1) 道は神より先にあった vs 神は道より先にあった
東洋の道の文明では、道は神より先にあったと述べる。「鬼を神にし帝を神にし、天を生じ地を生ず」(『荘子』内篇・大宗師)。神の概念は、自然のなかに生きる人間がつくり出したものである。自然とは道である。29 自然とは「おのずからそうであるもの」という意味である。自然は無限であり、永遠である。
天は長く地は久し。天地の能く長く且つ久しき所以の者は、其の自ら生ぜざるを以て、故に能く長生す。(『道徳経』第7章)
ギリシアの哲学者ヘラクレイトスは、道の哲学と同じ宇宙論を持っていた。彼は、宇宙、コスモスは神より前にあったと説明した。
宇宙、コスモスは永遠のものであり、神や人間がつくったものではなく、つねにあったし、いまもあり、これからもあるだろう。30
ベーコン(1561―1626)のような哲学者は、自然に魅せられていた。中世の1000年のあいだ、西洋では神を中心としない考えや哲学は禁じられていた。その影響で、ベーコンは慎重にならざるをえなかった。彼は神と自然を結びつけることはせずに、自然の重要性をきわめて強い言葉で強調している。
人間は自然の僕であり、自然の解釈者にすぎない。人間の理解力は、自然についての思索と、その真実の観察からのみ生まれる。これ以外に、人間は何も知ることができず、何もすることができない。31
自然の重要性は、ベーコンの後、哲学者スピノザ(1632―1677)において決定的に表現される。スピノザは神を自然と見た。西洋の中世哲学が神を中心としていたため、スピノザは神を自然に照らして説明することになる。彼が神と自然を結びつけたことで、自然が彼の哲学の中心に立つのである。
自然は何らかの目的のために働くのではない。我々が神すなわち自然と呼ぶこの永遠の存在は、それが存在するのとまったく同じ必然によってのみ働く……自然は何らかの目的のために存在するのではない。その行為も同じである。その存在と同じく、その行為にも原理も目的もない。32
西洋の啓示宗教では、「始まり」を宇宙の核心としている。始まりという概念には、当然、目的論が含まれる。バートランド・ラッセルはこう述べている。世界に始まりがあったと考える理由はまったくない。世界に始まりがなければならないという考えは、実は我々の想像力の貧しさによるものである。彼は、「自然には目的がない」という『道徳経』と同じ自然哲学的な理論を持っていた。
自然はそれ自身の目的を持っていない……究極の目的というものは、人間の想像力がつくり出したものにすぎない。33
こうした東洋の道の見解と、西洋のヘラクレイトス、ベーコン、スピノザ、ラッセルの見解は、いずれも自然に焦点を当てる自然哲学として説明することができる。これとは異なる宇宙観は、啓示宗教を唱える西洋で展開される。西洋では、神が自然を創造したのだから、神は自然より先にあったと主張する。西洋では、神が天地を創造したのだから、神の創造の前には自然はなかったと考える。神が創造した地球が宇宙の中心であり、人間はその真ん中に位置する。モーセ五書の創世記には、神が何もない無から天地、自然、人間を創造し、有の世界へと入っていく説明が記されている。
はじめに神は天地を創造された。(創世記1:1)
地は混沌として何もなく、闇が深淵の上にあり、神の霊が水の面を動いていた。
神が「光あれ」と言われると、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕となり、朝となった。第一の日である。(創世記1:2―5)
聖書によれば、神は6日で宇宙を創造する。創造の順序は次のとおりである。第一の日、光。第二の日、天。第三の日、海と陸、そして植物。第四の日、太陽、月、星。第五の日、魚と鳥。第六の日、地上の動物と人間(人間は神のかたちに似せてつくられた)。そして7日目に休む。こうして世界は、無秩序から秩序へ、混沌から整えられた世界へと進んでいく。この創造は、神の「言葉」によってなされる。
中国にも天地創造の神話がある。盤古という存在が、巨大な斧で混沌を割り、天と地を分けた。そして天を1万8000年のあいだ支えて成長し、死ぬとその体は自然に変わった。34 目は太陽と月に、息は風と雲に、声は雷に、血は川と海に、骨は山脈に、毛は草木に、汗は雨に、ノミは動物と人間になった。
はじめに盤古という神がいた……死ぬときになると、その体は自然に変わった……その髪と毛は草と木になり、その目は太陽と月になった……その体に取りついていたノミたちは、地上のさまざまな動物と、さまざまな種族の人間になった。35
神の体が自然の各部分になったという思想は、スピノザが影響を受けたユダヤ教のカバラ(Kabbalah)哲学の主要な概念のひとつに、そのまま表されている。カバラの「収縮」、ツィムツーム(Tzimtzum)という概念である。36 これは「神が自らの無限性を収縮させて世界を創造する」と規定するもので、盤古の創造神話にきわめてよく似た天地創造の概念となる。(こうした過程で、スピノザは「神と自然は同一である」という結論に達する。)
この神話によれば、盤古が自然になったのは1万8000年前である。では、創世記の神による自然の創造は、いつなされたのだろうか。盤古の神話とは違って、創造の文明である西洋文明では、神が宇宙を創造した次第が詳しく記録されている。西洋の哲学者たちは数千年にわたってこれを信じ、少し前までは自然が創造された「日付」を計算していた。6日間の創造の後、最初の人間アダムが930年生き、その子孫たちがそれぞれ何年生きたかが、すべて記録されている(創世記第5章)。また新約聖書の福音書は、アブラハムからイエスに至る系図を詳しく記している(マタイによる福音書1:1―17)。
西洋の哲学者たちは、聖書の記述にしたがって、天地創造からイエスの誕生までの日付を計算するようになる。こうした計算によれば、天地創造は紀元前4000年ごろに起こった。こうした計算法は続けられ、中世の初期には正確な日付までが示された。西洋では、天地創造の計算法は多くの哲学者によって17世紀まで続けられた。こうした考え方は、啓蒙時代の理神論(Deism)と科学の発展によって消えていった。理神論とは、超越的な神は自然を創造した後は、もはや人間の営みに干渉しないという主張である。37 理神論は有神論の預言者や奇跡などを否定するが、神が自然を創造したという点では有神論と違いがない。
道と神のどちらが先にあったのかという問いへの答えにおいて、東洋と西洋は異なる宇宙論を持つことになる。これを出発点として、東洋と西洋は異なる文明の構造を持つことになる。この問題は、人間が宇宙をどう説明するかという自然現象の解釈に直結している。地動説と天動説がかかわってくるのである。
啓示宗教の天動説 vs 自然哲学の地動説
『道徳経』は、「帝の先に象たり」(第4章)、「物有り混成し、天地に先だって生ず」(第25章)と記し、自然と宇宙が神より先にあったとしている。反対に西洋では、「はじめに神は天地を創造された」、つまり神が自然と宇宙より先にあったと記している(創世記1:1)。ここで、人間とは何者かという問いへの答えに、東西で違いが生まれる。宇宙論から見れば、西洋の創造論は、人間の住む地球が宇宙の中心であるという天動説を土台としている。つまり天動説が創造論に内在しているのである。反対に東洋の自然哲学は、宇宙が中心であり、人間は宇宙の一部であるという説明を受け入れることになる。
西洋の創造論については、教会の影響によって、西洋人はこうした記録を一字の疑いもなくそのまま信じるよう教育されてきた。そのため、ほとんどすべての西洋人が、17世紀後半の啓蒙時代に至るまで創造論を固く信じていた。そしてこうした創造論の基礎には、自然は人間が思うままに支配できるように神がつくってくれたものだ、という設定がある。西洋人は自らを、「神のかたちに似せてつくられた人間として、海の魚、空の鳥、地を這うすべてのもの、そして地の全体を治める」ようになっている存在だと信じてきた。啓示宗教の天動説は、地球と人間が世界の中心であり、宇宙は地球のまわりを回っていると信じた。その結果、ヨシュアのように、太陽を止めてくださいと神に祈ることができたのである。
彼はイスラエルの人々の目の前で叫んだ。「太陽よ、ギブオンの上にとどまれ。月よ、アヤロンの谷の上にとどまれ。」すると民が敵に報復するまで、太陽はとどまり、月は動きをやめた……。太陽は天の真ん中にとどまり、ほぼ一日じゅう、急いで沈もうとしなかった。主がこの日のように人の声を聞き入れられたことは、前にも後にもなかった。(ヨシュア記10:12―14)
西洋人は16世紀まで、アリストテレスとプトレマイオスの天動説を支持し、地球が世界の中心であり、地は平らで、天体がその上に浮かんでいると考えていた。この仮説は、モーセ五書の創世記の天地創造の描写と一致していた。創造論によれば、神は人間を創造するにあたって目的を与えた。西洋の創造論では、神が人間に自然を支配する権限を与えたのだから、人間は宇宙の中心にいることになる。人間は、自然を支配し神を崇めるというはっきりした目的を持って生まれてくる。そのため、ギリシア・ローマの人々も中世の西洋人も、自分たちが宇宙の中心であるという揺るぎない信念を持って生きていた。
ギリシア・ローマの人々にとって、人間が宇宙の中心であるという考えには、航海が重要な役割を果たすことになる。航海は、天体の動きを観察してはじめて可能になる。人間を中心に地球が宇宙の真ん中に位置し、天体が地球を中心に動いているものとして、宇宙を描こうとしたのである。これこそが、聖書やアリストテレスらが支持した「地球中心の宇宙観」、すなわち天動説であった。この時代のほとんどの西洋人が信じていた天動説は、地は平らで、太陽をはじめとする天体がみな地の上の空に浮かんでいると考えるものであった。
こうした天動説は、天体を観測し、自然を観察していた人々によって挑戦を受けることになった。地動説の登場である。西洋では、自然と人間の関係について考える人類の能力が、中世から近世へと入る時期に決定的な変化を経験した。人間と自然の関係を根本から修正するきっかけが生まれたからである。天動説から地動説への変化が起こったのである。太陽を天にとどめたヨシュアの奇跡は、16世紀から17世紀にかけて挑戦を受けることになる。コペルニクス(Copernicus、1473―1543)、ケプラー(Kepler、1571―1630)、そしてガリレオ(Galileo、1564―1642)の天体観測という科学的事実に基づいて示された「太陽中心の宇宙観」、すなわち地動説が唱えられた。彼らは、地球は宇宙の中心ではなく、太陽を中心としてそのまわりを回っているという地動説を主張した。
彼らが主張した科学的事実もまた、かなりの期間、天動説を唱える宗教の影響によって、長いあいだ挑戦を受けることになった。科学の発展が、西洋の歴史に根を下ろしていた哲学体系を覆すのは容易ではなかった。地動説が西洋の知識人のあいだにかなり広まった後でも、宗教改革運動の先鋒であるルターは、なお聖書の権威に頼って天動説を主張していた。マルティン・ルターは、コペルニクスの地動説に強く反対した。
コペルニクスは成り上がりの占星術師だ。この愚か者は天文学のすべてをひっくり返そうとしている。しかし聖書は我々に教えている。ヨシュアが動くなと命じたのは太陽であって、地球ではない。38
地動説は、神が地球と人間をとくに創造されたという聖書のドグマに内在する「地球中心の宇宙観」を否定した。これは聖書の天動説を揺るがす途方もない出来事であった。聖書と教会は誤ったことがないという無謬性と、誤ることがありえないという無誤性の誤りを指摘する、天地がひっくり返るような出来事だったのである。
太陽を中心に地球が動いているという彼らの観測の結果を、ローマ教皇庁は必死になって弾圧することになる。天動説によれば神は太陽を止めたのだが、彼らの地動説に従えば、太陽はもともと動かず、地球の自転を止めなければならなかったことになるからである。当時これは、天がひっくり返るほど深刻な問題であった。西洋の人々はみな聖書無誤説を固く信じており、それに反する主張はただちに宗教裁判の対象となった。そして、こうした聖書無誤説が科学的な観測による事実に基づいて挑戦を受け、一か所でも誤りが認められれば、それが堰を切ったように働いて、聖書無誤説の原則が崩れてしまうからである。地動説は長い闘いを経た後に、ようやく事実としての地位を確保することができた。彼らが主張した天体の運動についての地動説は、啓示宗教のドグマではなく、自然の観察から生まれたものである。
天動説に対する地動説は、すでに紀元前3世紀に唱えられていたが、2000年近くのあいだ歴史のなかに埋もれて、その存在さえ知られず、ルネサンス期になってようやく再発見された。西洋では紀元前3世紀、当時の西洋世界の中心であったアレクサンドリアで、幾何学と天文学の観測が盛んに行われた。アリスタルコス(紀元前310ごろ―前230ごろ)は、地球から月までの距離と、地球から太陽までの距離を実際に計算した。彼は、肉眼では月と太陽は同じ大きさに見えるが、太陽は遠くにあるので月より20倍以上大きいと主張した。エラトステネス(紀元前276ごろ―前195ごろ)は、紀元前3世紀にすでに地球の周囲の長さをほぼ正確に測定した。彼は地球が丸いことを知っており、また閏日を考案した科学者でもあった。こうして彼らは、人類ではじめて地動説を唱えることになった。しかし彼らの地動説は、天動説を固く信じていた当時の哲学者たちから異端者と呼ばれ、非難されることになった。
こうした天動説と地動説の違いは、人間の宇宙観、人間と自然の関係、宇宙のなかでの人間の位置、生きる目的など、あらゆるものを変えうる重大なパラダイムの転換をはらんでいた。しかしアリスタルコスとエラトステネスの地動説は、その時代の必要からあまりに先に進みすぎていた。地動説は、およそ2000年後、コロンブスが1492年に大西洋を渡ってアメリカに到達し、ヴァスコ・ダ・ガマが1497年にインド洋を経て東洋に到達し、マゼランとエルカーノが1519年から1522年にかけて大西洋と太平洋を経て地球を一周するまで、天動説の有効性に押されて待つことになった。
天動説と地動説をめぐるこうした経緯は、いわゆる真理やパラダイムの「適切性」について多くのことを説明してくれる。真理は、人間の活動によってその必要が現れるまで、適切性を持たないということである。哲学もここに含まれる。歴史によって人間がその必要を感じるまで、哲学は、それが真理に合っているかどうかにかかわりなく、適切性を持たないのである。
海洋遠征によって現実の必要が生まれた地動説は、コペルニクス、ケプラー、ガリレオらが、太陽を中心に地球が動いているという観測結果を発表するにつれて、しだいに事実として認められるようになった。地動説は、人間の宇宙観を含む思考の全体にパラダイムの転換を引き起こした。宇宙はどれほど広大なのか。宇宙に目的はあるのか。宇宙はどこから来たのか。どのように動くのか。どこへ向かっているのか。こうした宇宙的な問いについて、我々は何も知らない。39
天動説と地動説の問題提起では、地球、すなわち自然の創造説だけが問題になり、人間の創造説は無事にやりすごすことができた。しかしこの状況は19世紀にふたたび挑戦を受けることになった。その挑戦はダーウィンの進化論によるものであった。人間は、聖書に説かれているように神が泥からこねてつくったのではなく、ほかの動物から進化してきたものだという事実を、ダーウィンは科学的な根拠に基づいて示した。これによって、聖書が示す人間中心の創造論と宇宙観の核心理論が、ふたたび挑戦を受けることになった。
2) 道は自然 vs 神は超自然
道は自然の法則であり、神は超自然的な存在である。「道は自然に法る」(道法自然)、道は自然を表す。道とはすなわち自然である。超自然的な奇跡を認める「啓示宗教」と比べると、東洋の文明を支配する道は、自然を表す「自然哲学」である。自然の法則である道は、自然と宇宙の法則を超越する存在については考えない。当然、超自然的な宗教は、自然哲学に拠る東洋の文明では生まれない。40 現在でも、韓国を除けば、東アジアの国々でキリスト教を含む啓示宗教を信じる人は2~3%ほどである。
『道徳経』には、超自然的な神についての言及も分析もまったくない。自然についての説明があるだけである。預言者もいなければ、律法もない。老子は預言者ではない。一方、モーセは預言者である。モーセ五書によれば、西洋の神は、モーセの懇願に負けて名を教え、奇跡を行い、モーセと一対一で語り合い、シナイ山で自らの姿の一部を見せ、正義の神、怒りの神、ねたむ神などとして表され、自ら指で十戒を石に刻んでモーセに渡しもする。いずれも神が人間の営みに介入するしるしである。預言者は神の代理人となり、やがて祭司階級を形成してその頂点に立つ。啓示宗教が形成されるのである。後継者も生まれる。モーセの後継者はヨシュアであり、彼は太陽を止める奇跡を神に求めて、それを成し遂げる。これによって戦争に勝つことができ、約束の地を占領するのである。
西洋の神のイメージは、モーセがシナイ山で十戒を授かり、神と人間が契約を結ぶ出来事に集約されている。西洋の神が東洋の道と違う点のひとつは、人間の社会に介入するとき、超自然的な「奇跡」を用いることである。神は自然を創造した超自然的な存在である。奇跡は超自然的であり、反自然的である。自然の秩序の上に立つ行為、あるいは自然の秩序に反する行為である。41 モーセは神から、イスラエルの民を救えという召命を与えられた。モーセはこれを果たすために神の助けを求め、その助けは奇跡という形でなされた。
モーセは答えた。「彼らがわたしを信じず、わたしの言うことを聞かずに、『主があなたに現れたはずがない』と言ったら、どうしましょう。」主は彼に言われた。「あなたの手にあるものは何か。」彼が「杖です」と答えると、主は言われた。「それを地に投げよ。」モーセが杖を地に投げると、それは蛇になった。(出エジプト記4:1―3)
このように、モーセの求めに応じて、神は奇跡を行いはじめる。神は、ナイル川の水を血に変えることに始まり、エジプトの長子と家畜の初子を殺すことにまで至る十の災いという奇跡を通じて、ファラオを説き伏せ、脅して、イスラエルの民の脱出を助ける。その後も神は、モーセがイスラエルの人々をエジプトから乳と蜜の流れる約束の地へと導くのを見守り、モーセを助けて紅海を分けて道をつくる奇跡を行い、荒れ野ではマナとうずらを食物として降らせる奇跡も行う。
一方、超自然的な奇跡という現象について、『道徳経』には一切言及がない。超自然も反自然も認めず、すべては自然のなかで説明されると考えるからである。世界の万物には自然の道が内在しており、この世界で起こることはすべて自然現象であると見たのである。この点で、道教と儒教は同じ立場をとる。『論語』に出てくる孔子の言行は、彼が奇跡を信じていなかったことを示している。儒教は、奇跡、呪術、妖術、迷信といったものに関心を向けるなと説いている。
子は怪、力、乱、神を語らず。(『論語』述而7:20)
そして、こうした怪力乱神にかかわる教説の研究をしないよう戒めている。この点を強調するために、君子は器のように他人が設けた奇妙な論理にそのまま従う役割を果たさない。形而上学的な論理に対する戒めである。「君子は器ならず」という言葉がそれである。
君子は器ならず(君子不器)。(『論語』為政2:12)
こうした姿勢は、戦国時代末期の思想家として儒家と道家の思想を結びつけようと努めた荀子(紀元前298ごろ―前238)によって、いっそうはっきりと説かれる。奇跡を信じる西洋文明と対照をなす哲学である。
星の隊ち木の鳴るや、国人皆恐る。曰く、是れ何ぞや。曰く、何も無きなり。是れ天地の変、陰陽の化、物の罕に至る者なり。之を怪しむは可なり、而して之を畏るるは非なり。(『荀子』天論)
一方、西洋文明において神は、東洋の道とは異なる奇跡の業を示す。奇跡を行う神は、シナイ山の近くでモーセに十戒を与え、ついにイスラエルの民と神のあいだに厳格な「契約」が結ばれる。西洋の神は奇跡を行いつづけ、イスラエルの民との契約を守ってきた。42 出エジプト記34:11で、神は「わたしが今日あなたに命じることを守りなさい。見よ、わたしはあなたの前から、アモリ人、カナン人、ヘト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払う」と言った。また神は、モーセの後継者ヨシュアに約束の地を征服するのに必要な戦略と作戦を教え、天から大きな雹を降らせて敵軍を殺し、太陽を一日のあいだ止めて、ヨシュアを勝利に導いた。
東洋の道は、人間とどんな契約も結ばない。だから、どんな個人も、部族も、国家も、道を自分のものだと主張することはできない。東洋の哲学体系は、自然哲学である道を絶対真理として信じる。一方、ギリシア・ローマ時代には、西洋の部族や国家はみな、それぞれ自分たちの神を持っていた。神に対する西洋のこうした信仰は、紀元4世紀に啓示宗教としてのキリスト教がローマの国教となってからいっそう強まり、中世の1000年へと続いていく。近世の啓蒙時代には、西洋で理神論によって奇跡を否定する運動が起こったが、神が宇宙を創造したという事実への信仰は続いていく。東洋の道と西洋の神は、それぞれ自然哲学と啓示宗教の体系として人間に近づくのである。
3) 宇宙はどこから来たのか:無 vs 有
『道徳経』とモーセ五書は、道と神のどちらが先かという立場を定めたうえで、宇宙の根源と原理について説明している。ここで東西の哲学体系に共通して示される概念が、無と有の概念である。宇宙の根源とは何か。空っぽの空間、すなわち無なのか、それとも満たされた有、すなわち星々なのか。東西の文明は、宇宙の根源が何かという点で根本的な違いを見せている。東洋の文明では、有は無から生じ、すべてはやがて無に帰ると説く。これが東洋の表す自然の法則である。無と有は結びついているが、無が中心である。
天下の万物は有より生じ、有は無より生ず。(『道徳経』第40章)
一方、西洋の文明では、無秩序からの創造として表される創造の過程が核心である。創造された有を強調しながら、宇宙の根源は無、すなわち非存在ではなく、有、すなわち存在であるという説明を示す。有は無を克服した存在の始まりである。無には意味がなく、有があらゆる意味を持つ。神が超自然の奇跡を行う行動、すなわち有が、存在の中心である。有は、闇である無に取って代わる光として表される。
神が「光あれ」と言われると、光があった。(創世記1:3)
啓示宗教の哲学は、紀元前5世紀のギリシアでパルメニデスが唱えた「有だけが真実であり、無はまやかしである」という考えと相通じている。パルメニデスは詩『自然について』で、自然の現象や変化ではなく、真理と存在についての哲学を明らかにしている。彼は、有(存在)だけが真実であり、無(非存在)は存在しえないと主張した。無は語ることも考えることもできない虚構だという主張である。彼は、感覚は人を欺き、精神だけが真理を認識すると確信していた。存在は単一で、不変で、永遠であると主張した。さらに彼は、存在しないものを我々は考えることができないのだから、思考と存在は同一であると詩のなかで述べた。こうした主張は、プラトンやアリストテレスなど後代の哲学者の引用を通じて知られるようになった。これは、西洋の哲学体系に形而上学の風潮を起こすのに決定的な役割を果たした。
世界を理解するまったく異なる二つの接近法が形づくられ、数千年にわたって続いてきた。二つの接近法は、人間の営みにかかわるもの、世界と自然を理解する接近法、それぞれに異なる思考の進め方にかかわるものである。こうした異なる方法、すなわち西洋的なものと東洋的なものは、互いの影響を受けることなく、別々に生まれ、育ってきた。43
東洋の宇宙観において、無は単に「ないこと」を意味するのではなく、有と対をなす概念である。東洋の変化論にしたがって、無と有は変化していく。無は、より根本的な存在、つくられていないもの、あるいは世界が形づくられる前の根源的な状態を表す。これに対して有は、我々が日常で経験する世界、変化する状態、生成と消滅の世界を意味する。したがって道教における無極や無は、単に「ない」ことを意味するのではない。それは、有に先立つ、我々の日常の感覚では捉えがたい、より深く根本的な存在や状態を指しているのである。
名無きは天地の始め、名有るは万物の母……此の両者は、同じく出でて名を異にす。
(『道徳経』第1章)
西洋では、宇宙創造の始まり、世界の第一日など、聖書の主要な出来事を絵と解説で表した木版画集が出版された。これはドイツのニュルンベルクで制作されて『ニュルンベルク年代記』(Nuremberg Chronicle)と呼ばれ、1493年に初版が刊行された。この版画集は、まさに天地創造の第一日についての版画から始まっている。西洋の文明において、無秩序である無から創造された有の存在性を際立たせているのである。カオス(無秩序)からユニバース(秩序)へ、すなわち創造が始まることを告げている。有の創造によって、無すなわち非存在は消え去る。創造によるすべての個体は、「変わらない存在論」に立脚することになる。
『ニュルンベルク年代記』の刊行とほぼ同じ時期の15世紀から、道教は東洋の宇宙観を込めた太極図を用いはじめた。太極図は、無を意味する無極から始まって太極をなす。太極は二つの部分に分かれるが、それは陰と陽を意味する。44 太極図の図案が用いられはじめたのは15世紀だが、太極図に込められた陰陽の概念は、2000年前に書かれた『道徳経』にもはっきりと描かれている。「万物は陰を負いて陽を抱く」(『道徳経』第42章)。こうした宇宙観は、万物が「陰と陽から成る変化論」のなかで調和をなしているという宇宙の原理を表している。
4) 宇宙はどのように動くのか:変化論 vs 存在論
東洋と西洋は、「宇宙の根源」、すなわち宇宙の根を正反対に設定する。東洋は世界を絶え間ない変化と関係性として理解し、西洋は世界を存在の本質と構造として捉えた。つまり東洋は「すべては変わる」ことに目を向け、西洋は「何が存在するのか」に集中した。こうした思考は、宇宙はどこから来たのかという宇宙の根源をめぐる東西の違いから来ている。東洋の無と西洋の有が、東西が見た宇宙の根源の違いである。「宇宙の根源」の違いによって、東洋と西洋は「宇宙の原理」を異なるものとして設定する。東洋の変化論と西洋の存在論がそれである。
東洋では、無から有へと変化するなかで、無も有もともに価値を持っている。無と有の変化論が核心となる。しかし西洋は、有、すなわち存在にすべての価値を与える存在論を、哲学的思考の核心とする。「無の変化論」と「有の存在論」の違いである。東洋は存在を、流れと関係のなかでの変化として捉える。西洋は存在を、固定された実体と本質として見る。
西洋哲学は「存在とは何か」という実体についての問いから出発し、行動は存在の本質を表す方法として理解される。人間は独立した主体として、自らの選択と自由を通じて行動を規定するという、個人中心性が強調される。これにしたがって合理性が重んじられ、行動は論理的・倫理的な基準にしたがって評価され、存在の意味を探究する過程で規範が形づくられる。東洋の変化論は、西洋の存在論と対照をなす、宇宙観にかかわる哲学的思考である。西洋の存在論では、神の天地創造から始まる存在が西洋哲学の核心である。存在論では、変わらない人間の本性を根拠とする律法の重要性が強調される。ユダヤ教の律法は、ユダヤ教の預言者たちが神から受けた啓示であり、「神の言葉」(Word of God)である。神は「究極の存在」(Ultimate Being)として、創造された存在の現れ、すなわち有がすべての始まりであるという点が重んじられる。西洋の人間の営みでは、有為(ゆうい)の思想に立脚する律法を重んじる伝統と哲学が、そのまま現代社会まで続いている。存在を「固定された実体」として捉え、存在の本質と構造を探究する形而上学へと流れていった。東洋は動的・統合的な世界観を、西洋は静的・分析的な世界観を強調するようになる。
西洋文明が発達するにつれて、こうした伝統と哲学は、西洋の法律、制度、モデルを重んじる形へと発展する。繰り返しになるが、こうした哲学は、創造された存在は永遠に存在するという存在論に立脚している。そのため西洋は、自らの制度とモデルは永遠の存在論に根拠を置いているとみなして、それらに大きな重要性を与え、これらの制度とモデルが全体と結びついていることから、それを重んじて、西洋文明を広める手段とするのである。
変化論は東洋の文明を理解するうえで核心的な概念だが、西洋は存在論的な形而上学に没入しているため、変化論は理解しにくい概念となる。英語では、変化論は transformationism、存在論は ontology と表される。45 東洋の文明では、宇宙の変化を易の観点から理解してきた。「易」という文字は「変化」を意味する。易は、トカゲの皮膚の色の変化、あるいは太陽と月の周期的な変化を象徴する象形文字に由来する。この変化論という概念は、紀元前3000年から東洋で広く受け入れられてきた概念である。変化論を収めた『易経』は、紀元前1000年ごろに始まる最も古い中国の哲学的古典であり、道家と儒家の哲学に変化論を植えつけることになる。46
変化は実在の根本的な属性である。現代物理学の量子力学が唱える変化論も、こうした属性を共有している。これは、古典物理学における、独立した実体が存在するという存在論と対照をなす。東洋が見た宇宙の原理は、無と有を行き来する変化論となる。東洋の思考は、変わらない存在からではなく、すべてがつねに変化しているという変化論から出発する。変化論とは、存在を固定された実体としてではなく、関係と過程として理解しようとする哲学である。変化論で分析すれば、「存在する」とはすなわち「変化する」ということなのである。
西洋の宇宙論では、無は存在しないので「有の宇宙論」となる。有の存在ひとつだけに集中し、哲学的には存在論として説明される。パルメニデスは「存在は生成することも消滅することもなく、全体であり、不変であり、完全である。それはかつて存在し、いま存在し、未来にもつねに同じように在るだろう」と主張した。彼は「非存在は語ることも、考えることもできず、存在もしない。考えることのできるのは、存在するものだけだ」と主張した。こうした存在論が、プラトンとアリストテレスの示顕論と形而上学の基礎となった。「存在を創造する」西洋の宇宙論の核心は有にある。無秩序のカオスから創造された有は、存在論によって、その不変の属性をそのまま保ちつづける。47
西洋の存在論は、哲学思想が宗教的信念と結びつくことで、いっそう強化される。啓示宗教の考え方では、神が創造したものは変化してはならないという存在論が基礎となる。西洋では、変化を認めるときにも、変化のなかにある不変の要素を重んじて、やはり存在論の枠のなかで扱っている。プラトン哲学で、現実の変化の背後に不変の本質であるイデアが存在すると主張するのがそれである。変化は付随的な現象であり、本質は不変だという存在論である。こうした思考は17世紀のデカルトが受け継ぐ。彼らは不変の実体である物質や精神を存在の根本として扱い、哲学体系を組み立てていった。西洋では存在論とそれを基盤とする形而上学がきわめて重要であるため、デカルトは近代哲学の父と呼ばれるのである。
東洋の変化論の観点は、東洋の哲学体系にそのまま反映されている。東洋の古典のどこにも、創造者や創造という概念はない。宇宙や自然のすべては、創造のような行為によるのではなく、すでにあったものであり、変わりつづけながら、我々が目にする現象をつくっているのである。広大な宇宙を見ても、すべてがつねに動き、変化している。一度として休むことはない。変化には目的もなく、その核心をつかむこともできない。だからこそ、変化論の不変性は、ある意味で、あらゆる変化を可能にする基礎となる。こうした哲学、すなわち宇宙の変化から生まれたのが、変化の流れに従う道の概念なのである。
東洋の変化論は、ないもの(無)とあるもの(有)の関係を通じて宇宙を理解しようとする哲学である。無は単なる「ないこと」を意味するのではなく、有を可能にする根源である。無は創造の可能性であり、有はその実現である。宇宙の根源は無となるが、無は空っぽであることではなく、潜在性と可能性の源となる。宇宙の流れは無と有の運動となり、生滅と盛衰という陰陽の変化を通じて、宇宙は無と有のあいだを絶え間なく循環する。変化論とは、存在ではなく「変化そのものが宇宙の原則である」という意味を持つ。つまり「存在する個体が変化する」ことに重きを置くのではなく、「変化そのもの」に重きを置き、個体には重きを置かない。変化することによって、個体もまた変わるからである。
一方、存在論では存在する個体が中心である。それは変化にかかわりなく、そのまま存在の価値を持つ。ここから、存在論(ontology)と目的論(teleology)、そしてそれを認識する認識論(epistemology)などの形而上学が、西洋哲学の核心をなすことになる。西洋の哲学体系では、存在の反対は非存在となる。こうした西洋中心の思考では、東西の比較は不可能である。東西の比較において、存在論と比べられるのは非存在ではなく変化論である。つまり、有と対をなすのは無ではなく、「無と有の変化」なのである。結局、変化論と存在論は、東西の文明の思考を、まったく異なる哲学体系の上に立たせる。神が創造したものは目的を持っていなければならない。存在論、目的論、認識論といった形而上学的な傾きを持つ哲学体系は、変化論を核心とする東洋の思考では発達しえず、東洋哲学では重要でない概念となる。48
変化論によれば、宇宙は存在論が想定する固定された実体ではなく、変化する過程である。宇宙や自然は、存在論が想定する目的や道具ではなく、変化論にしたがって永遠に変わりつづける、おのずからあるものである。現代物理学の量子力学では、真空状態の無は、空っぽではない可能性の空間となる。古典物理学では、真空状態には何の意味もなく、絶対的な物質とエネルギーが活動する空っぽの空間にすぎない。だから西洋の存在論では、人間の真の知恵は、有から始まる創造に従う有為となる。しかし東洋では、人間の真の知恵は、変化していく有ではなく、「有の根源である無」に従う無為となるのである。
西洋では、変化論はギリシアのヘラクレイトスが説いていた。「人は同じ川に二度足を踏み入れることはできない」というのが、彼が残した有名な変化論の一節である。しかし彼の変化論は、ソクラテス以後の西洋の示顕論が受け継いだパルメニデスの哲学に押されて、姿を消してしまう。西洋では20世紀になって、ホワイトヘッドのような哲学者が変化論を唱えるようになる。49 彼は、宇宙は絶えず創造され形づくられる過程の総和であり、出来事の連続であって、固定された実体はないと主張した。変化論は、生成、消滅、相互作用など、実体の本質である動態性を中心としている。したがって事物は、独立した実体としてではなく、「過程」あるいは「関係」のなかで定義される。
東洋哲学では、有と無という二つの根本原理は、それぞれ独立して存在するのではなく、補い合う関係にありながら変化している、という思考で解釈される。したがって、変わらない存在をめぐる存在論への関心や推論は、東洋の文明では発達しなかった。東洋の哲学史で西洋の存在論や認識論などが発展しなかったのは、東洋の変化論によって説明できる。東洋ではその代わりに、変化に隠された流れをつかんで活かすという勢の哲学とともに、人性に基づく術の哲学、そして律法より倫理を重んじる倫理観が発達した。東洋の文明では、勢、術、そして倫理を先に立てる法の哲学体系と、それを土台とする実際的な政治倫理と政治経済の哲学が中心に立つことになる。倫理を先に立てる法、勢と術の哲学体系は、存在論に立脚する西洋の思考では発展しえない概念なのである。
東洋の文明でも、紀元前1000年ごろまでは、西洋と同じく剛柔(強さと柔らかさ)の概念を用い、強さの価値を柔らかさの価値より高く評価していた。ところが紀元前1000年ごろ以後は、柔らかさの価値を強さより重んじる傾向がはっきりしてくる。この時期こそ、剛柔論に代わって陰陽論が東洋文明の重要な思考へと転じていく局面を示している。50 その証拠は『易経』に現れている。紀元前1000年ごろまで『易経』は剛柔論を用いていたが、その時期を過ぎると陰陽論がそれに取って代わったからである。こうした思考の転換は、東洋哲学を代表する道家と儒家の核心的な価値として表れる。道家も儒家も、柔和さ、しなやかさ、節制、自己修養を掲げるのである。
東西の文明を比べると、興味深い事実が見えてくる。東洋の文明で剛柔論が陰陽論に取って代わられた時期と、西洋の文明で多神教が一神教に取って代わられた時期が、ほぼ同じであることに注目する必要がある。西洋で多神教が西洋と中東の大部分を席巻していたとき、エジプトとペルシア、そしてユダヤの地で一神教が姿を現したのである。それはおよそ紀元前1000年前後と見積もることができる。この時期以後、東洋では剛柔論に代わって陰陽論が、西洋では多神教に代わって一神教が広まっていく方向へと進んでいく。
易経 vs 神託:易経は道家と儒家を通じて東洋思想のなかに生きている
『易経』と神託は、数千年にわたり、東西の歴史の重要な局面で未来を見定める役割を果たしてきた。『易経』と神託をどのように用いるべきか、その方法において、東洋の変化論と西洋の存在論の違いが現れる。神託とは、神が人間の体を借りて(託して)人間の問いに答えるという意味である。神と人間のあいだに媒介者が登場する。神殿に住んで神託を伝える巫女は、啓示宗教の預言者の役割に似ている。超越的な存在である神によって未来は定められているのだから、媒介者を通じてそれを前もって知ろうというのである。神の決定には、人間はそれに従わなければならないという強い説得力がある。だから、絶対的な神に力を求める心理が人間の本性に内在している。
しかし、人間が奇跡を信じ、神が人間の営みに直接介入するという論理を信じた神託の時代は、科学の発展とともに歴史のなかに消えていった。西洋の啓蒙時代、理神論、合理主義から生まれた思想体系が、西洋の神託をギリシア・ローマ時代の遺物にしてしまった。しかし東洋の『易経』は、少なくとも『易経』の変化論は、東洋思想の核心として、いまもそのまま役に立っている。とりわけ東洋文明の特徴である融合主義(syncretism)にしたがって、『易経』の変化論が道家と儒家の哲学体系にそのまま反映されているからである。道家の無為の思想と儒家の君子の思想は、『易経』の変化論と結びついている。
東洋の『易経』の思想は、人間の未来はすでに決められているのではなく、自然と人間のあいだの相互作用によって流れていく、という変化論の思想に立脚している。重要なのは、人間がこの流れをつかんで、未来の流れに影響を与えようということである。西洋の神託、すなわちオラクルは決定論にしたがって動くが、『易経』の選択は、人間の選択を含む変化論の枠組みのなかで働く。
人間のあらゆる状況は、人間が善い行いをするか、悪い行いをするかにかかっている。人間が善い行いを選ぶよう助けるところに、『易経』の役割がある。だから『易経』は、未来を予測する占いとはまったく次元の異なるものである。51
『易経』は、単に未来を予測し、天の決定をすでに与えられた運命として人間に伝える占いの書の性格を超えている。52 『易経』が人間に与えるのは、単に「未来はこうなるだろう」という予定の書ではなく、「わたしはどうすべきか」という選択の余地を持っているという点である。したがって東洋の『易経』では、西洋の神託とは違って、人間の役割が重んじられる。『易経』で用いる卦の三つの爻は、天、地、そしてその中心に人間の役割を置くものである。天の時と地の利をよく観察しなければならないが、そのなかで人間が自分に最もふさわしい役割を見つけ出してそれを実行することで、自らの運命を決め、切り開いていこうというのである。
『易経』によれば、あらゆる状況には、それに見合った人間の行いがある。与えられたそれぞれの状況には、正しい行いとそうでない行いが、選択の余地として存在する。『易経』は単なる予言書や占いの書ではなく、知恵と倫理を収めた哲学書となる。「占いをしないのもいけないし、占いを完全に信じてもいけない。しかし、かならず占いを参考にせよ」(世宗大王が北伐の司令官に下した教旨、『朝鮮王朝実録』より)。正しい行いは幸運を、そうでない行いは不運をもたらす。
では、与えられた状況ごとに、それにふさわしい正しい行いとは何か。それを見いだすことが、人間が与えられた状況で決断しなければならない要素となる。つねに変化する状況の初期に人間の行動ができるだけ早く実行されれば、それが未来により大きな影響を及ぼしうることを、『易経』は強調する。『易経』は倫理的な側面が強く、状況を切り開いていくための知恵として用いようという意味を持っている。
多くの人は、『易経』を漠然と占いの書、あるいは神秘的な東洋の古代経典のひとつとみなしている。53 しかし、東洋の文化において『易経』が占める比重は、東洋の宇宙観と、自然と人間の関係を定めているほど大きい。
東洋の文化において、『易経』は道家や儒家などとの数百年にわたる相互作用を通じて、易の哲学を東洋思想の基礎に敷きつめることになる。春秋戦国時代、『易伝』が形成され完成していく過程で、『易経』と道家、そして儒家のあいだには、思想をやりとりする深い関係が生まれた。道家と儒家の学者たちは、『周易』を学び解釈する過程で、『周易』に内在する哲学と方向性を道家と儒家の思想に吸収し、発展させた。こうした交流を通じて、『周易』は、もとの『易経』にあった思想体系を道家と儒家を通じて発展させ、『周易』の解説書によって、道家と儒家の影響を受けた自然観、倫理観、政治哲学などの思想を『周易』にさらに取り込むことになった。『易経』が道家と儒家に及ぼした深い影響のため、『易経』の影響は、道家・儒家の文化圏の国々にいまも生き生きと息づいている。
『易経』が世界で最も重要な書物のひとつであることは疑いの余地がない……3000年にわたる中国の文化史が込められた、きわめて重要で意味深い書物である。中国の文化史のすべては、この書物から霊感を受けたか、この書物の解釈に影響を与えてきた。だから『易経』には、数千年にわたって磨かれた知恵が込められている。中国哲学の中心である儒家と道家がともに『易経』の哲学を基礎としているのは、当然のことである。54
この観点で最も重要な点は、『易経』に内在する自然論的な宇宙観や変化論が、道家と儒家の思想に内在する倫理、政治、経済の哲学とひとつに結びつくということである。これは、東洋の倫理、政治、哲学が、自然を基盤とし、自然を中心として形づくられたことを意味する。こうした哲学体系の重要性は、韓国と日本、ベトナムの哲学体系に反映されている。とりわけ国旗にもそれが象徴されている。55
自然を中心とした哲学的基盤を形づくろうという理論は、西洋では2000年遅れて、啓蒙時代の初期に、ベーコンやスピノザらによって唱えられた。啓示宗教の伝統から抜け出すことで可能になったのである。ベーコンは、自然が哲学において持つ重要性を強調するために、「人間の理解力は、自然についての思索と、自然が示す真実の観察からのみ生まれる。これ以外に、人間は何も知ることができず、何もすることができない」と宣言する。スピノザはさらに進んで、「神は自然と同一である」と宣言する。
『易経』と道家、儒家の哲学的な相関関係は、道家の無為の思想と儒家の君子の思想に、『易経』の宇宙論と人間の営みについての哲学体系がそのまま反映されていることに表れている。儒家の君子思想の核心は、倫理の重要性である。律法より倫理が先に立たなければならないというのが、君子思想の出発点である。同時に道家の無為の思想は、西洋の有為の思想と対比されながら、『易経』の変化論に基づいている。道は永遠で不変であり、誰にも属さないものであるから、倫理に絶対性を与えながら、同時に、誰も絶対的な倫理を主張したり、それを発見したと主張したりすることはできないようにする。儒家はこうした倫理の性格を強調しており、これは西洋の宗教的なドグマと大きな違いを見せている。孔子は「仁に当たりては、師にも譲らず」(『論語』衛霊公15:35)と強調し、孟子は「尽く書を信ずれば、則ち書無きに如かず」(『孟子』尽心下)と説いている。一方キリスト教は、「神の律法は二つである。ひとつは神を崇めること、二つ目は隣人を自分自身のように愛することである」(マルコによる福音書12:30―31、マタイによる福音書22:36―40)という明確な律法を通じて、律法の重要性に対する態度をはっきりさせている。これはまさに、東西の文明がそれぞれ倫理と律法を中心として形づくられたことを意味している。
倫理と律法の違いは、まさに東西文明の根源的な違いである道と神、すなわち不顕論と示顕論の違いから生まれたものである。道家は、『易経』に内在していた宇宙観、倫理観、人性論についての思想を発展させ、自然を土台とした人間と自然の関係について、総合的な思想体系を築き上げた。自然と人間の関係についての考察を『易経』の陰陽思想や道家の道の思想に委ねることで、儒家は倫理と政治思想に集中することができた。『易経』はもともと占いの書として始まったが、『繋辞伝』などの哲学書や思想書へと『易経』を拡張し深めようとする努力のおかげで、『道徳経』や『論語』とともに、宇宙論的な次元で東洋の知恵を保っている。東洋の『易経』とほぼ同じ時代を背景とする西洋の啓示宗教と比べると、東西文明の違いを感じとることができる。神による厳格な法律に拠るユダヤ教とキリスト教の聖典と比べると、倫理を背景としながら人生を自らの力で切り開く東洋文明の核心に触れる機会を得ることができる。
『易経』は、善悪ではなく陰陽の概念を基盤とする。つねに変化する世界では、永遠の存在論や善悪論は当てはまらない。陰陽の概念は静的ではなく動的である。陰には陽の種があり、陽には陰の種がある。この二つは、ただ互いに補い合いながら変わっていく性質を持っている。このように「易」は、存在論に基づく「自我中心」ではなく、陰陽論の「関係中心」を掲げている。こうした哲学的な接近法が、東洋文明の思考の基礎を提供している。
もとの『易経』は、道家と儒家が成立する前、春秋戦国時代より前に、およそ2000年以上存在して変化し進化しながら、東洋思想の大きな根幹を形づくった。これは、孔子が残した「韋編三絶」という故事からわかる。孔子が『易経』を熱心に読んだため、竹簡の『易経』を綴じる革紐が三度も切れたという話である。『易経』の基本をなす卦と爻が、文字が考案される前から長いあいだ符号と象徴として用いられていたことに注目しなければならない。これは、『易経』が東洋文明の初期に、東洋の思想と概念の基盤と方向性をすでに定め、固めていたことを意味する。つまり、万物の変化を剛爻と柔爻、すなわち陰陽の思想で解釈する哲学や、そこに内在する自然観が、すでに『易経』を通じて確立していたことを意味するのである。
『易経』は、儒学者が支配した時代にはしばしば科挙の科目に含まれたほど、儒家と深い関係がある。そのため『易経』は儒家の経典のひとつとして、儒家において重要な位置を占めるようになった。もちろん『道徳経』には、『論語』と違って『易経』への直接の言及はないが、『道徳経』のあちこちには『易経』の考えが反映された句が多い。結局、『易経』に起源を持つ太極図を道教のシンボルとするほど、道家もまた『易経』と深い関係がある。結局『易経』は、東洋文明の二大山脈である儒家と道家に共通する宇宙観、人性論、倫理観の源泉の役割を果たしている。
ここでは、行動の時機が重要である。「無為の選択」を追求することは、初期の段階で適切な行動をとることで不要な努力を減らそうとする、戦略的な選択を反映している。これは、未来を予測し、それに応じた初期の行動によって、結果が自然に、無為のうちに現れるようにするという哲学に従っている。このやり方は、不要なエネルギーの浪費を最小限にし、効率と目標の達成に集中する方向を示している。
『易経』の目的は、変化していく過程を見きわめ、できるかぎり初期の段階で介入できるよう助けることにある。初期の段階こそが肝心である。変化する状況に介入するとき、初期の段階であるほど、流れを握りやすい。遅れて介入するのでは、すでにすべてができあがっていて、行動をとっても結果を変えることができないからである。56
『易経』は西洋でも注目された。啓蒙主義の時代である18世紀初め、ライプニッツは『易経』に込められた思想を把握していた。1835年にはドイツでイエズス会士レジスのラテン語訳『易経』が出版され、その後カール・ユングが集中的に『易経』を研究し、関心を示した。ライプニッツは、東洋の『易経』と陰陽の思想が、自然に基づく符号の体系を用いて、人間に実際的で倫理的な指針を与えていると判断した。そして『周易』の卦を見て、それを二進法と結びつけ、西洋の数学に応用した。陰爻(--)は0に、陽爻(─)は1に対応させることができる。コンピューターの体系の核心的なメカニズムとして用いられる二進法を発展させるにあたって、『易経』から霊感を得たと言われている。57