽、隠すこと、覆うこと」といった表現が現れる。いずれも悪い、あるいは否定的な考えである。こうした表現は、示顕を正しく正常なものとみなし、それに同調しない表現を否定的に並べたものである。示顕が正しい概念であるという西洋の思考体系の内側で、すべてを分析しようとするからである。これは西洋文明の「偏り」を示している。
そうなると、西洋では東洋文明の核心である不顕という概念を理解できない。東洋の道は不顕の思考に属する。「絶対真理は人間には表現できない」という思考である。「吾が生や涯り有りて、知や涯り無し」だからである(『荘子』養生主)。誰も、自然の道、すなわち道について、確信をもって答えを示すことはできない。しかし、ここに重要な点がある。それは、絶対真理である道は、定義することはできなくても「存在」するということである。「真理は存在するが、表現することはできない。」こうした思考が不顕と表現される。『道徳経』の最初の一文である「道の道とすべきは、常の道に非ず」(道可道非常道、表現された道は永遠の道ではない)が、まさに不顕を意味している。
不顕は、東洋文明における道の哲学である。人間が真理を見いだしたと言ってそれを表現すれば、それはもはや絶対真理ではない。したがって道を求めることは、到達しえない絶対真理へと向かうことであり、その方法は帰納的なものとなる。それゆえ人間は、自らが生きる環境のなかで、状況に合った相対的な真理(他人に押しつけることのできない真理)を見いだそうと努める。しかし絶対真理には到達できないのだから、謙遜と辞譲が基本の倫理となる。
西洋では、人間は神が創造したものであるから、あらゆる答えを神に求める。神に求める答えは絶対的であり、預言者が伝える。こうした答えは絶対真理であるから、他人に押しつけることができる。それは演繹的な思考に頼る。しかし、神はどこから来たのかという問題とともに、預言者とは誰なのか、また悪はなぜ存在するのか、という基本的な問題が提起される。解くことのできない問題である。したがって、神の存在を信じることは、説得や討論を離れた信仰(faith)の領域に属する。精神の判断とは関係がない。預言者が伝える神の言葉を信じることが示顕である。不顕が自然哲学の核心であるとすれば、示顕は啓示宗教の核心である。
不顕とは「現れることがない」、あるいは「表現できないこと」を意味する。17 絶対真理である道は、現れることがなく、表現することができない。英語の unmanifest という語が、不顕の意味を最も近く表している。18 不顕は、「真理はある」と、しかし「真理は表現できない」という二つの哲学的な状況を、あわせて総合的に表している。この点で、東洋文明の不顕は、西洋文明の不可知論とは区別される。不顕は絶対真理の存在を認める。不可知論は、絶対真理の存在そのものを知りえないという表現である。示顕と不顕の真の意味を理解すれば、道と神の違いは、絶対的なものの「存在」ではなく「表現」にあることがわかる。
真理は道にも神にも存在するが、西洋の文明では「真理は表現できる」が核心の概念である。神の言葉によって創造された天地こそが、「真理の存在の始まり」である。東洋の文明は「真理は表現できない」と主張する。道は存在するが、表現されない。絶対真理の「表現」をめぐる不顕と示顕の違いは、『道徳経』の最初の句と創世記の最初の句に表れている。
『道徳経』の最初の句:「道の道とすべきは、常の道に非ず」(道可道非常道)(『道徳経』第1章)
創世記の最初の句:「はじめに神は天地を創造された」(創世記1:1)
不顕とは、預言者を含めて、人間の誰ひとりとして絶対真理を表現することはできない、という意味である。神と預言者を絶対的な存在として信じる示顕にとっては、絶対的な表現を退ける不顕は敵対的で容認できない思考となる。示顕では、無の概念や非存在を、人間の精神が考えることのできない、あるいは考えてはならない不可能なものとみなす。絶対的なものの表現可能性を主張する示顕論からは、さまざまな宗教が生まれ、またひとつの宗教のなかでも分派への道が開かれる。啓示とは、預言者が「神の言葉を伝える」という意味である。啓示宗教においては、預言者の役割が絶対的である。神は人間に直接表されるのではなく、預言者を通して表される。預言者は啓示を受け、神の性質を絶対真理として人間に伝える。この過程で、人間は神を信じ、神が下した律法を行いながら宗教をつくっていく。キリスト教、ユダヤ教、イスラム教を、我々は啓示宗教と呼ぶ。キリスト教はさらに旧教と新教に分かれる。
こうした分裂の問題について、示顕論を唱えた初期の思想家たちが深く考えていたことがうかがえる。つまり、不顕に似せようとした示顕の努力が、あちこちに見られるのである。『道徳経』とモーセ五書を読むと、東洋の道も西洋の神も、初期にはどちらも自らについての表現を避けようと努めていた。彼らは示顕の力強さと危うさを同時に見抜いていたと言えるだろう。こうした危うさを避ける手立てのひとつとして、『道徳経』は道についての表現を拒む表現を繰り返し続ける。
名の名とすべきは、常の名に非ず。(『道徳経』第1章)
儒教もまた、こうした不顕の立場に同調している。知とは何かと問う弟子に、孔子は「民の義を務め、鬼神を敬して之を遠ざく、知と謂うべし」と答えた(『論語』雍也篇22章)。鬼神に盲目的に頼ったり迷信に陥ったりすることを戒め、実践的な生き方を強調した言葉である。道教、儒教など東洋の文明においては、「鬼神を遠ざける」という不顕の基調に変わりはない。
ユダヤ教もまた、初期には、西洋の神が示顕を否定するように努めていた。出エジプト記で、神は名を尋ねるモーセに「わたしは有って有る者」(I am who I am)と答えた。そして、「わたしは有る」(I am)という方があなたを遣わした、と説明するように言っている。できるかぎり自分の名や正体を明かすまいとしているのである。これは、神が示顕を拒み、不顕の領域にとどまろうとする努力である。
モーセは神に言った。「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのもとに遣わされました』と言えば、彼らは『その名は何というのか』と尋ねるでしょう。わたしは彼らに何と答えればよいのでしょうか。」神はモーセに「わたしは有って有る者である」と答え、さらに言われた。「あなたはイスラエルの人々にこう言いなさい。『〈わたしは有る〉という方が、わたしをあなたがたのもとに遣わされたのだ』と。」(出エジプト記3:13―14)
なぜ道も神も、示顕を拒む姿勢をとったのか、気になるところである。それは、示顕にともなう絶対真理の命題の限界のためである。名をつけることが、そのまま道と神の示顕の始まりになるからである。道と神は絶対的で永遠のものでなければならない。人間が名をつけたり、形を明らかにしたり、定義を下したりした瞬間に、その絶対性と永遠性の一部が失われてしまう。だから道と神には、人間が考え出した、それゆえ限界を持つ名があってはならない。当然、形もなく、人間の言葉で定義されることもあってはならない。これこそが、絶対真理である道と神の最も重要な属性である。道と神は、「言葉では言い表せない」「口にするのも畏れ多い」という属性を持っていなければならない。
神が自らを明かすのをためらい、不顕の属性を保とうとする努力は、ある面では保たれている。啓示宗教が主張する「神無形論」(aniconism)、すなわち神を形象化したり視覚的に表現したりすることを禁じる態度がそれである。道教や儒教で、形象よりも無形の道や天を強調するのも、絶対真理を表現すまいとする不顕の思考と結びついている。
しかし西洋の神は、ヤハウェという自らの名を明かすことで、名称を持ちはじめる。天地を創造した存在には名がなければならない。19 そうしてはじめて、人間はその存在を呼ぶことができる。
神はモーセに言われた。「わたしはヤハウェである。わたしはアブラハム、イサク、ヤコブには全能の神として現れたが、ヤハウェというわたしの名によっては、彼らに自分を知らせなかった。」(出エジプト記6:2―3)
あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。主は、その名をみだりに唱える者を罰せずにはおかない。(出エジプト記20:7)
しかし、神が自らの名をとくに知らせたことで、ついに神の示顕が始まる。神は擬人化されて人間の姿をとり、奇跡を行い、人間の営みをつかさどるようになる。モーセを通じて十戒を人間に下し、神と人間とのあいだに契約を結び、本格的な啓示宗教の形を整えていく。モーセ五書の物語がそれである。道の不顕と神の示顕は、東西文明の核心的な違いの出発点である。
ソクラテス、デカルト、ヘーゲルに慣れ親しんだ西洋人には、不顕という道の概念を理解するのは難しい。それは西洋文明が、ソクラテス以後の哲学史において示顕に没頭するうちに、不顕という概念を忘れてしまったからである。つまり西洋文明は、ソクラテス以前のギリシア哲学で重要な位置を占めていたヘラクレイトスなどのギリシアの哲学者たちが持っていた不顕論を、すべて自ら忘れ去ってしまったのである。こうして西洋文明は、示顕論にだけ忠実であろうとする、それゆえ偏った文明的視点を持つことになった。20 西洋では、絶対真理を信じる人であっても、啓示宗教が求める哲学体系に同意しなければ、当然のように無神論者として扱われる。
ギリシア文明において、こうした偏りを乗り越えたのが、ギリシアの不顕論者たちの努力である。
ギリシアの不顕論者と示顕論者の対立
不顕論は紀元前から東洋の思考の大勢となったため、東洋の文明には示顕論の立つ場所がなかった。21 しかし西洋の文明には、示顕論と不顕論が共存していた時期があった。西洋では紀元前1000年より前から多神教という示顕論を信じはじめ、ソクラテス、プラトン、アリストテレス以後は、示顕論が不顕論を押しのけて、哲学的に完全に西洋文明の基準となりはじめた。しかしソクラテス以前のギリシアの哲学体系には、数世紀にわたる「示顕論 vs 不顕論」の対立、あるいは共存があった。示顕論と不顕論が哲学的に対立していたという興味深い状況は、東洋と西洋をすべて含めても、ギリシアの思想史にしか見いだせない。
ギリシアの不顕論者:ヘラクレイトス、クセノパネス、デモクリトス、ピュロン、カルネアデス
西洋で不顕論哲学の本質を探るには、ソクラテス以前のギリシア文明にさかのぼらなければならない。ソクラテス以前、ギリシアの思想界では、示顕論者と不顕論者が互いに牽制し合って均衡を保っていた。このころのギリシア文明では、節度(sophrosyne)、運命(destiny)、メティス(metis、混交あるいは知恵の意)の役割が重要であった。とりわけ「運命」の思想は、ギリシアの神々が代表する示顕論の思想と均衡を保っていた。ギリシアの神々のなかで最高の神であるゼウスでさえ、結局は運命の女神たちに従わなければならなかったのである。これは、神や絶対真理を無条件に信じて従う示顕論の危うさを戒め、示顕論を牽制する不顕論哲学の均衡感覚に、ギリシア文明が拠っていたことを物語っている。
ギリシア哲学における不顕論の泰斗はヘラクレイトスである。彼は紀元前6世紀の人物である。彼は西洋哲学史において、大多数の人々が従う主流とは異なる独特な思考の世界を繰り広げた思想家である。カール・ユング(Carl Jung)はヘラクレイトスの哲学の特異な点を見いだし、彼の哲学と東洋文明との類似に気づいていた。ユングは、西洋文明がヘラクレイトスの哲学の影響を受けていたなら、西洋人は今日、キリスト教徒ではなく、東洋人に似た思考の世界を持っていただろうと述べている。
もし西洋世界がヘラクレイトスの哲学の影響を受けていたなら、西洋人は今日キリスト教徒ではなく、中国人のようになっていただろう。ヘラクレイトスの考えをたどっていけば、東洋と西洋を結びつけることができる。22
実際、ギリシアの思想家のなかには東洋思想に似た思考の世界を持つ人々がおり、その影響力はソクラテス以前までかなり大きく、その後もかなりの期間存続した。不顕論を代表する哲学者と言えるヘラクレイトスについては、死後700年ほどたった230年ごろに、彼を記念する硬貨がつくられたほどであった。23 ギリシア哲学史では、不顕論者のなかから代表的な人物を五人挙げることができる。ヘラクレイトス(Heraclitus、紀元前535―前475)、クセノパネス(Xenophanes、紀元前560―前478)、デモクリトス(Democritus、紀元前460―前370)、ピュロン(Pyrrho、紀元前360―前270)、カルネアデス(Carneades、紀元前214―前129)である。
彼らはみな、神の存在を証明することは確かではないのだから、確定せずに議論すべきだという立場をとった。天地創造を信じず、自然はつねに変化していることを強調し、自然のなかのすべての個体のあいだの関係は、対立性ではなく補完性を示しているという立場をとった。彼らは不顕論哲学の特徴を堅持した。神、絶対真理、霊魂などについて、そのまま信じるのではなく疑問を持とうという懐疑主義(skepticism)の立場をとったのである。絶対的なものを表現するときにも、否定神学(apophatism)の立場を示した。つまり神について議論するとき、「神は慈悲深い」という表現よりも「神は慈悲深くない」という表現のほうが、神についての議論にふさわしいと考えたのである。典型的な不顕哲学の表現である。不幸なことに、これら不顕論者たちの哲学は、ピュロンを除いてすべて失われてしまった。
とりわけヘラクレイトスの不顕論的な哲学がすべて失われてしまったことは、惜しまれてならない。彼が生きていた時代と、老子が『道徳経』を世に出した時代は、ほぼ同じである。老子とヘラクレイトスの思想的な出会いや対話を想像すると、胸の高鳴りを抑えることができない。二人のあいだには何の対話も交流もなかったのに、ほとんど完全に同じ思想体系を表していたからである。老子の道とヘラクレイトスのロゴス(Logos)の比較は、東西の文明を一つに合わせる、東西の対話の始まりとなりうる。ヘラクレイトスは、いまや西洋人がたやすく理解できる存在ではないが、人類全体を考えるとき、東西の文明を包み込む新たな哲学の可能性を予告した西洋の哲学者としての価値を持つのである。
ピュロンについては、彼を扱った本があるため、詳しく説明することができる。ピュロンの死から400年ほど後に西洋のある哲学者が書いた『ピュロン主義哲学の概要』が、我々に伝えられているからである。ピュロン以外の不顕論の哲学者について我々が知っているのは、紀元3世紀にディオゲネス・ラエルティオス(Diogenes Laërtius)が著した『ギリシア哲学者列伝』のおかげである。そこには、名だたる哲学者たちについての断片的な逸話と説明だけが伝えられている。以下に述べる立場のほとんどは、ラエルティオスの本に収められているものに基づいている。
ヘラクレイトス(Heraclitus)は自然の変化論を唱え、二元対立論ではなく二元補完論を示した。彼は、昼と夜、冬と夏、戦争と平和、そして飢えと満腹は、すべて互いに補い合い、循環する変化を示していると説明した。世界のすべてはつねに変化しているので、川の同じところに二度足を踏み入れることはできないと主張した。彼はロゴスを宇宙の真理と見たが、ロゴスは永遠であるのに、人々はつねに異なる意見を述べるものだ、という見解を示した。そうであれば、ヘラクレイトスのロゴスは、道家の「道の道とすべきは常の道に非ず」(表現された道は永遠の道ではない)と同じく、不顕論の本質を表した思想となる。ロゴスは、西洋人が示した見解のなかで最も道に近い概念である。東洋の道は、自然の道を経験を通じて知り、説明しなければならないという姿勢を持っている。この意味で、道の思想とヘラクレイトスの哲学は経験主義を追求している。ラッセルが指摘したように、ヘラクレイトスは、ヨーロッパ大陸の合理主義とは異なる、イギリス経験主義哲学の先駆者と評価することができる。ヘラクレイトスの変化論は、道の変化論、すなわち東洋の易の思想が表す変化論に似ている。こうした変化論は、「つねに変化していく」(becoming)という意味で表すことができる。これは、プラトンが受け継いだパルメニデスの「不変の存在」(being)とは正反対の概念である。不顕論ではすべてがつねに変化するという変化論を信じたが、パルメニデスの示顕論では、存在(being)だけが真実であり、非存在(non-being)はまやかしであると主張した。ヘラクレイトスは、神が宇宙を創造したのではなく、宇宙はつねにあり、永遠であり、絶えず変化していると信じた。彼の言葉を借りれば、「宇宙、コスモスは永遠のものであり、神や人間がつくったものではなく、つねにあったし、いまもあり、これからもあるだろう」ということである。ヘラクレイトスは善悪論についても、陰陽的な表現を用いた。彼は、宇宙、コスモスにとってはすべてが正しく、善く、正当であると信じ、人間が善いものと悪いものに分けるのは相対的なことにすぎないと述べた。これは陰陽補完論の概念に従うもので、善と悪は相対的なものであり、それらは互いに補い合う、変化論的な要素として働くことを意味すると考えたのである。このように驚くべきことに、ヘラクレイトスは道の思想の核心である不顕性、蓋然性、相対性、相補性を西洋で主張し、当時のギリシアの示顕論が追求していた示顕性、因果性、絶対性、対立性に基づく哲学と対照をなしたのである。
クセノパネス(Xenophanes)は、多くの神が存在することはありえず、ただひとつの神だけが存在すると考えた。しかし人間は、このひとつの神を完全に理解することも表現することもできないと述べた。また彼は、人間の考えは相対的で個人的なものであることを強調し、神の考えは絶対的で真実であると表現した。当時のギリシア人は、超自然的な神は奇跡を行うために人間の姿をとると考え、これを「擬人化」の現象として表した。しかし彼は、神が人間の姿を持つことはありえないと考えた。さらに彼は、人間は物事について確かな考えを持つことはできず、可能性を考えることしかできないと指摘した。彼が考えた神は、ヘラクレイトスのロゴスに似ている。彼の考える神はひとつの神であり、変わらず、動かず、どこにでも存在する。彼の考える神は、多神教のさまざまな神々や人間を含むあらゆるものより高いところにあり、当時のギリシア人が想像した人間的な神とは異なると考えた。彼は「エチオピア人は自分たちの神が黒い肌で平たい鼻をしていると考え、トラキア人は自分たちの神が青い目で赤い髪をしていると考える」という記録を残しており、「もし牛や馬が絵を描けたなら、牛は神を牛の姿に、馬は馬の姿に描くだろう」と、擬人化の問題点を喝破した。
デモクリトス(Democritus)は「宇宙のすべてはアトムと空虚から成り、それ以外のすべてはただ我々の考えにすぎない」と主張した。さらに「熱い、冷たいというのは実はひとつの意見にすぎず、すべてはアトムと空虚の存在によって説明できる」とも述べた。彼は、世界で起こることはすべて必然によって起こると考えた。「偶然という名は、無知な人々がわからないときにつけた名である。」スピノザもこうした哲学を共有した。デモクリトスは目的論を否定して必然論を唱え、それによって宇宙の存在を理解しようとした。人が宗教を持つのは、例外的な自然現象(雷鳴、稲妻、地震など)を、神が介入した超自然的な行為と見たがることから来ている、と彼は説明した。彼の自然哲学は、世界で起こることは神の介入によるのではなく自然に起こるものであり、したがって奇跡のようなものの存在を否定する立場をとった。当時のギリシアの不顕論の哲学者たちは、示顕論の哲学者と、それに従う大衆の見解に対して、心を痛めるか、あざ笑うかの立場をとった。ヘラクレイトスが前者で、デモクリトスが後者であった。それでヘラクレイトスは、ギリシアの人々から「泣く哲学者」(The Weeping philosopher)あるいは「難解な哲学者」(The Obscure philosopher)と呼ばれた。彼に憂鬱症があったためにそう呼ばれた可能性もある。デモクリトスは、示顕論へと流れていくギリシア哲学をあざ笑う立場をとった。それで彼は「笑う哲学者」(The Laughing philosopher)として知られた。彼の快活な性格のためかもしれない。この笑う思想家と泣く思想家の二人は、ルネサンス時代のブラマンテ(Bramante)が描いた絵によく表されている。
ピュロン(Pyrrho)はデモクリトスを尊敬し、彼の不顕論に同意した。ピュロンは懐疑主義(skepticism)の父と呼ばれるようになり、彼の思想はピュロン主義(Pyrrhonism)として広く知られるようになった。彼の懐疑主義、すなわちピュロン主義は、不顕論と軌を一にしている。彼は「確かなものは何もなく、あらゆる事柄に不可解性(incomprehensibility)を認め、それにしたがって判断を中止しよう(suspension of judgement)」と主張した。それでピュロンは「判断中止者」というあだ名を得た。彼は「すべてを疑い、しかし結論は下さない」ことを考えた。彼は、示顕論者たちは科学的に証明される真理を明らかにしたのではなく、ただ自分たちが仮定(supposition)するものを真実とみなしているにすぎない、という意見を表明した。人間が果てを知りえない真理をつかむことは不可能だというこのピュロン主義は、東洋の道家の荘子にも似た形で表れている。「吾が生や涯り有りて、知や涯り無し。涯り有るを以て涯り無きに随う、殆きのみ」(『荘子』養生主第1章)。これが荘子の考えである。ピュロンは、ギリシアの賢人たちが人々に伝えた賢明な格言はすべて不顕論から来たものだと主張した。「何ごとも度を過ごすなかれ」(seek nothing in excess)、「保証は災いを招く」(suretyship is near calamity)などがそれである。ピュロン主義はドグマを認めなかった。彼は「ドグマについて、すべての人が同じ意見を持つことはない。ドグマを認める人でも、ときによって、ドグマを見る視点と視野は変わりうる」と主張した。
カルネアデス(Carneades)は、クリュシッポス(Chrysippus、紀元前279―前206)からすべてを学んだと告白するほど彼を尊敬していた。クリュシッポスは、紀元前3世紀にすでに自然と神を同一視する哲学を掲げた人物である(西洋では、およそ15世紀後に、スピノザが自然と神を同一視した哲学者として登場する)。カルネアデスの不顕論は、ピュロンの不顕論とは性格が異なる。ピュロン主義は確信を否定も肯定もしないが、カルネアデスは確信を否定する方向に傾いている点が違う。カルネアデスは目的論と決定論に反対し、偶然性と蓋然性に目を向けよという見解を残した。彼は、道徳主義(moralism)は自然の法則と合致しないと述べ、我々が正義と呼ぶものは永遠ではありえず、非合理的であり、一時の必要によってのみ主張されるものだ、という意見を述べた。しかしカルネアデスには現実的な面があった。彼は、「絶対真理」は人間には表現できないが、我々が生きていくのに必要な限られた「相対真理」は人間にもつかむことができ、相対真理によって人間は自らが生きる環境のなかで正しく生き、行動することができると考えた。
ギリシアの示顕論者:パルメニデス、ピュタゴラス、ソクラテス、プラトン、アリストテレス
ギリシア哲学史は、中国の春秋戦国時代の百家争鳴のように、多様で深い哲学的な素材が同時に存在していて、じつに興味深い。しかしその多様さゆえに、彼らの哲学の世界を理解するのは容易ではない。ひとつのとてもよい方法は、ソクラテスの前後で区分することである。西洋の哲学者がよく用いる方法だが、区分のしかたに示顕論と不顕論を取り入れれば、この区分はいっそう簡明に整理できる。紀元前4世紀前後から、ギリシア文明は「示顕論」へとまとまりはじめる。
ギリシア哲学を代表する示顕論者として、五人を挙げることができる。パルメニデス(Parmenides、紀元前6世紀後半―前5世紀中ごろ)、ピュタゴラス(Pythagoras、紀元前570ごろ―前495ごろ)、ソクラテス(Socrates、紀元前470―前399)、プラトン(Platon、紀元前427―前348)、アリストテレス(Aristoteles、紀元前384―前322)である。とりわけソクラテス、プラトン、アリストテレスの三人の思想家は、神を絶対的な存在として認め、霊魂を神から特別な役割を授かった絶対的な存在として確信する哲学体系を広めることになる。神の存在を信じ、霊魂の絶対性を主張することこそが、示顕論の核心である。彼らはこうした運動の先頭に立ち、示顕論と不顕論のあいだで均衡を探っていたギリシア哲学史に区切りをつけて、揺るぎない示顕論が西洋哲学を主導するようにした哲学者たちである。
ソクラテスは「人間は無知ゆえに過ちを犯す」という言葉で有名であり、絶対的な真理を追求するよう励ました。プラトンは人々の見解を「意見」と「事実」に分け、人間はかならず事実、すなわち絶対的な真理を追求しなければならないと力説した。アリストテレスは形而上学を哲学の根本と考え、自然を物質と見て、人間だけが霊魂を持っているのだから、物質より上位にある霊魂を探究すべきだと主張した。ソクラテス、プラトン、アリストテレスという三人の哲学者の共通点は示顕論にある。彼らはみな、神、霊魂、絶対的な真理を信じた。ギリシアの不顕論者たちは、こうしたものについて確信を持つことはできないと主張し、「考えてみよう」という不顕的な態度をとった。示顕論者たちは、不顕論者の主張に対して、断固とした、ときには攻撃的な反対の立場をとった。ソクラテスとプラトン、そしてアリストテレスは、示顕論の考え方を、紀元前6世紀に活躍したパルメニデスとピュタゴラスから学んだ。
パルメニデスはエレア派の創始者である。彼は人間の考え方を「意見と真理」に分け、真理は永遠で変わらないものであり、意見は一時的で誤った考えであると定義した。パルメニデスは「存在と非存在」を区別し、存在だけが真実であって、非存在は完全に無視すべきだと主張した。存在の不変性と単一性を強調したのである。プラトンもこれにならって非存在を否定し、存在だけに目を向けるようになった。パルメニデスの「意見と真理」は、プラトンの「洞窟の比喩」では「意見と事実」に姿を変える。プラトンは、人間のほとんどは意見の牢獄のなかで暮らしていると見て、牢獄から出て事実を見いださなければならず、人間はみな事実の発見の道へと進まなければならないと主張した。パルメニデスは変化を否定し、世界は本質的にひとつであり、変わることも消えることもないと考えた。これはプラトンやアリストテレスなど後代の哲学者に大きな影響を与えた。彼は論理的思考の先駆者として、感覚的経験より理性的推論を重んじ、哲学を形而上学的な探究へと発展させた人物と評価されている。パルメニデス以後、西洋人の考え方は、示顕と不顕の多様性を認めることを退け、正しいか誤りかという考え方へと変わっていく契機を迎えることになる。
プラトンとアリストテレスは、ピュタゴラスから霊魂論を学んだ。ピュタゴラスは「ピュタゴラス学派」を興し、数学と宗教的神秘主義に大きな影響を及ぼした。彼は、直角三角形において斜辺の二乗はほかの二辺の二乗の和に等しいというピュタゴラスの定理を打ち立てた人である。彼は世界の根本は「数」であると主張し、すべての存在と調和は数の比率で説明できると唱えた。彼は、宇宙の天体の運行は数学的な比率にしたがって調和をなしており、それは音楽の響きのようなものだと説明した。ピュタゴラスは、霊魂は肉体とは別に存在するものであり、宇宙の不変の真理のように永遠であると主張した。ピュタゴラスはインドを旅し、インドで輪廻思想に触れて霊魂論を組み立てたものと推測される。また、自分は生まれ変わった人間であり、自分の前世について知っていると信じ、宗教的な儀式の重要性を強調した。そこで彼は「ピュタゴラス教団」をつくって共同生活を営み、指導者として君臨した。彼は、霊魂は肉体が死んだ後も存在しつづけ、人間の本質は肉体ではなく霊魂であると主張した。
結局ギリシア文明では、パルメニデスの「真理の哲学」とピュタゴラスの「霊魂の哲学」がひとつになり、ソクラテスから真理と霊魂が結びつくことで、示顕論の核心が形づくられる。その後、プラトンとアリストテレスの時代に、示顕論はいっそう強力になった。重要なのは、アリストテレス以後、ギリシア文明がアレクサンドロス大王の時代へと移り、ヘレニズム文明が形成されるなかで、示顕論が西洋を代表する思想として定着したことである。数世紀後、キリスト教の登場とともに哲学と宗教が結びつき、西洋文明はさらに示顕論的に発展していった。
その結果、示顕論は1000年以上にわたって、絶対真理として西洋を支配することになる。西洋哲学史において、プラトンとアリストテレスの示顕論が大いに注目され、西洋に広く行き渡った。不顕論を唱えた思想家たちの著作と思想は、ほとんどが失われた。16世紀のラファエロの有名な絵『アテネの学堂』は、プラトンとアリストテレスを最も中心に置いて描かれている。ヘラクレイトスなどの不顕論者たちは、周辺の片隅に描かれている。結局この絵は、西洋の示顕論的な文明を絵によって代表する作品となった。
こうした文明のなかでは、不顕論者たちは生き残ることができなかった。4世紀から1000年がたち、14世紀のルネサンス以後、ギリシア・ローマの多元的な文明に帰ろうという新しい世界が広がった。しかし、形を変えただけで、示顕論の体系は西洋を支配しつづけた。デカルトに代表される西洋の合理主義こそが、啓示宗教の示顕論の思考を引き継いでいくのである。精神が神に取って代わる事態が始まったのである。17世紀のスピノザをはじめとする西洋の不顕論者たちは、示顕論者たちから犯罪者のように扱われ、自らの思想を十分に表現することが難しくなった。
21世紀に生きる我々もまた、西洋のパラダイムの影響を受けて、ソクラテス、プラトン、アリストテレスをギリシア文明の代表者とみなし、彼らから学ぼうとする。しかしそのために我々は、西洋の示顕論の立場に縛られたまま東洋の不顕の哲学を分析する、という誤りを犯しかねない。21世紀に生きる我々は、哲学的な視野を広げなければならない。21世紀は東西の文明が積極的に交流する時代であるから、東洋文明の核心をなす不顕の哲学を理解しなければならない。そのためには、ギリシアの不顕論者と示顕論者の対立関係を見ておくことが助けになる。
4) なぜ東洋は道を、西洋は神を選んだのか
道と神の概念は、東西の文明が互いに隔てられた状態で、数千年にわたって別々につくられた。道と神の出会いは、近世になってはじめて実現した。哲学的に東西の文明をはじめて経験し比較した人物がいる。マテオ・リッチである。彼は西洋のキリスト教の宣教師として16世紀後半に中国に派遣され、北京に住み、そこで死んだ。彼は中国の学者たちと多くの交流をし、中国の文化を直接経験しながら、その哲学的な側面についての見解をまとめて西洋に報告した。13世紀のマルコ・ポーロが東洋の文物についての経験を明かした『東方見聞録』とは違う、哲学的な次元の報告であった。とりわけ「絶対真理」の体系について、東洋文明の特徴に言及している。
東洋の文明は原始的であるどころか、ヨーロッパの文明より古く、東洋の人々は、言語と文学、そして西洋のキリスト教に比べてまったく引けをとらない、複雑で洗練された信仰体系を持っている。24
マテオ・リッチが感じたのはどのようなことだったのだろうか。彼は「東洋の信仰体系」をどのように理解したのだろうか。彼は東洋の儒学者たちとの長い交流を通じて、東洋の文明が絶対真理とみなす道について考えるようになったにちがいない。そして西洋が絶対的な真理とみなす神と、東洋が絶対真理とみなす道とを比べるようになったにちがいない。なぜ西洋は示顕の神を、東洋は不顕の道を選んだのだろうか。
西洋人は、自分たちが神を選んだのは神に選ばれたからだ、という考えを持っている。これは、ギリシア時代のアリストテレスから19世紀のヘーゲルまで続く西洋哲学の固定観念と軌を一にしている。ギリシア人だけが神から与えられた霊魂を持ち、西洋人だけが神から与えられた精神を持つようになったのは、すべて神の選択だというのである。アリストテレスは、霊魂を持たない非ギリシアの野蛮人は、獣に近い奴隷と変わらないと考えた。これは、モンテスキューからヘーゲルに至る人々が、「精神」をまともに持たない東洋人は奴隷根性を持つようになったと考えたのと似ている。25 彼らはそれを壮大な哲学思想に仕立てて合理性を与え、西洋人はそれに熱狂したのである。しかし、精神という形而上学的な主体を根拠にしたこうした主張には、「信じること」あるいは「信仰」以外に、納得できる根拠は何もない。ただ西洋人がそう考え、そう信じたかっただけなのである。
しかし、こうした自らつくった信念のほかに、別の説明が可能である。それは、すべての人間が生まれながらに持っている共通の存在理由である「自己保存」(self-preservation)の原則に見いだすことができる。自己保存の原則は、スピノザらが主張したように、人間の本性を含むすべての自然の実体を支配する原則である。神の啓示宗教も、道の自然法則も、自己保存の原則に根拠を置いている。精神は正しいか誤りかを判断する役割を果たすと信じられているが、結局、精神は、自己保存に役立つかどうかによって、最終的に判断し色づけする役割を果たしているのである。この説明に従えば、東洋と西洋はそれぞれ、自己保存に最も適した方法で道と神を選んだと言える。
東洋の地政学的な環境は、道を通じて自然のなかで最も効果的に自己保存ができる状況を人間に与えている。自然に集中した東洋の文化は、中国文化の発祥の地である黄河流域で季節の循環が繰り返されてきたため、自然現象についての知識が積み重なり、現象の法則をつかんで未来を予測したいと願った。そのため、非自然的な想像力を動員しなければならない神の必要性や、神を中心とした宗教的な色彩は不要になった。東洋では、西洋の宗教が持つ抽象的な世界や、哲学的な概念の分析が発達する必要がなかった。現実の生活と直結した自然現象についての、具体的で経験的な知識が積み重ねられていった。彼らにとって自然は偉大な師であり、最も完全無欠な存在として、あらゆる哲学の出発点となった。したがって東洋では、思弁と論理の追求を経て神や形而上学的な真理を探すのではなく、自然を手本とし、それを社会生活に当てはめて実践することで自然の道の真理を悟る、という文明が形づくられた。これこそが、西洋の啓示宗教と対比される東洋の自然哲学の根源となる。
西洋の文明においても、自己保存を決める地政学的な要素が最も重要だと言える。西洋の地政学的な環境のもとで、人々は東洋よりもはるかに過酷な生存のための闘争の歴史のなかに生きてきた。こうした環境では、神への確信が自己保存の最も効果的な方法となる。とりわけユダヤ人の歴史は、自己保存の環境のなかで最も過酷な試練を経た例を示している。ユダヤ人は、他民族との絶え間ない戦争のなかで捕囚となりながら、生き延びなければならなかった。聖書と歴史は、ユダヤ人が他民族の奴隷や捕囚として生きなければならなかったことを示している。モーセの時代である紀元前14世紀から前13世紀のエジプトでの捕囚生活、紀元前6世紀のバビロン捕囚などがあった。紀元前14世紀から前13世紀のエジプトの唯一神である太陽神の思想と、紀元前7世紀から前6世紀のペルシアの唯一神を奉じる拝火教の思想は、ユダヤ民族のユダヤ教の思想に少なからぬ影響を及ぼした。ユダヤ人、エジプト人、ペルシア人はみな、異民族との絶え間ない闘争を通じて生存を図らなければならなかった。彼らはみな、強力な唯一神を信じ、そのもとで生き延びるために結束する必要を感じていた。とりわけ、これらの唯一神論に共通する点は、善と悪の区別がはっきりしていることである。唯一神を通じて善悪の区別を明確にし、自分の側は善の側にあり、自分の敵は悪の側にあることを、はっきりと認識した。いずれも、こうした絶対的な神を信じることで、自らの生存に役立てたのである。
紀元前538年、ペルシアのキュロス大王がバビロンを征服したことで、ユダヤ民族はようやくバビロン捕囚を終えて故国に帰ることができた。その後、ユダヤ民族はモーセ五書をつくりはじめた。紀元前5世紀中ごろ、ユダヤ人がエルサレムに戻った後、エズラがこれを完成させた。ユダヤ人は生き延びるために、絶対的な唯一神を信じる信仰の思想を体系的につくり、発展させていった。超自然的な存在に頼ることが必要だった厳しい環境のなかで、ユダヤ人は神の戒めという厳格な律法への絶対的な信仰を持って、競争を生き抜いた。これを支えとして、自己保存に成功したのである。
西洋人には、過酷な闘争のなかで生き延びなければならなかった歴史のほかにも、神を選ぶ別の地政学的な要因があった。それは、東洋の農業に対する、西洋の航海の歴史である。3000年以上にわたって、西洋人はエーゲ海、地中海、北海、大西洋、インド洋、太平洋へと進出しながら、積極的な海洋文明を志向するようになった。西洋は開かれた世界で、航海を通じて進出し、膨張してきた。一方、東洋は数千年にわたって、東アジア大陸という閉じた環境のなかで成長してきた。このように、開かれた世界と閉じた世界、この二つの違いが、今日の東西文明の違いを生み出しているのである。26
西洋は開かれた世界で精神という現象を重んじ、精神と本能の分離を前提として、精神に基づく自由と闘争を追求する。開かれた世界では、海を相手にする船長が自ら王になるのに必要な自由と、闘争での勝利が求められ、そこには自分の能力、すなわち精神的な能力を重んじる傾向が生まれる。
海に乗り出した船乗りたちは、航海というものが自分たちに開いてくれる新たな地平、すなわち特別な自由と機会を、すぐに感じとったにちがいない。彼らはたやすく島々へと進出することができたが、すでに船に乗って去った彼らを、どんな王も部族長も確実に追いかけることはできないと知ったにちがいない。つまり、どの船の船長も、自ら王になることができたのである。27
こうした活力と進取性を力強く支えるのは自分の精神的な能力であり、精神的な能力、すなわち精神は、神に頼って育てられていく。航海を重んじたギリシア・ローマ文明、ヴァイキングの文明、近世の西洋文明は、いずれも神に頼っていた。西洋文明が超自然的な神を追い求めたのは、開かれた世界で必要な活力と進取性、そしてそれが効果的に頼ることのできる確信と絶対者を必要とする環境のためであった。
道教と儒教が、春秋戦国時代というおよそ700年にわたる、戦争と競争を主とする環境のなかで生まれたという点では、西洋との類似がある。しかし、闘争の環境のなかで東西の生き残りの方法が異なっていたことに目を向けなければならない。彼らの戦争は、西洋のように異民族を絶滅させたり奴隷にしたりして自分だけが勝とうとする戦争ではなく、同じ民族、同じ文化を共有する者どうしの戦争と競争であった。西洋の歴史では、民族全体の絶滅、捕囚生活、奴隷への転落という過酷さのなかで自己保存を図るために、神の戒めという厳格な法の体系が必要であった。しかし東洋の地政学的な条件は、同じ文化を持つ同じ民族どうしの生存競争であったから、神の戒めのような性格の厳格な法治よりも、倫理のほうが自己保存に役立ったと見ることができる。
結局、自己保存の原則から、東西の絶対真理は異なる形で形成される。道も神も、人間の心から出た表現である。人間の心は、道と神より前にすでに存在していた。
人間は信仰心によって天への畏敬を表し、また祖先を敬うことで正しい心を持つようになる。しかし人間の心は、神への信仰心と祖先への敬意より前から、すでに存在していた。28
東西を貫く人間の心はひとつである。人間の心が絶対真理を求めて、東洋では道の概念を、西洋では神の概念をつくり出す。これは、東洋と西洋がそれぞれ置かれた地政学的な条件に合わせて、自己保存の原則を守ろうとする努力のひとつなのである。