第1部 我々はどこから来たのか:道 vs 神 · 第4章

道と神は東西文明の軸

約88分 · 注44件

1) 東洋の関係主義 vs 西洋の個人主義

西洋では、「個人主義」(individualism)という哲学が文明の核心をなす概念である。個人主義は、対立と独立の性格が強い。個人主義という語の反対語として、西洋の文明では「全体主義」(totalitarianism)や「集団主義」(collectivism)を用いる。ときには「共同体主義」(communitarianism)という表現を用いる。こうした表現はいずれも、西洋の哲学体系において個人主義を中心に分析した西洋的な表現である。個人の自由を認めないという面から、個人主義の反対として全体主義や集団主義を用いる。ファシズムや共産主義の政権が全体主義である。全体のため、調和のために個人の独立性を放棄するという次元では、共同体主義を用いる。スパルタ式の運営が、まさに共同体主義である。これらはみな集団主義に属する。

集団主義とは、集団のために個人を犠牲にする哲学である。歴史的に見ると、集団主義は、集団を支配する者たちだけの個人的な利益を追い求める方向へと流れていくことがわかる。ナチス・ドイツとソ連の共産主義が歴史的な実証を示しており、オーウェルの小説『動物農場』がそれをあからさまに描いている。こうした歴史的な状況を踏まえて、西洋の思想家たちは、個人主義の問題点を考慮した新しい社会哲学を示している。それが共同体主義である。個人主義とは、個人の権利と自由が人間の社会で最も重要だという哲学である。共同体主義とは、共同の利益や目的が人間の社会で最も重要だという哲学である。問題は、共同体主義を唱えはじめると、共同の利益が重要になり、個人の利益はそれほど重要でなくなることである。集団主義は、共産主義の実践の過程で歴史的に明らかになったように、個人主義を破壊するという意味を持っている。たとえば、カール・マルクスが『共産党宣言』で唱えた10の方策は、いずれも個人主義を破壊する集団主義の原則である。スパルタ式の小規模な共同体主義を、国家全体、世界へと拡大した形である。

西洋式の集団主義の思想は、東洋の文明の歴史にはなかなか見当たらない。東洋の文明を代表する道家、儒家、仏教の哲学体系は、いずれも集団主義に反対し、「関係主義」を唱えている。西洋の人々は、とりわけ個人主義でないものをすべて集団主義と総称する傾向がある。関係主義という概念が、西洋の文明には存在しないからである。東洋の文明において、西洋の個人主義の反対語が関係主義であるということは、西洋の文明の枠を抜け出して東西の文明を比較できてはじめて気づく点である。

東洋の関係主義の核心が、西洋の個人主義の核心と正反対の哲学であることを理解しなければ、東洋の思考を理解するのは難しい。残念ながら、ほとんどの西洋の思想家は、いまだに個人主義の反対の概念を集団主義と理解し、学校でも言論でもいまだにそう教え、そう書いている。西洋がヘーゲル主義から抜け出さなければ東西を理解できない理由がここにある。ほとんどの西洋の人々は「個人主義 vs 集団主義」という形を用いているが、東西を理解する人は、「個人主義 vs 関係主義」という概念の枠組みを用いることができなければならない。

東洋の関係主義とは、相手への配慮を通じて自分の利益を守るという意味である。関係主義は、補完性と調和性が強い。自分と他人をともに配慮することが核心である。重要なのは、西洋の共同体主義とは違って、関係主義は個人の独立性を放棄しないということである。儒家が掲げた倫理である仁は、二人の人を指す合成の文字(人+二)である。「人間関係のなかで」自分を見いだそうという意味である。これこそが東洋の「関係主義」(relationalism)の核心である。仁の哲学は、全体主義や集団主義とは何の関係もない。仁とは、自分を守りながら他人を思う関係主義を意味する。わたしという「個人」ではなく、「我々」という、自分と他人をともに考える人と人との「関係」を指しているのである。

西洋の概念にも、関係主義という語がないわけではない。しかし西洋の関係主義は、人文的な表現というよりは、主として科学的な表現として用いられている。関係主義という概念は、西洋では主に量子物理学で用いられている。西洋の物理学ではすでに200年以上用いられているが、西洋の哲学的な概念としてはまだ定着していない。ちょうど量子力学において、ハイゼンベルクの不確定性原理やボーアの相補性原理が量子力学のなかでだけ表現され、西洋の哲学ではまだ表現されていないのと同じである。しかし西洋の物理学が表そうとしている関係主義は、東洋の哲学で用いている関係主義ときわめてよく似ている。東洋の文明では、不確定性原理や相補性原理は、東洋の思考の核心である関係主義という概念のなかで、すでに広く用いられている。ニールス・ボーアが道家の陰陽を象徴する太極図を自らの家の紋章にそのまま用い、関係主義を重んじたのは、その一例である。

この点は、西洋の現代物理学において対立論に取って代わった相補論などの概念が、科学的には定着したものの、人文的にはまだゆっくりと浸透しつつあるという現象に似ている。東洋の関係主義は、個人主義に偏った西洋の哲学体系では、人間の営みにかかわって用いられない概念である。したがって西洋の言葉には、東洋の人間の営みの核心である関係主義を表す哲学的な概念はないと見るべきである。すべてが個人主義という概念に包み込まれているからである。西洋では、わたしが重要であり、わたしがかかわる宗教的信念、哲学的真理、イデオロギー的真理との関係を重んじるという意味を持つ個人主義が重要なのである。

東洋の関係主義と西洋の個人主義は、異なる哲学的観点から社会と個人を理解する方法である。西洋の個人主義は、個人の自律と自由を最優先に考える哲学である。対立と独立の傾向が強い。個人は自らの利益を追い求め、自由な意思決定を下せなければならないと考える。この概念は、西洋社会の歴史的、経済的、政治的な背景から生まれたものと見ることができる。一方、東洋の関係主義は、個人を個別の存在として見ると同時に、彼らが属する集団の一員としても認識する。

関係主義は、個人の権利や利益を、全体に所属する付属物と見ようというのではない。むしろ陰陽論に立脚して、自分と他人を合わせた皆の権利や利益を、自分の利益とともに管理しようという思想である。個人の行動は、その人が属する集団への影響を考慮しなければならない。逆に、集団の行動は、個人に及ぼす影響を考慮しなければならない。これは、人間関係において相互依存性を重んじ、個人と集団の観点から陰陽的に問題を解決しようとすることを意味する。補完性と調和性が強い。この概念は、東洋の文化と哲学の核心である陰陽論から生まれたものと見ることができる。119 したがって個人主義と関係主義は、それぞれ異なる文化的背景から生まれた哲学的前提にしたがって、個人と集団の関係を理解する方法が異なることを示している。

個人主義は、西洋の啓示宗教から絶対的な影響を受けている。西洋は神を軸とする文明を発展させた。神とわたしは、個人的に直接結ばれている。神を信じる個人にとっては、人間の営みのほかのあらゆるかかわりを飛び越えた、神とわたしのあいだのかかわりが最も重要である。古代ギリシア・ローマ、そしてキリスト教文明へと続く神中心の世界観は、「個人主義」を志向する。人間と世界を神の創造と摂理のなかで理解し、宗教的・合理的な探究を通じて神の文明をつくり上げていった。したがって西洋の文明は、わたしが信じる信仰、絶対的な真理、超越的な存在を中心に発展したのである。

西洋の個人主義に対して、東洋は関係主義を思考とする文化を形づくっている。関係主義は儒家、道家、仏教のすべてに広がっており、東洋の文化の内部に深く広く染みわたっている。120 西洋では、社会の命運を、個人主義を伸ばす法律と制度に集中させている。倫理も重要ではあるが、西洋社会では「倫理は社会の各分野で守るべきエチケット(etiquette)」程度に扱われる。東洋の文明が法律より重要なものとして扱う「倫理」への配慮は、西洋の文明では重要なものとして扱われないのである。

東洋には、無為、勤倹、節約、無欲といった倫理を人間の心の中心に据えさせる文化がある。これらはすべて、関係主義という哲学体系から生まれた倫理である。東洋の勤労倫理は、利己心の管理から来ている。人間は社会生活において、教育と自己修養を通じて勤倹節約を追求しなければならず、利己心が貪欲へと発展することに備えて、同情心と謙譲を身につけなければならない。

関係主義と個人主義は、東西が捉える宇宙論に表れている。宇宙を見る人間の思考は、二元的な状況になじんでいる。我々は自然と人間の営みを、二つの概念、すなわち二元で表す。121 日向と日陰、男と女、日と月、夏と冬、左右、上下、前後、過去と未来、精神と本能などが示す二元性がそれである。東洋の変化論は、二元的な要素に、関係を中心とする「補完性」を与える。西洋の存在論は、二元的な要素に、それぞれが持つ「対立性」を与える。道と神の体系に従う補完と対立、つまり二元性を分析するやり方において、東西の違いははっきりしている。東洋の変化・補完論と西洋の存在・対立論は、人間の営みにおいて二つの文明を分ける原理として働く。

二元補完論と二元対立論に哲学的、道徳的な観点を含めれば、東西の文明は、東洋の「陰陽補完論」と西洋の「善悪対立論」に区別される。二つの原理はしばしば衝突するが、人間は二つの原理をどちらも必要とする。変化論は動的なシステムを理解するのに適しており、倫理、宇宙の動き、現代物理学を説明してくれる。存在論は静的なシステムを理解するのに適しており、法体系、数学の法則、古典物理学を説明してくれる。

こうした違いは、東洋の文明を「陰」の文明、西洋の文明を「陽」の文明と捉えれば、きわめて適切に区分できる。しかし我々は、こうした東洋の概念を用いることになじんでいない。西洋の概念を用いれば、陰の文明は陰陽補完論、陽の文明は善悪対立論と区分することができる。陰陽論では、人間や物質に存在するあらゆる関係に、補完ないし調和の概念で近づき、善悪論では、そうしたあらゆる関係に、対立ないし独立の概念で近づく。

東洋の文明は、受容的・自律的・迂回的、相対的・関係的・寛容的、内向的・守勢的・包容的な特性を示す。西洋の文明は、能動的・干渉的・積極的、絶対的・個人的・動的、外向的・排他的・進取的な特性を示す。

受容的・自律的・迂回的な東洋 vs 能動的・干渉的・積極的な西洋

東洋の受容的で自律的で迂回的な特色と、西洋の能動的で干渉的で積極的な特性は、東西の黄金律にもよく表れている。孔子の教えは受容的である。「己の欲せざる所は、人に施すこと勿かれ」(『論語』顔淵篇)。イエスの教えは積極的である。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイによる福音書第7章)。122 東西は、他者への態度がもたらす結果についても、対照的な特性を示している。西洋では、聖書にあるように、人は「世の光、地の塩」のように積極的で行動主義的な生き方をするよう教えられる。一方、東洋では、『道徳経』にあるように、「埴を埏ねて以て器を為り、戸牖を鑿ちて以て室を為る」が、実際に役に立つのは空っぽの空間なのだから、行動主義的な生き方を戒め、受容的な生き方を勧めている。東洋の思想は、水のように柔らかく譲る性質を勧める。『道徳経』でも、水の長所を繰り返し強調している。水こそが、結局は強く力のあるものに打ち勝つうえで最も効果的だと考えるからである。

東洋のこうした受容と迂回、西洋の能動と積極性は、我々の日常生活にもよく表れている。東洋では、よく聞く能力を重んじる。親が子どもを教えるとき、先生や他人の言うことをよく聞けというのが、いつも第一の教えである。一方、西洋では、よく話す能力を重んじる。だから東洋では、弁が立つことへの警戒心が示される。『論語』には、「巧言令色、鮮なし仁」「剛毅木訥、仁に近し」という教えがある。『道徳経』は、「信言は美ならず、美言は信ならず。善なる者は弁ぜず、弁ずる者は善ならず。知る者は博からず、博き者は知らず」という教えを伝えている。同じ文脈で、『道徳経』は「曲なれば則ち全く、枉なれば則ち直く、窪なれば則ち盈ち、敝なれば則ち新たに、少なければ則ち得、多ければ則ち惑う」と助言している。

東洋では、西洋の積極的な傾向に対して、迂回的な傾向を見せている。有為より無為を追い求める東洋では、西洋のように目の前の効果ではなく、時を待つ行動のしかたを勧めている。迂回的という表現は、行動をすぐにとるのではなく、勢の動きを見て時を待つという意味を持っている。いわゆる芽が出るときにあらかじめ行動しておき、未来になって手遅れの行動をするのではなく、あらかじめ予測した結果を待つという行動のしかたである。いわゆる「無為を為す」(為無為)という行動のしかたが好まれるのである。

『道徳経』も聖書も、ともに謙遜と譲歩を教えている。聖書の山上の説教には「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」という一節があり、これは謙遜と謙譲、そして迫害される者への慰めとなっている。同じく『道徳経』も、その大意において、「辱めを品位をもって受け止めよ。得失にこだわるな。不運はすべての人間に訪れるものである……万事を謙虚に受け入れよ。そうすれば、すべてをつかさどることができる」という教訓を込めている。しかし西洋では、謙譲と譲歩だけでなく、積極的な行動主義もあわせて教えられている。「種とパン種のように振る舞え。百倍の実を結び、三斗の粉をすっかりふくらませよ」という教えが強調されている。こうした行動主義は『道徳経』にはない。『道徳経』は自律と自制の力を養うことに集中しているのである。

『道徳経』も聖書も、ともに物質的な富を戒めている。『道徳経』では、物質的な富は人性を壊しうる要素として警戒を呼びかけている。聖書でも、「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがまだやさしい」という戒めを教えている。しかし同時に、「あなたがたは地上に富を積んではならない……富は天に積みなさい」という言葉によって、物質的な富についての積極的な行動主義も求めている。『道徳経』や儒家には、富を積んで善いことをしようという行動主義を求める文はない。理財とは、個人が富を積むことではなく、「財を治めて民を安んじる」という倫理の次元で扱われているのである。

相対的・関係的・寛容的な東洋 vs 絶対的・個人的・動的な西洋

不顕論の哲学体系に従う東洋の文明は、相対性と調和という特性を強調する。孔子は『論語』で、「異端を攻むるは、斯れ害あるのみ」という相対的で寛容な見解を示している。示顕論に従う西洋は、確かな教義と善悪論を示して、それを人間の営みに行わせようとする。「世を照らす光となれ。」これを強調しながら、西洋は、聖書や教会は誤りえないという「無誤説」を唱え、絶対的で排他的な特性を示すことになる。

結局、西洋の文明では、さまざまな宗教の分派が生まれ、それぞれが絶対性と無誤性を主張するようになったため、教義をめぐる闘争が避けられなくなる。ヨーロッパは16世紀から17世紀にかけて新旧両教のあいだの長い戦争に突入し、最も残酷な戦争のひとつに数えられる三十年戦争を戦うことになる。ほぼ同じ時期の東洋では、清の康熙帝が1692年に容教令を出して、キリスト教の布教を許すことになる。こうした立場について、西洋の啓蒙主義の思想家たちは、宗教の自由を宣言した康熙帝の勅令を、きわめて寛大な措置と評価していた。

康熙帝の勅令は、東洋の歴史において例外ではなく、むしろ、儒教、仏教、道教など、あらゆる宗教の有益な教えを国の運営に用いるという、伝統的な哲学体系に従ったものである。これは結局、東洋の文明が示す融合主義(syncretism)という哲学的な態度を通じてよく表れている。融合主義、混合主義、あるいは折衷主義といった表現があるが、長所を取り込むという意味で、融合主義が最も適切な表現である。融合主義は、ひとつの結論にすべてを賭けてその真理に従うという示顕論とは異なる。こうした融合主義の特性は、節制を強調する道家の姿勢に表れている。「是を以て聖人は、甚だしきを去り、奢を去り、泰を去る」という『道徳経』の教えがそれである。

東洋のこうした融合主義的な態度は、西洋では、宗教的迫害を逃れて新大陸でアメリカを建国した清教徒たちの後になって現れる。18世紀、ついにアメリカ合衆国憲法修正第1条が宗教の自由を定めることになる。国教を樹立することを禁じ、自由な信仰と宗教活動を保障したのである。ローマ帝国がキリスト教を国教と定めたのは4世紀であった。1400年がたって、西洋でようやく宗教の自由、すなわち「容教令」が認められたのである。

「東洋の関係的 vs 西洋の個人的」という特性を強調する文化の違いは、日常生活にもよく表れている。東洋では、個人の住所を書くとき、国名、都市名、地区名の順に書く。個人の名前を書くときも、家族を代表する姓を先に書き、自分の名を最後に書く。全体のなかで関係的に自分を見いだしていこうというのである。個人は関係のなかに存在する。儒家が掲げた倫理である仁は、二人の人を指す合成の文字(人+二)である。二人のあいだの関係のなかに自分を見いだそうという意味は、結局、相手の事情を理解するコンパッション(compassion)を意味する。これこそが、東洋の「関係主義」(relationalism)の核心である。

関係主義と個人主義という思考体系は、東西の文明のなかに深く広く反映されている。西洋では、個人の住所を書くとき、地区名、都市名、国名の順に書く。個人の名前を書くときも、個人の名を先に書き、家族を代表する姓を後に書く。全体という融合体よりも、個人の存在が重んじられる。関係は個人に場所を譲る。これこそが西洋の「個人主義」(individualism)の核心である。

西洋では、個人が独立して存在し、自らの利益と自由を追い求めることが重んじられる。そのため、個人の自由と独立を保障するために、法的、社会的な制度がつくられる。一方、東洋では、個人は全体と個人の関係として存在し、その個人の行動が全体に及ぼす影響が考慮される。これは、個人の個性だけでなく、個人の所属と相互関係も重んじることへとつながる。陰陽論にしたがって、全体と個人がどちらも重要だという倫理を追い求めるのである。東洋では名刺のやりとりが重要であり、自分の所属を明らかにすることは、自分の個性を示すとともに、全体の状況のなかで自分の位置をつかむのに役立つ。

こうした文化の特性は、時間の見方にも表れる。東洋では、全体の文脈と状況を考慮して、年、月、日の順に時間を捉える。観照的な傾向が強い。これは、問題が起こったときにすぐに行動するのではなく、全体の状況と前後の関係を考慮して、適切に対処できるようにしようということである。これは道家の無為の思想と関係がある。全体の流れをつかみ、その枠のなかでいまなすべきことをしようという考えである。一方、西洋では、目の前の行動と瞬間の決定が重んじられる。そのために、まず日付をつかみ、次に月や年を考え合わせながら、その日付が持つ意味と、全体の状況に及ぼす影響を考える。西洋のこうした特性は、東洋の無為に対して、西洋では有為的な目の前の行為が重要になるという思考に根ざしている。

内向的・守勢的・包容的な東洋 vs 外向的・排他的・進取的な西洋

東洋文明の内向的な特性と西洋文明の外向的な特性の対比は、日常の無意識の行動にも表れる。東洋では数を数えるとき、開いた手から指を内側に折りながら、一から十まで数える。一方、西洋では数を数えるとき、握ったこぶしから指を一本ずつ開きながら、一から十まで数える。また東洋では、遠くにいる人に近くへ来るよう手で合図するとき、手のひらを下に向けて招く。一方、西洋では手のひらを上に向けて招く。またスープを匙ですくって飲むとき、東洋では匙を外から内へ動かして汁物をすくう。一方、西洋では匙を内から外へ動かしてスープをすくう。

東洋のこうした内向性は求心力として、西洋の外向性は遠心力として、歴史のなかに表れる。西洋では外部の環境がつねに開かれており、広がっていく環境のなかで民族や国家が大きくなる。西洋の文明が東地中海のエーゲ海から出発し、地中海、北海、大西洋、太平洋へと進出しながら、征服と拡張を重ねたことがそれを物語っている。同じく西洋のすべての帝国は、外部への拡張を通じて成長し、滅びていった。一方、東洋では、とりわけ中国の場合、人口が増え領土が広がったのは、外部の勢力と民族を中国の内部に引き込む求心力によってなされたことが多い。モンゴルの元とマンジュ(満洲)族の清がそのよい例である。日本も韓国も、遠心力によって征服と拡張に乗り出したことはほとんどなく(日本の場合、豊臣の時代と明治の時代という例外はあるが)、1000年前も今もほぼ同じ領土を保っている。こうした違いは東西の歴史と文化において重要な役割を担っており、ミクロな日常生活においても、内向性と外向性が習慣的に表れることへとつながっている。

東洋では、受容的な態度が核心として強調される。『道徳経』は「人を知る者は智、自ら知る者は明なり」と説く。王陽明の哲学も「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」ということを強調する。東洋では、困難や問題が起こると、まず自分を振り返り、問題の原因を内側に探そうとする。西洋では、問題の原因をまず外側に探そうとする。西洋では、人間は神にかたどって創造されたものであるから、問題はほかの人、ほかの国にあると考える。東洋では、人間は宗教やイデオロギーにかかわりなくみな同じであるから、問題があれば、自分が問題の種を取り除けるかどうかをまず見きわめ、そうして問題の種を取り除くことが最も効果的な解決方法だと考える。

東西のあいだのこうした内向的・守勢的 vs 外向的・進取的という対比は、スポーツにも表れている。東洋の伝統的なスポーツは、テコンドー、柔道、カンフーに見られるように、自己防衛、自己制御、自己統御を目標とする。一方、西洋では、ギリシア・ローマの剣闘士の試合から現代のボクシングやフェンシングの試合に至るまで、進取的な攻撃によって相手を制する勝利を目標とする。

1914年に第一次世界大戦が始まったとき、ほとんどのヨーロッパの人々は開戦を喜び、楽しんだ。イギリスとドイツの国民は広場に押し寄せて宣戦布告を歓迎した。彼らはみな、自分の国が数か月のうちに勝つと確信していた。何年ものあいだ勝利のないまま戦争を続けることになるとは、想像もしていなかった。123 東洋では、戦争を宣言した二つの国の国民がみな自発的に戦争を歓迎するという光景は想像しにくい。戦争、とりわけ帝国主義的な戦争は、貪欲の結果と見られているからである。戦争は、平和を守れない状況でやむをえずするものと見られている。当然、東洋では戦争の勃発より、戦争の終結が記念される。

2) 科学と哲学:現代物理学の相補論 vs 古典物理学の対立論

東西のこうした哲学的な観点は、東西の科学においてどのように表れているのだろうか。科学と哲学はどのような関係にあるのだろうか。物理学は、古典物理学と現代物理学に区別される。現代物理学は、20世紀の量子力学において新たに組み立てられた物理学である。それは古典物理学とはまったく異なる哲学体系の上に組み立てられている。古典物理学は西洋の対立論を支持していたが、現代物理学は東洋の相補論を支持している。これは、古典物理学は存在論に基づき、現代物理学は変化論に基づいているという説明と軌を一にする。古典物理学は、絶対性を主張する存在論を支持する。量子力学と相対性理論は、実在を存在としてではなく、過程と関係として解釈する変化論的な観点を支持しているのである。

カプラ(Fritjof Capra)は『タオ自然学』(The Tao of Physics、韓国では『東洋思想と現代物理学』という題で翻訳)で、東西の文明を行き来する哲学と物理学の関係を説明している。この本の核心は、現代物理学が、相補論の体系の上に築かれた東洋思想と、哲学的な思考を同じくしていると捉えた点にある。古典物理学は、西洋がこれまで金科玉条としてきた対立論に基づいていた。古典物理学が主張していた時間と空間の絶対性とともに因果律も崩れることで、二つの存在のあいだの対立性も捨てられることになる。絶対性、因果律、対立論に拠る古典物理学に代わって、相対性、蓋然律、相補論が、現代物理学の核心的な概念として新たに登場する。古典物理学の理論が当てはまらない領域で、現代物理学の理論が成り立つのである。

西洋の科学、とりわけ古典物理学は、ギリシア・ローマ時代から中世を経て近代の全期間にわたって、二元対立論の哲学体系の上に築かれていた。ユークリッドの幾何学とニュートンの力学体系は、絶対性と因果律を何の留保もなく受け入れた。絶対性と因果律は、二元対立論の核心である。ユークリッド幾何学とニュートン力学の体系は、どんな状況においても絶対的に証明される鉄則とみなされた。絶対性によってそれを証明する方法として、因果律が定められた。原因がわかれば、結果は必然的に予測されるという論理である。絶対性と因果律に対する人間のこうした信頼は、とりわけ産業革命後の19世紀の西洋で頂点に達した。人類の未来について、人間の精神とそれに基づく驚くべき科学の発展の力によって、ユートピアを実現しようという夢を膨らませていったのである。

しかし、こうした前向きな楽観論は、20世紀の現代物理学の登場によって大きく揺らぐことになった。西洋の科学者たちは、それまで絶対性や因果論などを不変の原則として信じてきたが、量子力学などの現代物理学の科学的発見によって、こうした価値は不完全であるという結論に至った。絶対性が失われれば、当然、それを説明する因果論も崩れる。その結果、現代物理学では、哲学体系として、絶対性と必然性の代わりに、相対性と蓋然性を唱えることになる。

ユークリッドの幾何学は、広大な宇宙では当てはまらない。西洋の人々があれほど確信し大切にしてきた絶対時間も、アインシュタインの相対性理論によって容赦なく崩れ去った。宇宙(宇は時間、宙は空間)のなかでは、時間と空間はひとつの総体的な概念として理解されなければならないということを、受け入れざるをえなくなったのである。こうした新しい考え方によってはじめて、宇宙旅行が可能になった。

ニュートンの物理学は、完璧な因果律の上に築かれている。しかし20世紀の西洋の量子論は、数十年にわたる苦悩の末に、西洋の人々があれほど大切に守ってきた因果律を放棄させた。西洋の科学者や形而上学者が位牌のように奉ってきた「自然は飛躍しない」という格言は、電子が実際に基底状態(ground state)と励起状態(excited state)のあいだを飛躍(quantum jump)するという驚くべき発見のもとで、放棄されなければならなかった。124 つまり、西洋の文化を支えてきた強力な基盤である漸進性が、電子が不連続なエネルギー(discrete energy)を持つという事実のもとで崩れ去ったのである。125

とりわけ、西洋の人々が長く悩んできた光の本質について、波動と粒子という二つの性質をともに持つという、西洋の概念からすれば二律背反的な矛盾を受け入れなければならなくなったとき、そして最小の粒子が陽子・電子・中性子のほかにも数百の素粒子に分かれることを発見したとき、彼らは物質の本質、最小の粒子の把握についての信念や、絶対的な真理への信仰を、あわせて放棄せざるをえなかった。

こうした新しい物理学上の発見において、西洋の物理学者たちを最も悩ませたのは、こうした新しい状態の発見を説明する哲学的な概念が足りないことであった。古典物理学は、量子力学に必要な二元補完論の概念を徹底して退けてきたからである。しかし量子力学の先駆者ボーア博士は、東洋の陰陽の太極を見て、自らが構想していた二元補完論に必要な霊感を得ることができた。126 量子力学に必要な概念は、西洋の人々があれほど嫌っていたが、東洋では高い価値として理解されていた、相対性、確率論、蓋然性、二元補完論といった概念であった。127

アインシュタインは、時間と空間、物質とエネルギーは、別々の絶対的な概念ではなく相対的な概念であり、互いに入れ替わりうると主張した。彼の有名な方程式 E = mc² は、エネルギーが質量と光速の二乗の積に等しいことを示している。これによって、ニュートンの機械的で絶対的な物理世界についての幻想は打ち砕かれ、時間と空間の概念は相対性を持つようになった。相対性理論(relativity theory)の誕生である。アインシュタインの思想は、近世の西洋哲学の支柱であったニュートンの思想体系を揺るがした。

相対性理論と量子論は、ニュートンの世界観を形づくるすべての主要な概念を粉々にしてしまった。その主要な概念とは、絶対空間・絶対時間・最小粒子という概念、物理現象に厳密に当てはまる因果律、そして自然を客観的に描写することができるという考えなどである。128

啓示宗教と、ソクラテス・プラトン・アリストテレスに共通して見られる「精神能力の絶対化」という主張は、形而上学として、西洋の科学とともに、宗教に必要な哲学的理論としてよく当てはまった。しかし、絶対性を主張した西洋の科学、すなわち古典物理学は、現代物理学によってその絶対性が打ち砕かれたことで、2000年あまりにわたって神学と形而上学が拠ってきた基礎であるユークリッド幾何学と、ガリレオとニュートンの力学体系は限界に突き当たることになった。アインシュタインは、西洋の人々が神のように信じてきた科学的真理というものは絶対的なものではありえず、人間が見いだしたものを絶対的なものと信じるのはひとつの妄想であると述べている。

「真理」という概念は、純粋幾何学の命題には当てはめることができない。なぜなら「真理」という語は、究極的には「現実の」物体や対象と一致することをいうからである。しかし幾何学は、幾何学的な概念と経験的な対象とのあいだの関係を扱うのではなく、幾何学的な概念どうしの論理的な関係だけを扱っているからである。129

デンマークの原子物理学者ボーア(1885―1962)は、ノーベル物理学賞を受け、量子力学の「相補性原理」(Complementarity Principle)で知られている。彼は、西洋の科学と哲学が重んじてきた二元的な衝突や相互排除といった対立論を捨て、調和や陰陽論のような相補性を受け入れることで、自らの理論を打ち立てた。ニールス・ボーアは東洋の太極図を見て、深く感銘を受けた。西洋の分離や対決といった概念と対をなす、東洋の調和と相補の概念を、陰陽の太極図に見いだしたからである。130 彼は陰陽の太極図を自らの家の紋章として採用し、「対立するものは相補う」(Contraria sunt complementa)という標語を自らの紋章に書き入れた。

ニールス・ボーア(Niels Bohr、1885―1962)がつくった家の紋章

紋章には、彼が用いた標語 Contraria sunt complementa(対立するものは相補う)が入っている

ボーアのこうした哲学は、東洋の太極図の陰陽補完論に従ったものである

ハイゼンベルク(Werner Karl Heisenberg、1901―1976)は、量子力学の創始によってノーベル物理学賞を受け、その「不確定性原理」(Uncertainty Principle)で知られている。量子のなかの動きを観察した結果、確定した位置を定めることは不可能であり、観察者の介入がその位置に影響を及ぼしていることを発見したのである。彼は、西洋の科学の基盤をなしていた絶対性や因果論のような確定的な概念を捨て、蓋然性や偶然性のような不確定な概念を受け入れることで、自らの理論を確立した。

古典物理学と現代物理学が拠っている哲学体系を見てみると、現代物理学が提供する哲学体系は、実に西洋の思想史においてパラダイムの転換という意味を持っている。啓示宗教に始まり、ソクラテス・プラトン・アリストテレスの示顕論、デカルトの合理主義、カントとヘーゲルの形而上学、ダーウィンの進化論、西洋のイデオロギーと社会ダーウィニズム(Social Darwinism)などが拠って立っていた哲学体系は、いずれも西洋の古典物理学の哲学体系から抜け出せていないからである。

西洋は数千年にわたって、「対立するものは対抗する」という基本概念を、自然科学と人文学において鉄則として受け入れていた。西洋ではこれを基礎として、科学によって自然を征服しようという企てまでするようになった。

しかし「カオス理論」(chaos theory)によって、人間が自然界の結果を予測できるという夢もあきらめなければならなかった。この分野は、とりわけ気候の予測に関して、我々の限界をはっきりさせてくれた。1960年代までは、コンピューターの発達によって高度な計算が可能になり、複雑な場合の数も制御できると人々は信じており、したがって気候も人間が制御できると信じていた。しかし、それがカオスの可能性を見落とした概念であることが、すぐに明らかになった。つまり、あらゆる過程のいたるところに、つねに新しい方向への変化の可能性が潜んでいることを、人間は受け入れざるをえなかったのである。

西洋の科学が長く悩んできた光の本質について、波動と粒子という二つの性質をともに持つという矛盾を受け入れなければならなかったとき、そして最小の粒子が陽子、電子、中性子のほかにも数百の素粒子に分解されることを発見したとき、科学者たちは、物質の本質や最小の粒子を理解することについての信念や、絶対的な真理への信頼を放棄せざるをえなかった。こうした新しい物理学上の発見において、西洋の物理学者たちが最も悩んだのは、それを説明する哲学的な概念が足りないことであった。科学的な発見は帰納的なものとしてよく知られているが、同時に驚くほど演繹的でもある。つまり、新しい発見を整理し説明できるように、理論と概念が必要なのである。

宇宙と粒子という巨大な世界と微細な世界の発見は、西洋の文化で主流をなしていた絶対的で、機械的で、漸進的で、排他的な概念では説明できなかった。西洋文明の基礎をなすこうした概念は、ユークリッドの幾何学、ニュートンの物理学、ダーウィンの進化論のような西洋の哲学においても宇宙の基本原理として受け入れられてきたため、西洋の科学がこうした概念から抜け出すことは、多くの困難をもたらした。宇宙の現象と量子力学を説明する相対性理論、不確定性原理、相補性原理、そして進化を説得力をもって説明するグールド(Gould)教授の断続平衡説(punctuated equilibrium)などは、いずれも西洋の人々の古典物理学的な概念では受け入れがたい発見であった。しかし東洋では、相対性、不可知論、蓋然性、調和の概念が、西洋文明の絶対的で、機械的で、漸進的で、排他的な基礎概念よりも、自然を理解するうえで適切であると理解されてきた。西洋の現代物理学が捉えた概念と、東洋哲学の基礎概念とが出会うという状況が生まれたのである。131

結局、我々の科学は、古典物理学と現代物理学の二つの体系をどちらも用いている。ユークリッド幾何学は、地球上ではいまなお当てはまる。しかし宇宙へと出ていけば、その絶対性は失われる。ニュートンの物理学は、地球上の生活のなかで適当な速さで動く物体については有用に使われる。しかしその範囲を超えれば、アインシュタインの相対性原理を用いなければならない。

こうした二つの哲学体系、すなわち古典物理学と現代物理学の哲学体系は別々のものなのか、ひとつに合わせることができるのか、という問題をめぐって、ニールス・ボーアとアインシュタインのあいだで論争があった。現代物理学では量子の世界を確率的にしか解釈できないというボーアの理論に、アインシュタインは反対して、「神はサイコロを振らない」(He does not play with dice)と述べた。132 アインシュタインは、二つの哲学体系は合わせることができ、我々がまだ発見していない理論があるはずだと主張した。しかし、アインシュタインの決定論的な観点よりも、ミクロの世界では自然は確率的に働くというボーアの意見が、しだいに受け入れられている。

科学は、二元対立論と二元補完論、言い換えれば、西洋の哲学体系と東洋の哲学体系をともに活用している。つまり、神と道の概念から生まれた思考をともに用いているのである。したがって、神と道のどちらが正しいかを判断する「哲学的」で「合理的」な決定は、我々の実生活においてそれほど適切性を持たない。神と道の概念は、東西の文明のなかで、自己保存の原則にしたがって我々とともに共存していく。精神的には、陰陽論の持続力が正しく、善悪論は自家撞着に陥る危険がある。しかし、自己保存に忠実な本能の面から見れば、善悪論と啓示宗教は、いまなお人間に必要なものを提供している。結局、善悪論と陰陽論は、我々が古典物理学と現代物理学の二つを必要とするのと同じように、東西の文明を通じて、人間が宇宙と人間の営みを見る二つの側面を示しているにすぎないのである。

3) 17―18世紀の道と神の対話

ここまで我々は、東洋の道と西洋の神について見てきた。東西における道と神の概念に込められた宇宙観を分析し、そうした宇宙観が東西に生きる人間にそれぞれどのような文明を与えたかを比較した。この二つの概念は、数千年にわたって互いにかかわりなく、それぞれに生まれ育ったものである。東洋と西洋は紀元前からシルクロードを通じて交流していたが、それは物資の交流にとどまった。哲学の問題は、言語の異なる無数の国境を越え、片道2年もかかる状況では、文明の精髄までは伝わらなかった。しかし16、17世紀以後、東西の直航航路が開かれると、人と哲学の交流が可能になった。ついに東洋の道と西洋の神という二つの哲学体系が出会ったのである。

東西のこうした出会いは、大航海時代(The Age of Discovery)に乗り出した西洋の人々によって実現した。実際、西洋による世界征服を成し遂げた大航海時代には、西洋の宣教師たちが征服者に同行していた。中国に派遣された宣教師たちによって儒家と道家の書物が西洋に紹介され、西洋の思想家たちは東洋の自然哲学に触れることになる。西洋の人々は啓示宗教を深く長く奉じてきたため、あらゆる文明にはかならず宗教があるはずだと考え、儒教や道教を宗教と呼び、自然宗教と呼んでいる。しかし儒家や道家には、宗教と呼べる内容は何もない。神もいなければ預言者もいない。道教の一部は、仏教が東洋に入ってきた後、民間信仰のなかで道家の人物を神格化しはしたが、『道徳経』や道家の経典には宗教的な内容はない。時期的にも、西洋は啓蒙時代に入り、自らの啓示宗教に対する東洋の「自然哲学」に深い関心を寄せるようになった。133 しかし、こうした哲学的な関心とは別に、歴史のうえでは儒教とキリスト教の衝突として現れることになる。

西洋で理神論が広まりつつあったころ、西洋は布教の情熱に駆られ、ローマ教皇庁が派遣したイエズス会の宣教師たちが東洋に来てキリスト教の精神を広めながら、東洋との対話を始めた。西洋が理神論の時代、すなわち17、18世紀の啓蒙時代に入るにつれて、東西はようやく哲学的な思想の交流を始めることができた。134 東西のこうした哲学的交流は、道と神の比較から始まるべきであったが、当時の歴史的な状況のために、老子とモーセではなく孔子とイエスの比較となった。孔子も自然の道を認めており、キリスト教もユダヤ教とともに旧約聖書の神を共有していたので、道と神の比較は、儒教とキリスト教の比較を通じて間接的に行われた。そのため、自然の道と超自然の神の直接の比較ではなく、祖先崇拝と神への崇拝の問題へと転じてしまったのである。孔子と祖先の祭祀の問題が、西洋の最大の関心事として浮かび上がった。

ヴァスコ・ダ・ガマの航路をたどって東洋に着いた西洋の最初の有名な宣教師が、マテオ・リッチ(Matteo Ricci、1552―1610)である。マテオ・リッチは1582年にマカオに着き、1610年に北京で死ぬまで中国で暮らし、中国語と中国の文化を身につけた。中国の宮廷の顧問の役割を果たしながら、宮廷の許しのもとで、天主教を通じて西洋の神の概念を東洋に紹介する『天主実義』を中国語で刊行しもした。彼はキリスト教徒として儒学を学び、死後は北京の、もとは仏教の寺であった地に葬られた。マテオ・リッチはキリスト教を通じて西洋の思想を中国に広めることに熱心であったが、『論語』などを翻訳して西洋に伝えることで、東洋の思想を西洋に広めることにも決定的な貢献をした。

マテオ・リッチをはじめとする西洋のイエズス会の宣教師たちが東洋の思想を西洋に広めると、東洋の思想は西洋の啓蒙思想家たちのあいだで大いに流行し、歓迎されることになる。当時の西洋では、宗教を含む西洋の伝統を見直し、あらゆる面に精神的で合理的な考え方を注ぎ込もうと努めていた。ちょうどこのとき西洋に入ってきた東洋の思想は、ドグマと奇跡、迷信を退け、精神的な側面を強く打ち出していたので、東洋の思想に触れることのできた啓蒙思想家たちのあいだに大きな肯定的影響を及ぼした。

当時、道と神の対話は二つの方面で進んだ。東洋では儒教と天主教のあいだの対話と葛藤があり、西洋では東西の文明のあいだの広い対話と葛藤があった。当初、中国はマテオ・リッチに天主教の布教の道を開いた。マテオ・リッチが布教活動をしていたころ、東洋にはすでに西洋の思想が広まるきっかけが整っていた。東洋の思想は諸説を融合する面を持っていて、人間に役立つあらゆる宗教と哲学に心を開くという姿勢がその中心にあった。同時に、マテオ・リッチが持ってきた自鳴鐘などの精巧な科学の機械や、世界地図についての見識などが、東洋に新しい世界を示すものであり、こうした科学と技術が大いに肯定的に働いたのである。北京に派遣されていたイエズス会の神父たちは、儒教の祖先崇拝の祭祀とキリスト教の神への礼拝はともに並び立ちうると考えるようになった。そこでキリスト教の布教において祖先の祭祀を認めようと主張し、それを通じて東西の文明のあいだの対話を始めようという試みがあった。

東洋では、清の康熙帝が1692年、キリスト教を含むあらゆる宗教の布教を許す「寛容の勅令」である容教令を出した。この勅令によってキリスト教は自由に布教することを許されたが、この点はむしろ西洋では理解しがたいところであった。彼らが奉じていた不寛容な唯一神の思想のためである。西洋で啓蒙主義の思潮が広まっていたころでさえ、あらゆる宗教の布教を許した康熙帝の勅令は、あまりに寛大な措置だと啓蒙主義の思想家たちも評価するほどであった。

西洋の宗教のこうした不寛容の思潮とは対照的な東洋の開かれた土壌の上で、17世紀の中国には、東西の文明のあいだ、東洋の道と西洋の神のあいだ、そして儒教と天主教のあいだの対話を真剣に始める準備ができていた。マテオ・リッチらの努力によって、西洋の側も布教活動において、東洋の思想との対話のために、東洋の伝統と習慣を尊重させる姿勢を持っていた。

熱意にまかせて行動してはならない。その国の人々に、祭祀の制度や礼を変えさせようと論争してはならない。それらの祭祀や礼が、キリスト教の教義と倫理に明らかに反しないかぎりは。我々が努力して、フランス、スペイン、イタリア、そのほかのヨーロッパの国を中国人に写しとらせようとするなら、それはきわめて愚かなことになる。また彼らに、ヨーロッパの国のようになれと強いてもならない。そうではなく、彼らに信仰を与えよ。その信仰は、彼らの祭祀や礼を否定したり損なったりするものであってはならない。大きな問題にならないかぎり、彼らのものを守り、保護せよ。135

しかし、イエズス会の神父たちのこうした寛容な態度は、まもなくフィリピンに住んでいたスペイン系のドミニコ会の修道士たちによって挑戦を受けることになる。彼らは主に三つの論点を示した。孔子の祭祀の禁止、祖先の祭祀の禁止、そしてフランス人を中心とするイエズス会の神父たちがキリスト教の神を「天」あるいは「上帝」と呼ぶことに反対し、「天主」(天の主)とだけ呼ぶこと、この三つを主張したのである。136

この論争は重く扱われ、ローマ教皇庁がかかわることになった。北京のイエズス会とフィリピンのドミニコ会の修道士のあいだの争いで、当時の教皇クレメンス(Clemente)11世はドミニコ会の側についた。1704年に教令(papal decree)を発し、そのなかで中国人のキリスト教徒に孔子と祖先の祭祀を禁じ、キリスト教の神を「天」や「上帝」と呼ぶことを禁じて、「天主」とだけ呼ぶようにさせた。そしてクレメンス11世は1705年、この教令を康熙帝に伝える特使を送った。

康熙帝は特使をどう扱っただろうか。彼は特使たちをマカオに追放した。これに対してローマ教皇は、中国の祭祀と礼を公式に禁じる大勅書(papal bull)を公布して強硬に応じた。これに対して康熙帝も、1721年に天主教の中国国内での布教を禁じる勅令を出して、同じく強硬に応じた。康熙帝は朱批のなかで、教皇の立場について次のように評している。

此の告示を覧るに、只だ西洋人等は小人なりと説くべし、如何ぞ中国の大理を言い得んや。況んや西洋人等、一人も漢書に通ずる者無く、説言議論、人をして笑うべからしむる者多し。今来臣の告示を見るに、竟に是れ和尚道士の異端小教と相同じ。彼此乱言する者、此くの如きに過ぐるは莫し。以後、西洋人の中国に在りて教を行うを必せず、禁止して可なり、多事を免れん。137

教皇と中国皇帝のあいだのこうした意見の違いは、まもなく中国国内の天主教徒と神父のグループのあいだの論争へとつながった。中国人の天主教徒たちはイエズス会の神父たちを支持した。一方、教皇の儒教礼儀の禁止という意見は、イベリア半島から来た中国在住のドミニコ会の修道士と司教たちが支持した。こうして国内で問題が起こると、中国の政府は天主教への締めつけを強め、ついに1770年、乾隆帝は祖父康熙帝の決定をさらに強めて、天主教の神父たちを中国から追放した。138

啓蒙時代の末期の思想家たちは、啓蒙君主よりも共和政を追い求めるようになった。彼らは古代ギリシア・ローマの研究を盛んにし、東洋にはない共和政を望むようになるにつれて、東洋の思想に対する全般的な否定的見方が広がっていった。また同じころ、中国では西洋の宣教師に対する見方が悪化し、西洋の宣教師たちを追放することになる。中国のこうした措置について、西洋の知識人たちは中国をいっそう否定的に評価しはじめた。その背景には、当時の西洋が産業革命の成功に拠って東洋を征服していったという現象が、大きく働いていた。とりわけ精神の面で、東洋の文明は足りないと評価するようになった。これは、デカルト以来、西洋大陸の哲学体系を導いてきた精神中心の合理主義に根ざしている。

マテオ・リッチの努力にもかかわらず、結局、天主教の布教は16、17世紀の中国でさしたる成果を上げなかった。哲学的に見れば、道家の自然の道の思想と、奇跡をはじめとする迷信を退ける儒家の思想が早くから根づいていたため、キリスト教の教義で重要な役割を果たす、奇跡を行う擬人化された神が大きく入りこむ余地がなかったと見ることができる。実際には、上に述べたようなローマ教皇庁と中国の宮廷のあいだの衝突が、日々の暮らしのうえで妨げとなった。結局、東洋の文明と西洋の文明の対話、そして東洋の道と西洋の神のあいだの哲学体系をめぐる対話と相互作用の道は、閉ざされてしまったのである。

西洋の理神論と経験主義、そして東洋の自然哲学

道と神のあいだの対話では、啓蒙時代のあいだ、国家間の対話に障害があったものの、東西の哲学的思考において肯定的な働きをした時期があった。西洋で理神論が登場して神の奇跡の業に疑いを抱くようになり、奇跡を認めない東洋の自然哲学を肯定的に評価するようになったからである。同時に、イギリスの経験主義が自然を重んじることで、東洋の自然哲学と哲学的な平行点を共有することになる。

啓示宗教と自然哲学の体系のあいだの最大の問題は、奇跡の評価である。奇跡の問題は、西洋では18世紀になって根本から提起された。啓示宗教が奇跡を超自然的な神の働きとして当然視してきた期間は、2000年から3000年近くになる。しかし東洋では、紀元前の春秋戦国時代にすでに、奇跡の問題は道家と儒家によって、さらには荀子によって、はっきりと整理されていた。東洋の自然哲学のこうした影響が、西洋の理神論に直接の影響を与えることになる。西洋の思想界にも、東洋の思想は理神論的なものだと考えた人々がいた。彼らは、世界で唯一、理神論的な体系を備えた文明が中国だと見ており、東洋の文明は、教会や啓示の権威に頼らず、誰にでもある精神という光に拠る理神論を持っていると考えた。儒教の倫理はキリスト教の教えと同じ価値を持つが、それは啓示ではなく精神に基づくものだと評価したのである。139 彼らは東洋の儒家と道家を、きわめて肯定的に捉えて接した。

西洋の理神論は17世紀末に台頭し、およそ100年にわたって西洋の思想界を支配することになる。理神論は18世紀末のフランス革命のときに頂点に達し、フランスの革命政府はそれをフランス共和国の国教として宣言しさえした。理神論は啓蒙時代の西洋の多くの思想家と科学者の貢献によって発達したものであり、アメリカを建国した指導者たちもほとんどが理神論者であった。宗教の自由を認めたアメリカの憲法は、理神論から生まれたものである。理神論は主に大陸の思想家たちによって推し進められ、スピノザをはじめ、ヴォルテールやルソーらによって花開いた。しかし啓蒙時代になってもなお宗教の力は強く残っていたため、彼らは、スピノザのように自分の考えを隠すか、ヴォルテールやルソーのように自分の考えを勇敢に発表して、逮捕と迫害を逃れて逃げまわるかしなければならなかった。140

大陸の思想家たちが理神論を背景に西洋の啓蒙時代を過ごしていたとき、イギリスの思想家たちは別の哲学的なパターンを追い求めた。大陸の合理主義ではなく、イギリスの経験主義を中心的な哲学の思潮として掲げたのである。合理主義も経験主義も、ともに伝統的なキリスト教の神の超自然性から抜け出して、人間の精神と自然を中心とするようになる。合理主義は精神を知識の根本とみなし、生得観念を重んじ、演繹的な推論を土台として、科学、形而上学、道徳哲学の発展に寄与することになる。イギリスの経験主義は、すべての知識は感覚的な経験から生まれると主張し、自然のなかの観察と経験を重んじる帰納的な推論の方法を示すことになる。

合理主義は精神に拠り、人間の知は「知的で演繹的」なものだと主張し、幾何学、数学、倫理学、形而上学によって証明されると主張した。経験主義は、人間の知は「感覚によって帰納的に」証明されるものであり、生得(innatism)や伝統に頼ってはならないと主張した。彼らは生得や伝統から離れるために、「自然」を基礎としようと努めた。ベーコン、ロック、ヒュームの著作には、自然を中心として経験主義を唱えた点が強調されている。

この次元で、西洋の経験主義者たちは、「自然を絶対真理」として信じる道の東洋文明と似た点がある。しかし西洋の思想家たちにはすでに宗教の力が大きく働いていたため、実際に哲学に反映された類似点は大きくない。東洋の文明は、先入観なく数千年にわたって純粋な経験主義に立脚して、道の思想に到達する。道の思想は不顕論を核心とする。しかしほとんどの西洋の経験主義者たちは、神の存在を信じる示顕論者であった。そのため彼らの哲学は、神と自然(道)を比べる壮大な議論の次元ではなく、認識論の次元で自然に触れることになる。

そして多くの経験主義者は、認識論において白紙説を唱えた。白紙説は、「宿命のなかの自由」という人間の本性を認めない。東洋の文明が捉えた人間の本性では、人間の可能性を「本能」の次元に限ることに重きがある。しかし白紙説は、人間の可能性を限る面を拒む。むしろ白紙説によって人間に無限の可能性を開くという面では、合理主義に似たところがある。そのため西洋の経験論者たちは、東洋の文明が唱える不顕性、蓋然性、相対性、相補性という原則的な特性を論じる境地には至らなかった。当然、彼らの考えは、示顕性、因果性、絶対性、対立性という西洋文明の壮大な議論のなかにとどまっていた。こうした大きな枠のなかで、西洋の経験主義者たちは、哲学において確かなものを追い求める認識論(epistemology)を論じたのである。西洋の認識論では、上の合理主義と経験主義のほかに、懐疑主義(skepticism)を見ることができる。

懐疑主義は、合理主義と経験主義の認識を疑うこととして表れる。古代にはソクラテス・プラトン・アリストテレスの哲学を疑い、ルネサンス時代にはスコラ哲学とカルヴァン主義を疑い、近世には合理主義を代表するデカルト主義を疑う役割を果たした。西洋の懐疑主義には、東洋の不顕論と似た点もある。不顕論は絶対真理を信じるが、それを人間が表現することに反対する。西洋の懐疑主義は、表現だけでなく絶対真理の存在まで疑う点で、東洋の不顕論とは違いがある。この点で、西洋の近世哲学としての懐疑主義は、ソクラテス以前のギリシア哲学の不顕論のような懐疑主義とは違いがある。そのころのギリシアの哲学者たちは、東洋の不顕論と同じく、絶対的なものの存在ではなく、その表現を問題にしたのである。

17、18世紀の啓蒙時代に、イギリスは合理論への反発から経験論を唱え、経験論は自然を中心としなければならないという哲学を展開することになる。イギリスの思想家たちは、自然主義と経験主義を通じて、西洋の啓蒙時代の発展に寄与した。しかし18世紀の思想家ヒュームに至るまで、彼らは宗教にかんしては保守的なままであった。ベーコン(1561―1626)は自然の重要性をはっきりと主張しながらも、聖書と信仰とは衝突しないという立場をとった。彼は、人間のすべての知識は自然から生まれるのだから観察による経験が重要だと主張しながらも、聖書と自然はともに神の啓示であると考えていた。彼はアリストテレスの演繹的方法を批判し、観察と実験による帰納的な経験主義を提唱した。ロック(1632―1704)は、人間の認識は後天的な経験を通じて形づくられるという経験主義的な白紙説とともに、自己決定権を持つ人間が自由主義を志向するという社会契約論を唱えた。これはアメリカ合衆国憲法の建国の理念に寄与した。同時に彼は、啓蒙主義の標語である寛容を唱えながらも、政府は無神論者を寛容に扱ってはならないと考えた。聖書にかんしては、天地創造と奇跡を含めて、そのまま信じようとした。

イギリスでは、宗教のこうした力が続いていた。死後に哲学的に大きな影響を及ぼすことになったヒューム(1711―1776)も、その懐疑主義的な宗教観のために教授職に任じられず、たびたび不利益を被っていた。ヒュームは、人間の精神は神の本質を理解するにはあまりに限られており、宗教的な信仰は精神よりも感情と習慣に基づいていると主張した。彼の代表作『自然宗教に関する対話』も、死後に匿名で出版された。彼の倫理学と認識論は、当時はふさわしい評価を受けなかったが、死後に独自の名声を得た。彼はこの本で、伝統的な有神論者、自然宗教論者、懐疑論者の三人の対話を通じて、自らの立場を説明している。西洋では skeptics を懐疑論者と表し、それがヒュームの哲学を代表していると評価する。しかしギリシアの哲学者についての評価で説明したように、西洋の skeptics は、東洋の自然哲学者(natural philosophy)とほぼ同じ哲学体系を持っていると見ることができる。141 この次元で、ヒュームは、啓示宗教の体制のなかで経験主義の哲学を展開したベーコン、バークリー、ロックとは異なる面がある。ヒュームは、啓示宗教から自由な自然哲学を展開した哲学者となる。142 哲学的思考の面で、ヒュームの哲学は東洋の自然哲学と「思想的な平行」(parallelism)をなしているのである。

4) 東西の思考の出会い:孔子とヴォルテール、老子とルソー、荀子とスピノザ

東洋と西洋の思想家のなかで、東西の文明を結びつける役割を果たした人々がいる。スピノザ(1632―1677)、ヴォルテール(1694―1778)、ルソー(1712―1778)の三人である。西洋のスピノザ、ヴォルテール、ルソーは、直接、間接に、東洋の荀子、孔子、老子と同じ哲学体系に従っていたので、それを比べると、東西の道と神の哲学体系の興味深い出会いを見いだすことになる。

スピノザは、自然(道)と神を同一視するという驚くべき思想を展開した哲学者である。彼の哲学体系は、道家、とりわけ荀子の哲学体系にあまりにもよく似ていて、見分けがつかないほどである。スピノザが影響を受けたユダヤのカバラ(Kabbalah)神秘主義は、道にきわめてよく似た概念を掲げた。カバラが重んじる概念のなかに、道に通じる基本の概念がある。エン・ソフ(Ein Sof)とセフィロト(Sephirot)の概念である。これは「無限の存在」と「万物のなかに内在」するという概念である。143

神は無限で、言葉では言い表せない存在である。どんな概念によっても規定することはできない。(エン・ソフ)

神は世界の外の存在ではなく、世界のうちに内在して万物のなかに存在する。(セフィロト)

こうした説明は、まさに東洋の道の自然哲学の特徴を表している。スピノザの「神すなわち自然」(God or Nature)という有名な思想は、まさにカバラに由来する。西洋の啓示宗教の神と東洋の自然哲学の道は、同じものにならなければならないのである。こうした理由から、西洋の哲学者のなかでも、フランスのマルブランシュやドイツのヘーゲルは、スピノザは東洋の哲学を繰り返していると解釈することになる。144

我々はスピノザに続いて、ヴォルテールとルソーを通じて、道と神のあいだの葛藤と調和の状況を見ることができる。スピノザは時代的にはヴォルテールやルソーより先であったが、その思想は彼らよりいっそう画期的なものと評価できる。もしヴォルテールやルソーもスピノザのように自然と神を同一視していたなら、当時の18世紀の西洋の思想界の権力構造から見て、彼らの哲学的な活動は人々の関心を呼び起こすことはできなかっただろう。当時の西洋の状況では、理神論的な観点までは受け入れられえたが、「自然そのものがすなわち神である」という主張は排斥の対象となって激しい反対を受けるか、あまりにも先を行きすぎていて哲学的な無関心をもって迎えられるしかなかった。この面で、東西の思考の真の比較は、西洋がスピノザの哲学を十分に理解するまでは難しい面がある。

しかし、この出発点があまりにも難しいため、西洋の哲学者たちはいまなおそれを避けつづけ、あるいは恐れている。西洋の示顕論を根こそぎひっくり返してみる勇気が必要だからである。西洋の哲学史においても、スピノザ以後の西洋の哲学者たちは、スピノザの「自然と神は同じである」という核心を避けながら、東洋の自然哲学に接してきた。いわゆる理神論の枠のなかで、西洋の啓示宗教と東洋の自然哲学の体系を切り分けて扱うことになったのである。

スピノザに続いて、ヴォルテールとルソーが、東洋の自然哲学に似た哲学体系を展開することになる。ヴォルテールは儒家の自然哲学から霊感を得、ルソーは道家の思想にきわめてよく似た哲学体系を表すことになる。ルソーやヴォルテールと東洋の思想との類似については、アメリカの哲学者ウィル・デュラントも指摘している。

ルソーの哲学は、中国の道家の哲学者たちにあまりにもよく似ていた。だから我々はルソーを老子や荘子と比べることになる。それは、ヴォルテールが孔子や孟子とあまりにも同じように考えていたので、彼らと比べられるのと同じ理由である。145

ヴォルテールは孔子を公然と崇め、ルソーは道家の哲学体系にきわめてよく似た思想を展開していった。ほとんどの西洋の人々も、ほとんどの東洋の人々も、この点を見落としている。理神論の時代に、西洋の哲学者たちは西洋の啓示宗教の問題点と格闘しており、それと対照させるために、東洋の自然哲学が示す哲学体系から多くの霊感を得ていたのである。146 啓示宗教に対するスピノザの革命的な哲学体系を考えれば、東西の比較という面でのルソーの活動の限られた範囲は、ヴォルテールと似たところがある。スピノザの自然神観は当時の思想界では神を否定するもの、すなわち無神論とみなされていたので、ルソーもこうした事情を考慮して活動したものと思われる。その結果ルソーは、神を直接否定するよりも、神が創造した人間が生み出した文明そのものを批判し、自然の状態に帰らなければならないと主張した。それにもかかわらず、ルソーの文明批判は当時の宗教と世俗の権威から弾圧を受け、彼の著作は何度も禁じられた。ルソーもまた、ヴォルテールと同じく、思想の自由のためにあちこちへ逃れなければならなかった。

スピノザは『エチカ』で「自然はすなわち神である」とはっきり主張し、体系的な思想を築いた。これを通じて、人間と自然の関係を道として理解する道家の思想との大きな類似を見いだすことができる。一方ルソーは、人間に自然の状態に帰れと強調したが、スピノザとは違って宗教の必要性を認めた。ここでルソーとスピノザを分ける重要な点は、ルソーが、西洋の文明の基盤がまさに神と宗教であったことを否定しなかったことにある。ルソーは「神と自然は同一である」と明示的に主張したことがないので、ルソーの思想と道家の思想との類似は、スピノザと道家の類似ほど明白ではない。それでも、彼の思想が根本的に人間と自然の関係の本質を中心とし、文明を批判的な目で見ていた点で、道家の思想と多くの点で共通していると言える。

こうした類似がほとんど指摘されてこなかったのは、西洋の思想家たちが道家について知らなかったからである。一方、東洋の思想家たちはルソーを西洋哲学史の文脈のなかでだけ理解しようとし、東洋の思想、とりわけ道家の思想と比べる努力はほとんどしなかった。人間と自然の関係において、ルソーほど道家に似た考えを持っていた西洋の思想家は、スピノザを除けばなかなか見当たらない。したがってルソーをこうした観点から見ることは、西洋の人々にとっては道家を、東洋の人々にとってはルソーの思想を理解するうえで大きな助けとなる。

ヴォルテールと孔子:「神は人間のいけにえも祈りも必要としない」

ヴォルテールは儒家の思想を高く評価し、西洋の啓蒙時代を導くために東洋の自然哲学を大いに活用した。彼は1755年に戯曲『中国の孤児』(フランス語 L’Orphelin de la Chine、英語 The Orphan of China)を発表した。そこで彼は、東洋の自然哲学的な道徳の秩序を西洋に説明しようとした。この作品は、中国の元の時代に書かれた雑劇『趙氏孤児』を翻案したものである。筋は、春秋時代の晋の国の卿の家柄である趙氏が皆殺しにされた後、ただひとり生き残った赤子が成長して一族の仇を討ち、正義を取り戻すまでを描いている。ヴォルテールはそこで、儒家の自然哲学に立脚した東洋の哲学を表そうとした。そして、そうした哲学を、啓蒙時代以後の西洋が学ぶべき方向として示したのである。

ヴォルテールは、「祈りや祭祀、いけにえの必要は、神が必要とするものではなく、人間が必要とするものだ」と考えた。これは東洋の孔子の考えに似ている。孔子は、鬼神への崇拝は人間にとって本質的なものではなく、人間関係のほうが重要なのだから、仁に集中せよと説いた。

孔子:「鬼神を敬して之を遠ざく」(『論語』雍也第20章)。君子は仁を根本とする(『論語』衛霊公第15篇)。

ヴォルテール:神は我々のいけにえも祈りもまったく必要としていない。ただ我々がそうする必要を感じているだけである。神を崇めさせたのは神ではなく、我々自身なのである。147

ヴォルテールは儒家の哲学を直接高く評価し、文章に残している。ヴォルテールは孔子の役割を高く評価し、儒家は人類の歴史で最も有益な政治倫理の教訓を集大成していると考えた。ヴォルテールは孔子について、次のような評価を下している。

我々西洋人にとって、何という恥ずべき運命のいたずらであろうか。我々は東洋の向こうの果てにしか賢者を見いだすことができない。彼は素朴で、大げさでなく、人を欺くこともなく、ギリシア人がようやく知恵とは何かを見分けるようになり、そのほかの北ヨーロッパの人々は文字が何かも知らなかった紀元前600年にすでに、幸せに生きる道とは何かを人々に教えていた。それが孔子である。古代の師のなかで、孔子は他人を欺こうとしなかったただひとりの人である。世界じゅうを見渡しても、孔子の後、誰が彼よりも美しい行いの規範を与えたことがあるだろうか。「国の事は家の事を治めるように治めなければならない。家の事は自ら範を示すことによってしか治められない……」人間に、これにもまさる有益な真理を教えた師は存在しないことを、率直に認めざるをえない。148

ヴォルテールは、儒家と道家に代表される東洋の自然哲学を西洋の啓示宗教と比べながら、次のように指摘したことがある。

中国の知識人たちの宗教もまた、尊敬に値する。彼らには、いかなる迷信も、愚かな伝説も、精神と自然に反するいかなる独断もない。149

ヴォルテールは自らを理神論者と称した。ヴォルテールの著作の多くは、宗教の不寛容、ドグマ、非精神的な要素への批判に重きを置いたものである。一方、ルソーは文明そのものについて、さまざまな理論と解決策を示した。ヴォルテールは精神を重んじ、ルソーは感性を重んじた。二人はライバルの関係を保ち、競い合う関係を続けた。ルソーは民衆とともに革命的な気質の人々から大きな支持を受け、ヴォルテールは知識層から大きな支持を受けた。ルソーは文明の次元で人間の堕落と不平等を分析し、対策を示した。ヴォルテールは主に宗教と哲学の次元で寛容と精神を強調し、不寛容と非精神的な迷信への批判を展開した。

西洋の啓蒙時代のあいだ、東洋の文明の合理的で精神的な面は、西洋の思想家たちにとって大きな魅力として迫ってきた。とりわけ政治倫理思想の分野では、ライプニッツとヴォルテールが東洋の文明を肯定的に評価し、それを自らの著作に反映させた。政治経済思想の分野では、ケネー(Quesnay)とヴァンサン・ド・グルネー(Vincent de Gournay)が、東洋の道家や無為の思想といった概念を紹介しながら、その影響をイギリスのアダム・スミスに伝えた。

理神論者たちが疑問を抱いた問題は、奇跡を行う神である。奇跡とは、自然の現象に背くことを意味する。したがって奇跡を行う神は、自然から切り離された、自然を超える存在とならざるをえない。ギリシア神話は、人間が自然から切り離され、ある程度まで超自然的な存在として認識されていく過程をよく示している。そしてこうして形づくられた人間の認識のなかで、人間は自らを神と同一視することで、自分の力を際立たせようという誘惑に陥りうるようになる。彼らは、神が自分のために自然に反する超自然的な奇跡を行ってくれることを望むようになる。理神論者のなかで、こうした教義に反対した者の代表がヴォルテールである。だからヴォルテールは、西洋の啓蒙時代を代表する思想家と評価されている。

啓蒙時代以後、理神論は哲学体系として固有の地位を確保することはできなかった。しかし奇跡、啓示、教会の権威を否定し、自然と精神を通じて神を理解しようとしたことで、現代の宗教的寛容と合理主義に大きな影響を及ぼしている。多くの理神論者が、無神論者、不可知論者、世俗主義者と評価されているのにも、理神論の影響が大きい。

奇跡の問題に続いて、西洋の神に対する理神論の主な問題は、善悪の問題であった。西洋の人々は神を正義の神、善い神にしてしまった。正義と善は人間が必要とするだけのものであって、神は正義と不正、善と悪の彼岸にあるべきだと考える思想家たちが現れる。善と悪は、スピノザが言ったように、究極的には良いものと悪いものに帰着する。150 台風、洪水、日照り、寒さといった自然の現象は、善でも悪でもない。それを良い(敵や仇に降りかかったとき)、あるいは悪い(自分に降りかかったとき)と感じるのは、人間だけである。ラッセル(1872―1970)は、「善悪の概念の代わりに好き嫌いの概念を用いるなら、我々はもっとよい世界に生きることができるだろう」と願った。151

西洋の思想家たちは、ユダヤ・キリスト教の一神論的な神の定義と、理神論の問題点とを同時に認識していた。それにもかかわらず、彼らが示した代案は、いずれも神の概念を中心としていた。神の代わりに自然の概念を取り入れることをためらったからである。天地創造の後は人間の世界に介入しない神を理神論の神、あらゆるものと同一である自然を代表する神を汎神論の神と呼ぶことで、神の概念なしには、自然と人間のあいだの関係を設定したり定義したりすることができなかった。何の神の概念もない状況でさえ、その観点を「無神論」と名づけているのを見ることができる。152

ヴォルテールは、スピノザの自然神観、すなわち「神はすなわち自然である」という主張には同意しなかったが、理神論の観点から西洋の伝統と宗教を批判した。18世紀の西洋は、まだスピノザの自然神観を完全に受け入れる準備ができていなかったので、ヴォルテールは理神論の観点から批判したのである。スピノザの自然神観が「無神論」とみなされる状況は、18世紀の啓蒙時代まで続いていた。理神論を唱えただけでもヴォルテールは危うくなって牢獄に入れられ、思想の自由のためにあちこちへ逃れなければならなかった。

西洋では、正統派のキリスト教と理神論のあいだに衝突が起こった。理神論を唱え、正統派キリスト教のドグマ、奇跡、礼拝など非精神的な要素を攻撃しながら寛容を主張したのは、啓蒙思想家たちであった。西洋の内部で生まれた理神論によって、西洋は東洋の文明を理解する足がかりを得た。当時西洋に紹介された東洋の文明は、孔子の思想であった。ヴォルテールは孔子の自然哲学の思想に魅了された。その時代のフランスの啓蒙主義の思想家たちは、東洋の寛容な宗教観と精神的な倫理体系に対して、肯定的な関心と評価を抱いていた。

とりわけフランスが精神的な倫理体系に並々ならぬ関心を持った理由は、旧教と新教のあいだにあった生きるか死ぬかの憎しみのためであった。16世紀から17世紀にかけて、西洋、とりわけフランスの思想家たちは、極端な宗教的不寛容の環境に立ち向かわなければならなかった。旧教は宗教裁判などさまざまな方法によって正統性を保とうとした。とりわけ宗教改革が始まってからは、新教との対立が深まった。ルネサンス期が終わるころ、西洋ではじめて寛容の勅令が出された。それが、1562年、フランスのシャルル9世の摂政をしていたカトリーヌ・ド・メディシスによって布告されたサン=ジェルマン勅令(Edict of Saint-Germain)であった。西洋で4世紀にキリスト教がローマ帝国の国教と宣言されてから、ほぼ1200年ぶりに出た最初の寛容の措置であった。しかしこの勅令が出された直後、旧教の勢力によって新教徒が大量に虐殺される事件が起こり、寛容の勅令は事実上意味を失った。続いてフランスでは、新教と旧教のあいだで、無慈悲なユグノー戦争(1562―1598)が36年にわたって繰り広げられた。この戦争を締めくくるにあたって、フランス国内の新教徒であるユグノー(Huguenots)に信仰の自由を与える勅令が出されたが、それが1598年にアンリ4世が出した有名なナントの勅令(Edict of Nantes)であった。

しかしフランスを越えて、ヨーロッパ全体では新旧両教のあいだの戦争が広がっていた。これこそが、「最後の宗教戦争、最初の世界大戦」と呼ばれる、ヨーロッパのすべての国が新旧両教に分かれて対決した悲惨な三十年戦争(1618―1648)であった。ヴェストファーレン条約によって戦争を終わらせたヨーロッパは、ついに新しい世界を迎えることになった。宗教を超えた民族国家(nation state)が登場したのである。そしてこうした民族国家のあいだでは思想の自由を保障する役割が際立ち、啓蒙主義の思想の実現に寄与することになった。

しかし思いがけないことに、フランスでは、ヨーロッパのこうした寛容主義に反する出来事が起こる。1685年、ルイ14世がフォンテーヌブロー勅令(Edict of Fontainebleau)を布告したのである。この勅令は、1598年に宗教の自由を保障したナントの勅令を廃止するものであった。その結果フランスでは、数十万人の新教徒ユグノーがフランスを去るという事態が起こった。300年後の1985年、フランスのミッテラン大統領は、フォンテーヌブロー勅令によって被害を受けたフランスの新教徒ユグノーたちに謝罪する宣言を発表することになる。

ところが、ルイ14世の不寛容の措置は王の偏った行動であり、民衆の支持を得られなかった。こうした状況のもとで、フランスの思想家たちを中心に、東洋の文明、とりわけ寛容な宗教、精神的な倫理観、啓蒙専制君主である中国の皇帝たちへの並々ならぬ関心が起こりはじめた。それは、フランスがほかのどの西洋の国よりも、新旧両教のあいだの不寛容な闘争の被害を受けていたので、寛容の哲学への渇望がそれだけ大きかったからである。こうして、西洋で理神論(Deism)が発達するころ、東洋の思想がヨーロッパに流れ込んで広く行き渡り、理神論は形成の過程で東洋の思想から大きな影響を受けた。

ひとつはっきりしているのは、理神論を通じて、西洋が東洋の自然への近づき方に大きく近づいたということである。つまり、人間が神を媒介とせずに、直接自然にいっそう近づくようにさせたのである。東洋の道のように生き生きとしたひとつの哲学と倫理の体系には発展しなかったが、西洋の理神論は、人間と自然の関係の解釈において、東洋の道家と多くの共通点を持っていると言える。

ヴォルテールの東洋に対する評価はよく知られているが、ルソーやスピノザの場合は違う。彼らが道家や東洋の道の思想に直接触れて霊感を得たという証拠や記録はない。しかし彼らが自然哲学に関心を示しながら繰り広げた思想体系は、驚くほど東洋の思想に似ている。

ルソーと老子:「自然に帰れ」

ルソーは、フランスのアンシャン・レジーム(Ancien Régime)が掲げた政治社会の状況を批判して、「自然に帰れ」と叫んだ。ルソーはこの訴えによって絶対王政の人為的な秩序を激しく批判し、フランス大革命の堰を切った。ドイツでは、ヘルダー、ゲーテ、シラーらがルソーの叫びに深く共鳴し、若者たちが疾風怒濤の文芸運動を起こして、封建的な秩序への激しい怒りをぶちまけた。ルソーの思想のように、政治、経済、芸術、倫理などをはじめ、文明のさまざまな分野を徹底して批判する立場は、西洋の思想家のなかでもめずらしい。

道は「自然」を中心とする思想体系である。道は、西洋の啓示宗教と対照をなす自然哲学として特徴づけられる。西洋のルソーもまた、「人間は自然に帰らなければならない」と叫んだ人である。ルソーは、東洋の思想の流れを西洋に広めた西洋の思想家のひとりであった。しかし、東洋の思想に対する彼の態度は、ほとんど知られていない。その理由は、ルソーが東洋の思想を好意的に見なかっただけでなく、否定的に評価する文章も残しているからである。彼が東洋の思想を否定的に評価した部分は、ほとんどが儒家にかかわるものであった。啓蒙時代の後半、ルソーは共和主義を理想の政治体制と考え、儒家を君主制を擁護する思想とみなして批判し、退けた。そのため一般に、ルソーの思想は東洋の思想とあまり関係がないと考えられがちである。

しかしルソーは、東洋の道家の思想にきわめてよく似た哲学体系に従っていた。とりわけ、人類の文明に対するルソーの批判と、文明以前の状態の人間の個性を取り戻そうとする彼の試みは、道家の無為の思想と驚くほどよく似た姿を見せている。一方、ルソーが人類の文明を批判した後に示した社会契約論や政治体制にかかわる主張には、道家の思想との関連は見いだせない。そうした主張は、道家の基本思想と相反する部分が大きい。

人間の文明についてのルソーの画期的な思想は、無を中心とする宇宙観、そして無為を人間が従うべき行いと見た点で、道家の思想にきわめてよく似ている。その背景には、啓示宗教とは違って、自然を尊重せよという基本思想があった。したがってルソーには、道家のように自然哲学を尊重し、人間に自然に帰れと主張した面があるのである。

ルソーは、西洋の思想家のなかで、きわめて独自で特異な位置を占めている。彼は、人間と自然の関係を神という存在を通じて解釈する、2000年以上にわたって君臨してきた西洋の伝統的な思想に深く挑んだからである。ルソーはさまざまな次元で、人間と自然の直接のつながりを追い求めた。ルソーの「自然に帰れ」という主張は、啓示宗教に基づく西洋文明の問題点を批判し、文明によって人間が自然から疎外され隔てられたことを指摘して、人間に自然へ帰れと訴えたものとして理解することができる。153

それゆえルソーは、18世紀の宗教と、それにかかわる西洋文明の全体を、新しい観点から見ようとした。彼の独創的な考えは当時は衝撃的なものだったので、彼は相次いで世に出した作品を通じて、西洋文明史に新たな地平を示した。ルソーの著作は、当時の西洋で大きな反響を呼んだ。154 東洋の文明と道家の思想になじんでいなかった当時の西洋の人々にとって、ルソーの思想は新鮮で驚くべきものとして受け止められた。

ルソーは、自然状態において人間は法や道徳の制約なしに生きていたが、社会生活での協力が必要になるにつれて、「法も道徳もいらない黄金時代」を離れることになったと主張した。こうした考えは、儒家が説く理想の堯舜の時代と似た面を持っており、道家の太初の社会の概念である無の哲学とも通じると見ることができる。

故に道を失いて而る後に徳あり、徳を失いて而る後に仁あり、仁を失いて而る後に義あり、義を失いて而る後に礼あり。夫れ礼なる者は、忠信の薄きにして、乱の首なり。(『道徳経』第38章)

道家の観点から見ると、ルソーは西洋の思想家のなかで、自然哲学への洞察力を備えた独特な人物である。ほとんどの西洋の思想家が、有を中心とする思想である啓示宗教の観点からほかの文明を批判し比べてきたのに対し、ルソーは道家のように無を中心とする自然哲学を掲げたからである。ルソーは、キリスト教の天地創造の観点、すなわち無秩序のなかから整えられた世界が生まれたという概念を、完全にひっくり返そうとした。彼の中心的な思想は、「人間は自然のなかで自由で平等で、愛に満ちた幸せな生を送っていたが、社会と文明に入ることで、束縛と不平等、そして嫉妬の世界に陥り、不幸になった」というものである。

ルソーの哲学の根幹は、東洋の「情欲寡浅」(欲望を減らし節制する生き方)の哲学に似ている。これは、「人間が生まれながらに持つ感情と欲望はもともと大きくないが、人間の社会のなかでそうした感情と欲望が人為的に大きくされる」という哲学である。ルソーは、人間を原罪の主体や特別に創造された存在とは見なかった。代わりに、人間を自然の一部とみなした。文明を誇らしいものと考えるほとんどの西洋の思想家とは違って、ルソーは文明を人間の堕落の原因として名指しした。この観点から、ルソーは道家の核心思想と同じように、人間がつくり出した文明に根本的な問題を見たのである。

西洋の思想家のなかには、文明の問題点を指摘した思想家が多くいた。しかしそのほとんどは、文明の肯定的な面と否定的な面、有益な部分と有害な部分を分けて見たのであって、ルソーのように文明そのものを否定的で有害なものと見た思想家はほとんどいなかったと言える。東洋の文明でも、儒家を含めてほとんどの思想家が文明と社会の問題点を見て、それへの補完策ないし解決策を示した。しかし道家は、文明そのものに本質的な問題があると見て、文明以前の自然状態を思い描き、そこに道を見いだし、それを通じて社会の秩序と心の平静を求めようとした。だから、ルソーと道家の思想の出発点に、我々は多くの類似を見いだすことができるのである。

天下に忌諱多くして、民弥いよ貧し。

民に利器多くして、国家滋ます昏し。

人に伎巧多くして、奇物滋ます起こる。

法令滋ます彰かにして、盗賊多く有り。(『道徳経』第57章)

ルソーは、人間はいまは文明と言語を持っているが、はじめは何も持っていなかったと主張した。人間社会の文明はもとの人間に合わないので、人間は不幸にならざるをえないと主張した。同じ文脈で彼は、人間には動物のような気高い情熱があったのに、言語と精神を通じてそれを失ってしまったのであり、結局、精神は複雑な人間社会をつくるのに寄与し、否定的に用いられただけだと主張した。当時の西洋の人々は、宗教の影響から、紀元前およそ4000年に神が人間を創造したときから人間は言語を持っており、神が創造した人間は、創造されたときも今も同じ本性を持っていると考えていた。したがって、もとの善い人間と、文明によって堕落した悪い人間とに分けるのは、革命的な哲学であった。

このようにルソーは、人間の本性を宗教の影響から切り離し、自然のなかの人間として示すことで、西洋の思想界に衝撃を与えた。そこでルソーは、文明はつねに有為的で人為的なものであり、そこから不平等、嫉妬心、そして不自然な欲望が生まれると考えた。彼は「自己愛」(amour de soi、すなわち self-love)と「自尊心」(amour-propre、すなわち pride)を区別した。自己愛は自己保存のための自然な本能であるのに対し、自尊心は人為的なもので、他人との競争を引き起こして不要な不安をつくり出し、他人の弱点や痛みに喜びを感じさせるものだと考えた。

東洋では、道家と儒家の影響によって、ルソーが活動する2000年前からすでに、人間の本性を自然のなかに想定していた。したがって東洋の人々にとって、ルソーの多くの考えのうち、社会契約説を除けば、ほとんどは新しいものではなく、自然に接し、たやすく理解することができる。道家では、「人に先んじないこと」(謙下不争)を重要な倫理のひとつとしている。これは、他人との競争において自尊心を前に出してはならないという意味である。『道徳経』のこの点は、ルソーが唱えた自己愛と自尊心の構図にきわめてよく似ている。『道徳経』は、文明、言語、自尊心などが人間の生を複雑で困難なものにすると考えている。

賢を尚ばざれば、民をして争わざらしむ。

得難きの貨を貴ばざれば、民をして盗を為さざらしむ。

欲すべきを見さざれば、民の心をして乱れざらしむ。(『道徳経』第3章)

ルソーは、芸術や文化の発達を問題意識をもって見ていた。ほとんどの西洋の思想家が、芸術と科学の発達を誇らしく思い、肯定的に見ているのとは対照的である。ルソーは、芸術と科学の発達がかならずしも人類に有益なものだとは考えなかった。彼は、芸術と科学は人間に本当に必要なものではなく、自尊心と虚栄心から生まれた産物だとみなした。さらに彼は、芸術と科学は怠惰でぜいたくな生活を可能にすることで、人間を堕落させたと考えた。こうした見解は、芸術を愛する多くの仲間の芸術家たちから非難を受けた。しかしルソーのこうした思想は、まさに『道徳経』の思想に似ている。

五色は人の目をして盲ならしめ、五音は人の耳をして聾ならしめ、

五味は人の口をして爽わしむ。(『道徳経』第12章)

『道徳経』に続いて『荘子』が展開した道家の思想も、ルソーの思想にきわめてよく似た面をはらんでいる。

大知は閑閑たり、小知は間間たり。

大言は炎炎たり、小言は詹詹たり。(『荘子』内篇・斉物論)

ルソーは、物質的な発展が本当の友情を損ない、友情の代わりに嫉妬、恐れ、疑いが入りこんだと主張した。ルソーは、自然状態において人間はもともと善い本性を持っていると信じていた。社会生活を始めると、人間は他人のまなざしを通じて自分を見るようになり、そのために他人から好意的に見られることが重要になって、人間の個性のゆがみが始まったと考えた。こうした変化によって、もとの善い本性が堕落の過程をたどることになったと、彼は考えたのである。

人間の本性はもともと善いというこうした観点は、孟子の性善説と似たところがある。また、社会と文明が人間の善い本性を損なっているという主張とともに、教育の重要性を強調した点も、孟子と似た面がある。ルソーは教育の重要性を強調し、彼の教育哲学は、単なる知識の伝達ではなく、倫理を中心とする人格教育に焦点を合わせていた。この点で、ルソーの思想は東洋の文明と軌を一にしていると見ることができる。彼の教育論は、情報や概念の伝達よりも、個人の個性と徳性を伸ばし、自分で自分を律する方法を学べるように、教育の目標を定めようとした。彼の最終的な目標は、人々が複雑で不完全な社会環境のなかでも、徳性を保って生きていけるようにすることであった。

このように、ルソーと東洋の道は、人間社会と文明の診断においてきわめてよく似ている。ルソーが有を否定して無の重要性を強調する点では、東洋の道家と似た部分が多い。また、伝統的な宗教が示す神の存在よりも、人間と自然を直接結びつけようとした彼の大胆な試みも、道と深いかかわりがある。しかし、ルソーと『道徳経』が示す解決策は、互いに正反対である。ルソーの解決策は、道の無為の思想とは正反対に極端である。現状の承認ではなく現状の打破が、ルソーのやり方である。また、彼が示す代案の実現可能性についての確信においても、道の現実論とは大きな違いがある。

道は無と有を同時に含み、無を有よりも根源的なものとみなしはするが、有を完全に否定するのではない。この点で、道家は人間社会における有の必要を認めており、ルソーとは異なる。文明の問題点を診断し、その解決策を示すやり方において、ルソーの思想と道の思想は大きく対照をなしている。道が示す提案や解決策は、いずれも文明の一部であるという点で、現実の肯定を基本としている。そのため道家は、社会の秩序と調和、そして個人の福祉のために、道と無為、そしてそこから出てくる倫理を中心とした方向を示す。一方、ルソーは、はっきりとした情熱と確信をもって、革命的な、新しい法的、制度的、理念的な現実打破の解決策を示しているのである。

ルソーは、自由、平等、博愛というフランス革命の核心的な理念を、情熱をこめて主張した。ほかの啓蒙哲学者たちも平等を唱えたが、彼らの平等は、アリストテレス以来強調されてきたように、伝統的なエリート主義にとどまっていた。一方ルソーは、西洋ではじめて、すべての人間の平等を強調した。すべての人を中心とする点は、道家に似ている。しかし道家との違いは、ルソーが新しい政治体制を主張したことである。彼は貴族制と王政に反対し、国家における人民の平等のために共和政を唱えた。

彼は、人間が自然状態で享受していた自由と平等と博愛を社会においても取り戻すために「人民主権」の理論を示し、国家の権力の行使は「一般意志」に基づかなければならず、適当な大きさの共和国において多数の意見によって決定されうると主張した。ここに、ルソーと道家の違いがある。それは人間の本性についての判断に由来する。ルソーは人間の本性を肯定的に見て、人々が人民主権という思想に同意するだろうと想像していたようである。しかし道家は、人間の本性はつねに自らの利益を追い求めるという現実論から離れたことがない。人間の本性についての『道徳経』とルソーのこうした違いは、ルソーの革命的な思想が歴史のなかでどのように展開したかを見れば明らかになる。歴史のなかで、ルソーの人民主権論と一般意志論は、実際には全体の意志を反映するのではなく、少数の意見や見解を抹殺する方向へと進んだ。大衆の支配のなかで道を見失ったフランス革命は、極端なジャコバン主義の方向へと展開していったのである。

ルソーはとりわけ私有財産制度を批判した。私有財産こそが文明の始まりであり、あらゆる不平等、殺人、そして戦争の始まりであると見た。ルソーは、社会が発展するにつれて生まれた人間どうしの分業と私有財産制度が、人間に法の制度を採用させたと考えたのである。この法と制度のなかで、人間は、第一に仲間の人間とのいっそう激しい競争に入り、同時に、第二に仲間の人間にますます依存するようになるという、二つの結果がもたらされたと彼は見た。この二つの圧力が人間の生存と自由を脅かすようになり、人間は危機に陥ったとルソーは考えたのである。ルソーは、知識の発展が支配者をいっそう強力にし、個人の自由を抑えつけるのに用いられるようになったとみなした。

しかし道家は、ルソーのように私有財産制度そのものを問題にしたり批判したりはしなかった。それよりも指導者の貪欲を批判し、民が手本にできる政治をしなければならないと、指導者が指導者らしくある役割の重要性を強調したのである。

其の政悶悶たれば、其の民淳淳たり。

其の政察察たれば、其の民缺缺たり。(『道徳経』第58章)

一部の思想家は、ルソーの私有財産制度への批判がマルクスに大きな影響を及ぼし、それによって共産主義への理論的なつながりの根拠となったと考えている。またほかの思想家は、彼が情熱と本能を重んじたことが、ファシズムの発想に寄与したと主張している。

ルソーが示したこうした独創的な改革の論理と理念こそ、道家が受け入れず、警戒していた部分である。道家では、私有財産を人間の本性から生まれた自然な現象として受け入れており、それを問題として論じたことはない。こうした違いは、ルソーと道家のあいだの人間の本性についての見方の違いから来ていると見ることができる。道家は変わらない人間の本性を前提とし、それを土台として生の均衡と調和を追い求める。それに対してルソーは、人間の本性は長い歴史のなかで政治・経済・社会の条件によって変わると見ている。だから彼は、体制の変革と社会の改革を主張することになったのである。

一方、東洋では、道家の思想の広い影響のもとで、自然哲学の長所を認めながらも、同時に自然哲学が持つ問題点をはっきりと認識するという伝統が根づいた。こうした観点は、道家の宇宙観において、有を認めながらも、有よりも無を本質的に重要なものとみなす陰陽論の態度から来ている。しかし西洋では、ルソーを除いて、ほとんどの思想家が文明の長所をたたえ肯定する傾向が強かった。こうした態度は、啓示宗教の宇宙観において、無には否定的な価値を与え、すべての価値を有に置くという伝統的な観点から出発したものである。

道は人間が従わなければならない原則であるが、限定することも規定することもできないと説かれた。自然もまた、人間が従い尊重しなければならないが、限定することも規定することもできない。それでも、それぞれの時代と個人には生き抜いていくやり方がなければならず、それは道についての時代と個人の解釈から生まれる。結局、絶対的な真理を見いだすことはできないが、それぞれの時代にそれについての答え、すなわち相対的な真理を見いだすことが必要である。こうした真理にとって、人間に降りかかる条件は、現実の世界では欠かせず、重要である。それは、孔子の「根源は絶対的だが、表現は相対的である」という見解や、レッシングの「真理そのものよりも、真理を探究する過程を大切にしよう」という態度によく表れている。

『道徳経』は、こうした時代的で個人的な答えについて一切語らず、こうした答えを追い求めようとする努力をあざけり、戒めた。そうすることで、東洋の文化は、時代の答え、すなわち相対的な真理を絶対化しようとする危うさから抜け出した。一方ルソーは、時代的で個人的な答えを示すことに情熱を見せた。道の哲学とルソーの哲学の違いは、現実を認めることで不要な破壊を避けようとする東洋の思考と、現実の打破を志向してそれによる前進を追い求める西洋の思考との違いを示している。

スピノザと荀子:「神と自然は同一である」

ルネサンス以後、西洋の人々は自然の重要性を発見し、自然の法則が啓示宗教のドグマと衝突することを発見した。西洋で自然の重要性を指摘したのは科学者たちである。啓示宗教が支配していた西洋では、啓示宗教のドグマを認めない人々は、たちまち魔女狩りの犠牲となった。ヤン・フス(1372―1415)のような思想家は、免罪符の販売を強く批判し、聖書中心の信仰を強調した。教皇庁はフスをコンスタンツ公会議に召喚した。フスは身の安全の保障を約束されていたが、火あぶりの刑に処された。

したがって、科学者たちの発見が、反対意見の進展の先頭に立たざるをえなかった。これらの科学者は、コペルニクス(1473―1543)、ケプラー(1571―1630)、ガリレオ(1564―1642)のような天文学者であった。彼らは天体観測を通じて、神の啓示とは異なる自然の法則を証明してみせたのである。聖書やアリストテレスらが唱えた天動説には根拠がなく、地動説こそが科学的に証明された自然の法則だと主張したのである。結局彼らは、自然の法則と啓示宗教のドグマのあいだの衝突を引き起こすことになる。

ルネサンス時代の科学者たちのこうした発見に続いて、ベーコン(1561―1626)のような哲学者が自然に魅せられていた。ルネサンス後期の人物である彼は、啓示宗教の厳しい弾圧のなかで生きていたので、宗教について直接言及することは避けたが、自然の重要性をきわめて強く力説した。

人間は自然の僕であり、自然の解釈者にすぎない。人間の理解力は、自然についての思索と、自然の真実の観察からのみ生まれる。これ以外に、人間は何も知ることができず、何もすることができない。155

科学者たちやベーコンらは、自然の重要性を強調するにとどまった。もし彼らが自然の重要性と宗教のドグマを結びつけていたなら、彼らはみな魔女狩りに遭っていただろう。しかしスピノザ(1632―1677)は、啓示宗教と自然哲学を結びつけながら、自らの哲学を表現した。彼は「神と自然は同じである」と宣言した。スピノザは『エチカ』という書物で、「神すなわち自然」(God or Nature)という表現を繰り返し用いながら、神と自然、すなわち神と道を同一視したのである。東西の文明の核心である神と道をひとつにする哲学体系を掲げた、最初の思想家となったのである。

人間が自然の一部でないということは不可能である……神すなわち自然の力が、人間の存在を保っている。(Spinoza, Ethics, vol.1, IV–Prop. IV)

彼は、人間は自然の一部であり、西洋で神と呼ばれる存在は自然と同じでしかありえないと説いた。歴史的に、スピノザが神と自然を同一のものとして扱った最初の思想家というわけではない。神と自然が同一であるという考えは、紀元前3世紀にクリュシッポス(Chrysippus)というギリシアの哲学者が唱えたことがある。「宇宙そのものが神である」(The Universe itself is God)と宣言したのである。しかしクリュシッポスの著作は残っておらず、ほかの人の著作のなかで言及されることで、彼の主張が伝えられてきた。

スピノザの哲学は、神の啓示に従う示顕論に没頭している西洋の哲学体系の枠を打ち壊す、革命的な宣言である。霊魂の存在、奇跡、三位一体などを、すべて否定するものだったからである。スピノザが自然を重んじ、東洋の文明が自然哲学に基づいていたことから、一部の人々は、スピノザは東洋の思想の影響を受けたと主張して、彼を異端者として批判した。しかしヴォルテールとは違って、スピノザやルソーが東洋の自然哲学から影響を受けたという記録や痕跡はない。

スピノザと荀子は、同じ哲学体系を持っていた。荀子が捉えた道の特性は、スピノザが影響を受けたユダヤ教の先人たちの思想にも表れている。スピノザは、12世紀のマイモニデス(Maimonides)とともに、ユダヤ教の神秘主義哲学であるカバラ(Kabbalah)の影響を受けた。カバラの不顕の哲学は、根本において道の哲学と同じである。神は「無限の存在であり規定することができず」、「万物のなかに内在している」という概念は、まさに道の概念であり、荀子の哲学である。荀子は道についての規定を否定し、道は自然のなかの万物に内在していると信じた。マイモニデスは「否定神学」(Apophatic Theology)、すなわち「神は人間の言語で直接説明することはできず、ただ否定を通じてのみ近づくことができる」と考えた。マイモニデスは神には物質的な属性がないと主張したが、これは、道が擬人化を拒むことで物質的な属性を受け入れないのと同じである。したがって、荀子とスピノザの思想が似ているということは、互いに思想的なつながりのない状況で起こったことである。スピノザが東洋の自然哲学から影響を受けたのではなく、独立した努力の結果と見るべきである。すなわち「思想的な平行」(parallelism)なのである。

スピノザは『エチカ』のなかで、啓示宗教の核心的なドグマに反対する内容を記した。「神には何の目的もない。」「神は人間の営みに干渉しない。」「人間は神を愛さなければならないが、神から愛を期待することはできない。」「神と自然は同一である。」さらにスピノザは、啓示宗教の起源について説明した。

人々はそれぞれ自分の能力に応じて、自分の望む神を崇める方法を編み出す。そして神が隣人よりも自分を愛してくれるように、また自分の果てしない貪欲と盲目の欲望を満たすために、神が自然の成り行きを自分の望むとおりに変えてくれることを望む。こうした偏見が迷信へと発展し、人間の心の奥深くに根を下ろすのである。(スピノザ『エチカ』第1部付録)

スピノザに対するユダヤ教とキリスト教の弾圧は、きわめて厳しかった。156 キリスト教は、紀元4世紀にローマが国教と宣言して以来、ずっと西洋の国教であり続けていた。彼は数百年にわたって、「サタン、邪悪な人間、生まれてこなければよかった人間」などと呼ばれた。そのため多くの西洋の思想家が、彼の著作をひそかに読んで感銘を受けることになる。レッシング(Lessing、1729―1781)やゲーテ(Goethe、1749―1832)のような哲学者がそれに当たる。レッシングはスピノザのような思想の自由を擁護し、預言者を通じた神の示顕に反対したため、当時のドイツ哲学界を支配していた理想主義の哲学者たちから多くの反対を受け、それにともなう困難を経験した。そのためレッシングは、スピノザから学んだ多くの思想を、死ぬまで公にすることができなかった。しかし彼は、死ぬまでスピノザの哲学を奉じていた。

スピノザの哲学(Spinozism)のほかに、哲学はない。157

ゲーテもスピノザと同じく汎神論者と呼ばれた。ゲーテは、スピノザの『エチカ』を読み、そこで自らの思考体系の基礎を形づくったと明かしている。「頭のなかにある多くの考えを整理しようと努めていたとき、ついにスピノザの『エチカ』を読むことになった。スピノザを読んでどれほど多くのことを学んだか、とても言い尽くせない。」158 この告白は、ゲーテが1774年、25歳のときに書いたもので、1832年にゲーテが死んで4年後の1836年に発表された。スピノザがゲーテに多大な影響を及ぼしたので、ドイツの詩人ハイネはゲーテを「文学のスピノザ」と評した。159

スピノザの「神すなわち自然」という表現は、「自然を創造した神」を信じていた西洋で、大きな哲学的、宗教的、社会的、政治的な問題を引き起こした。神と自然が同じなら、神の文明で重んじられてきた神の天地創造、奇跡、霊魂の存在といったものが、すべて問題になるからである。スピノザの思想を受け入れるなら、西洋の神は東洋の道と同じにならなければならない。そうなれば、預言者による神の存在を肯定する示顕論は、道が唱える、絶対真理は表現されえないという不顕論へと姿を変えることになる。160 西洋の文明と東洋の文明の核心的な体系が入れ替わるという事態を経験することになるのである。

東洋では、自然(道)と神の衝突の問題はほとんど起こらなかった。西洋のパラダイムが東洋を支配した19世紀以後も、東洋の道についての哲学体系は変わっていない。中国と日本で啓示宗教を奉じる人は、1~2%ほどにとどまっている。韓国(南)では30%以上の人がキリスト教を信じると表明しているが、彼らはほかの思想にきわめて寛容であり、宗教どうしの闘争は起こらない。

これは、東洋では紀元前5世紀から前3世紀の戦国時代を通じて、民族国家が西洋より2000年早く誕生し、それを通じて自然哲学と民本思想が哲学体系の中心に立つようになったからである。161 戦国時代の荀子(紀元前310―前235)の自然哲学がそれを反映している。荀子は道家と儒家の思想を融合しながら、人間が当時流行していた迷信と巫俗のなかで生きることのないよう主張した。『道徳経』には東洋の自然観のすべての基礎があるが、それは荀子によって現実的にはっきりと表現される。

天に志す所の者は、已に其の象を見わして以て期すべき者なり……治乱は天か。曰く、日月星辰瑞暦は、是れ禹・桀の同じくする所なり。禹は以て治まり、桀は以て乱る。治乱は天に非ざるなり。(『荀子』天論)

荀子は「社会の治乱は天が決めるのか」と問い、答えは「否」であると説明している。こうした観点は、2000年近く後に、シェイクスピア(1564―1616)によって西洋で同じように示された。

ブルータスよ、我々が(ジュリアス・シーザーの)臣下に甘んじているのは、天にある我々の星のせいではない。我々自身のせいなのだ。162

荀子の著作には、道が人間の姿をとって、その言葉と行いを人間に見せる場面を描いたものは一切ない。また、奇跡を行って人間を自分に従わせる姿を描いたこともない。彼は「雩せずして雨ふる」と力説している。

夫れ星の隊ち、木の鳴るや……之を怪しむは可なり、而して之を畏るるは非なり……雩して雨ふるは何ぞや。曰く、何も無きなり、猶お雩せずして雨ふるがごときなり……故に君子は以て文と為し、而して百姓は以て神と為す。以て文と為せば則ち吉、以て神と為せば則ち凶なり。(『荀子』天論)

荀子は、「人間の存在を保っているのは、神すなわち自然の力である」というスピノザの哲学と同じ哲学思想を展開している。ただ、荀子は道を、スピノザは神を、思考の中心として表現した。「道(神)は人間の営みに干渉しない。」「人間は自分のために道(神)の道に従わなければならない。」「道(神)の道は人間の本性に現れる。」「道(神)を愛する人が、道(神)が自分を愛してくれることを期待することはできない。」「人間が自然の一部であることは否定できない。」「人間を含め、宇宙のすべてのものは、道(神)の力によって存在する。」

二人のあいだのこうした「思想的な平行」を示す表現は、荀子の「天論」篇に、そしてスピノザの『エチカ』に見いだすことができる。以下の句は、荀子とスピノザの二人の哲学が似ている点を強調するために、スピノザが著書『エチカ』で定義した神を道に置き換えて、そのまま記したものである。

道は無限の存在である。無限の属性を持つ道は必然的に存在する。無限の実体である道は分割することができない。道のほかには、いかなる実体もありえず、想像することもできない。存在するものはすべて道のうちにあり、道なしには何ものもありえず、想像することもできない。人間は自然の一部でしかありえない。心が持ちうる最高の知識は道である。心が持ちうる最高の徳は道である。道は誰も愛さず、誰も憎まない。なぜなら道は、いかなる喜びや苦しみの感情にも左右されないからである。人間を含む世界の万物が自らを保つ力は、まさに自然すなわち道の力である。したがって人間の力、すなわち人間の本質の表現としての力は、自然すなわち道の無限の力の一部である。誰も道を憎むことはできない。道を愛する人間は、その見返りに、道から愛を期待することはできない。

荀子とスピノザの哲学は、21世紀の我々にもよく当てはまる説明をしている。それほど合理性が強い。しかし我々は、文化はホモ・サピエンスの脳がつくり出したものであって、精神と本能がともに働いた結果であり、けっしてホモ・サピエンスの新しい脳である精神が単独で働いてつくり出したものではないことを覚えておかなければならない。合理的にだけ判断すれば、示顕と不顕、すなわち神と道の哲学はひとつに合わせることができ、統一されるべきである。神と道の衝突はなくなりうる。しかし現実には、神と道は、別々の文明の体系を形づくるほど大きく異なって存在している。東西の文明の特性は、哲学、文学、教育、行動に表れているのである。

東西の文明を通じて、地球上には示顕と不顕が共存するという現象が見られる。西洋では教会に通う人は大きく減ったが、思想体系はいまなお示顕の体系に従っている。精神の判断と現実の必要とのあいだの葛藤のなかで、人間の心情の実体は、精神の判断よりも、結局は自己保存の本能に従っていく。神と道の概念が現れる前から、すでに人間の考える心があった。自然であれ人間であれ、すべての存在が自己保存の原則や本能に従っていくのは、人間が精神だけでなく、精神と本能を合わせた人間の本性に拠っているからである。

しかし実際の歴史的な状況では、神と道は合一へではなく、衝突へと進んでいく。東洋と西洋の文明の衝突は、東洋の自然哲学と西洋の啓示宗教の衝突として表れる。こうした衝突は、東洋よりも西洋で起こった。超越的な神の存在と、人間が頼らざるをえない自然とのあいだの隔たりのためである。こうした衝突は、哲学体系の衝突である以前に、自分たちが保っていた既得権を守るという形で、歴史的に進んでいった。人間のあらゆる振る舞いは、哲学体系を含めて、すべて自己保存の原則に帰着する。自己保存の原則は、人間の本性から生まれるのである。

注

  1. 119

    近代以後、東洋の文明は西洋の文明から大きな影響を受けている。とりわけ、東洋の関係主義が西洋の個人主義と混じり合っている状況が生まれている。東洋の多くの若者は、西洋の若者と同じように、「お金をたくさん稼いで有名になる」(rich and famous)ことを望み、それを追い求めることに力を注いでいる。しかし、一つの文明は深く広い影響力を持っている。現在の状況が文明そのものを変えて、東洋の文明が西洋の文明のように、とりわけ東洋の関係主義が西洋の個人主義へとのみ込まれていく過程をたどると見るのは、あまりにも単純である。数千年をかけて積み上げてきた東洋の文明と強力な西洋の文明のあいだで、対話と衝突が同時に起こっていると見るのが正しい。数世代、あるいは数百年が過ぎてはじめて、その結果がわかるのである。

    ↩
  2. 120

    中国や日本より韓国に広く広まっているキリスト教の思想においても、関係主義は生き残っている。「私と神の関係」は、私に中心を置く個人主義を表す。しかし東洋のキリスト教徒の多くは、「私と親の関係」のほうが重要だという関係主義を重んじる。神と祖先のどちらが重要かという点で、韓国のキリスト教徒は、西洋のキリスト教徒とはかなり異なる考えを持っている。

    ↩
  3. 121

    もちろん、哲学的には一元論、二元論、多元論などに分けることもあるが、これは東洋と西洋の文明の比較を離れて、別に扱うべき部分である。

    ↩
  4. 122

    倫理の面でも、儒家とキリスト教が人間に勧める黄金律は、こうした東洋の不顕論・否定神学に対する西洋の示顕論・肯定神学のパターンに従っている。儒家は「己の欲せざる所は、人に施すこと勿かれ」と勧め、キリスト教は「人にしてもらいたいと思うことを、人にもせよ」と勧めているのがそれである。

    ↩
  5. 123
  6. 124

    精神文化にだけ思想の流れや流行のようなものがあるのではなく、自然科学でも同じであり、自然科学は、その言葉が含んでいるように帰納的なのではけっしてなく、概念をあらかじめ定め、その概念に従って、見いだされた自然現象を集めて合わせていく演繹的なものであるというのは、きわめて興味深い事実である。西洋の哲学者や科学者が数百年にわたって鉄則として奉じてきた「自然は飛躍しない」が、20世紀に入って物理学でも進化論でも退けられたのが、その一つの例である。グールド教授の断続平衡説と、現代の量子論が明らかにした電子の飛躍とのあいだの完璧な類似性は、驚くべきものである。進化は(地質学的な時間で見れば)短い時間のうちに起こり、ひとたび進化した種は百万年から二百万年のあいだほとんど変化しないという理論と、電子が大部分の時間を基底状態(ground state)にあって、離散的な(discrete)やり方で励起状態(excited state)へと量子飛躍(quantum jump)し、きわめて短い時間励起状態にあった後、すぐに基底状態へ戻るという現象は、ほとんど完璧な類比(analogy)をなしている。

    ↩
  7. 125

    こうした電子の動きについての発見にもとづいて、新しい光であるレーザー(laser)が開発されたことは、周知の事実である。

    ↩
  8. 126

    ボーア博士は、自らの紋章(coat of arms)に太極を用い、「対立するものは相補的である」(Contraria sunt complementa)という文句を刻み込んだ。

    ↩
  9. 127

    現代の西洋医学は、西洋の人々が長いあいだ信じてきた霊と肉の分離した存在を否定し、精神と肉体は不可分の一体であることを説明している。20世紀の西洋の現代物理学が、光の本質は粒子と波動という二つの性質を持っており、この二つの性質を排他的なものや二律背反的なものではなく相補的なものとして捉えるようになったことと、20世紀の現代医学が、精神と肉体を分裂したものではなく、やはり相補的なものとして捉えはじめたこととが、西洋の文化史の長い流れに照らして、ほぼ同時に起こったのは興味深いことである。

    ↩
  10. 128

    Fritjof Capra, The Tao of Physics, 前掲書, p.50

    ↩
  11. 129

    Albert Einstein, La Relativité, 前掲書, p.8

    ↩
  12. 130

    西洋の科学が長いあいだ悩んできた光の本質について、波動と粒子の二つの性質をともに持つという矛盾を受け入れなければならなくなったとき、そして最小の粒子が、陽子、電子、中性子のほかにも数百の素粒子に分かれることを発見したとき、科学者たちは、物質の本質や最小の粒子を理解することへの信念や、絶対的な真理への信頼を捨てざるをえなくなった。こうした新しい物理学的な発見において、西洋の物理学者たちが最も悩んだのは、それを説明する哲学的な概念の不足であった。科学的な発見は帰納的なものとしてよく知られているが、同時に驚くほど演繹的でもある。すなわち、新しい発見を整理し説明できるように、理論と概念が必要なのである。宇宙と粒子という巨大な世界と微細な世界の発見は、西洋の文化で主流をなしていた、絶対的で、機械的で、漸進的で、排他的な概念では説明できなかった。西洋の文明の基礎をなすこうした概念は、ユークリッドの幾何学、ニュートンの物理学、ダーウィンの進化論のように、西洋の哲学においても宇宙の基本原理として受け入れられてきたので、西洋の科学がこうした概念から抜け出すことは多くの困難を招いた。

    ↩
  13. 131

    量子物理学が現れる前、西洋の科学と哲学は「自然は飛躍しない」という大原則の上に築かれていた。しかし原子の世界に入ってみると、「自然は飛躍する」という仮説が成り立つ。科学者たちは、電子が基底状態(ground state)から励起状態(excited state)へと実際に「飛躍」する現象を発見するにつれて、自然は飛躍しないという因果関係を捨てざるをえなくなった。こうした発見は、レーザー光線の開発などを可能にした。量子力学では、あらゆる過程の至るところに、飛躍が前提とする新しい方向への変化の可能性が潜んでいると見なければならない。西洋の近代文明全体を支配してきた因果律は絶対的ではなく、限られた範囲のなかでだけ働くことが、量子力学で証明されたのである。

    ↩
  14. 132

    一般に、アインシュタインが「神はサイコロを振らない」(God does not play dice)と言ったとされている。しかし、アインシュタインは啓示宗教を信じていなかったので、Godではなく、「自然の法則」を意味する「老いたる者」(the Old One)、「彼」(He)という表現を用いた。神よりも道に近い表現である。マックス・アーマン(Max Ehrmann)がその詩「デジデラータ」(Desiderata)で、「Therefore be at peace with God, whatever you conceive Him to be」という句を残したが、ここで用いられたHeという表現と同じ脈絡である。こうした表現は、いずれも、スピノザが示した「神すなわち自然」(God or Nature)において、Natureが表す自然の法則と軌を一にしている。結局、西洋の神よりも東洋の道に近い表現となるのである。

    ↩
  15. 133

    東洋と西洋の人間の営みは、実際には道と神の哲学体系のなかで起こる。我々が道や神に従うのは、精神の判断によるのではなく、我々が東洋と西洋のどちらで生まれたかによって決まる。これは、人間は結局自己保存の本能に従うということを意味する。東洋に生まれれば大部分は道の概念に従い、西洋に生まれれば大部分は神の概念に従うことになる。結局、人間のなかには、神と道の哲学体系がともに存在しているのである。心理的に分析すれば、一人の人間の内部で、こうした二つの体系の特性が、状況によって発揮される場合が多い。

    ↩
  16. 134

    西洋は、1453年に、コンスタンティノープルと地中海の制海権をオスマン帝国に奪われることになる。数百年にわたってヴェネツィアが独占してきた、地中海を通じたアジアの香料の輸入が途絶えたのである。西洋の各国は、香辛料を求めて、15世紀末に大西洋とインド洋の二つの方面へと乗り出し、ヨーロッパから東南アジアの香料の産地へ向かう直行の航路を、必死に切り開くことになる。1492年にコロンブスが大西洋の横断に成功し、1497年にヴァスコ・ダ・ガマがインド洋の直行航路の開拓に成功する。当時、東洋の香辛料の貿易は、ヨーロッパで「黄金より貴い」と呼ばれるほど莫大な利益を上げた。実際、航海で直接運んでくれば、原産地の価格の最大200倍の利益を上げることができた。胡椒、丁子、ナツメグ、シナモンのような香辛料がそれである。インド、スリランカ、インドネシアのモルッカ諸島は、「香料諸島」と呼ばれた。ヨーロッパのなかで、香辛料は、食べ物の保存、薬、香料などに用いられ、貴族と上流層の必需品であった。

    ↩
  17. 135

    Marcel Launay; Gérard Moussay (24 January 2008). Les Missions étrangères: Trois siècles et demi d'histoire et d'aventure en Asie. Librairie Académique Perrin. pp. 77–8. ISBN 978-2-262-02571-7. http://en.wikipedia.org/wiki/Chinese_Rites_controversy#Reception_in_China

    ↩
  18. 136
  19. 137

    Dun Jen Li (1969). China in transition, 1517-1911. Van Nostrand Reinhold. http://en.wikipedia.org/wiki/Chinese_Rites_controversy#cite_note-Li1969-33

    ↩
  20. 138
  21. 139

    Walter Demel, “China in the Political Thought of Western and Central Europe, 1570-1750,” in China and Europe: Images and Influences in Sixteenth to Eighteenth Centuries, ed. Thomas H. C. Lee (Hong Kong: The Chinese University Press, The Chinese University of Hong Kong, 1991) 45-64

    ↩
  22. 140

    西洋の神が一神論から理神論へと移るあいだに、東洋の道の思想もまた、それ自体の変化を経た。

    漢の後、中国はふたたび戦乱の渦に巻き込まれ、隋によって統一されるまで、約400年にわたって統一された秩序を失った。この期間、道教は民衆のなかで現実逃避の性格を強く帯び、世を惑わし民を欺くことに悪用されもした。『三国志』で言及される黄巾賊は、太平道と呼ばれた道教的な団体の武装集団である。黄巾賊の指導者張角は、乱れた国の状況を利用して、自らを神仙と称し、さまざまな呪術と誇張された道術によって、民衆のあいだに大きな影響力を持つようになった。こうした民衆の道教の思想が、西洋の啓蒙の時代のころとその後に、中国でふたたび現れると、東洋の思想界を支配していた儒教と道家の哲学体系を揺るがす状況が起こることになった。東洋で黄巾賊や太平天国の乱のように、自らが絶対者の信任を受けたと主張する人々が現れたのと同じように、西洋でも宗教的な預言者たちが絶えず現れた。歴史的に西洋は、宗教を中心とした社会構造のなかで、東洋よりはるかに頻繁にこうした現象を経験した。西洋の唯一神の宗教の伝統のなかでは、啓示を受けたと主張して新しい宗派を創設する預言者たちと、既存の宗教の権威に挑む宗教改革者たちが、次々と現れることになった。彼らは、誰が絶対的な真理を持っているのかという問題のために、異端と正統という生死を分ける対立の構図に陥ることになる。人間の生に介入する超自然的な存在を持ち込むことは、目の前の行動の指針としては役に立つが、長期的な見通しを持って先に備えるうえでは、問題が生じるものである。たとえば、東洋でときおり起こった民衆の反乱は、たいてい、迷信的な超自然的存在と、それを中心とした自らの特別な関係を主張する指導者たちによって主導された。しかし、太平天国の乱のような事例に見られるように、一人の超自然的な能力の主張は、ほかの人の似た主張を呼ぶことになり、そのために彼らのあいだの葛藤は増幅されるものである。太平天国が経験した内戦は、単なる偶発的な事件ではなく、その基本構造の弱点から来たものである。洪秀全が主張した天の神との出会いは、彼に巨大な権威を与えて人々を動かしたが、それは同時に危険をはらんでいた。洪秀全が会ったと主張する天の神に、ほかの人、たとえば楊秀清が会わない理由はない。とりわけ、すべての人は天の神の子であるという主張のもとでは、その確率はいっそう高くなる。(李恵京教授「中国人は神の降臨を望んだ――洪秀全の太平天国、儒学の家族主義がつくった中国的な天の神」、『新東亜』・ソウル大学HK文明研究事業団共同企画「文明の交差路で」⑫(韓国語)を参照)

    ↩
  23. 141

    とりわけ、ギリシアの哲学者ピュロンを典型的な不顕論者として説明した点を参照。

    ↩
  24. 142

    バークリー(1685―1753)は、英国国教会の主教でありながら経験論を唱えた。彼は、「存在するとは知覚されることである」という命題を通じて、あらゆる存在は認識の主体の感覚の経験を通じてのみ存在し、感覚を通じて得た経験だけが真の知識の根拠であると見た。同時に、人間の知覚ではなく神の知覚を通じて世界は存在すると主張し、物質的な実体を否定して精神的な実体だけを認め、外の世界は精神の認識の対象にすぎないと主張した。彼の経験論は、過激な面を見せている。

    ↩
  25. 143
  26. 144

    Entretien d’un philosophe chrétien et d’un philosophe chinois sur l’existence et la nature de Dieu (1708)、『キリスト教の哲学者と中国の哲学者との対話:神の存在と本性について』。この本でマールブランシュは、朱子学の理気論とスピノザの神の概念とのあいだの類似性を指摘した。この本は、マールブランシュ自身がスピノザ流の哲学者、あるいは東洋の哲学者だと批判されたことへの答えとして始まったと伝えられている。

    http://www.jstor.org/discover/10.2307/1398757?uid=3738392&uid=2129&uid=2&uid=70&uid=4&sid=21103170649027

    ↩
  27. 145

    Durant, Will (2011-06-07). Our Oriental Heritage (Kindle Locations 15169-15185). Simon & Schuster, Inc. Kindle Edition.

    ↩
  28. 146

    我々が東洋と西洋の文明を比べるとき、いつも突き当たる問題がある。それは、東西の哲学史において、東洋の紀元前の老子、孔子、荀子の思想を、西洋の啓蒙の時代のルソー、ヴォルテール、スピノザらの思想と比べることになるということである。ヴォルテールと儒教、ルソーと道家には、ほぼ二千年という時間の差があるが、こうした状況をどう受け止めればよいのだろうか。西洋の哲学体系は、世界の文明は進歩しつづける過程にあると見て、東洋の文明は数千年にわたって変化を経なかったので、西洋の文明に大きく遅れていると判断した。これからも発展しつづける西洋の文明に、東洋の文明は追いつけないという結論に至ることになる。しかし近年、もう一つの説明が現れている。それは、民族国家の出現を基準として、民族国家とともに現れる哲学体系を比べようというものである。西洋の民族国家は1648年のヴェストファーレン条約以後になってようやく形成され、東洋の民族国家は二千年早い戦国時代に形成されたので、そのときに形づくられた東洋と西洋の哲学的なパラダイムを比べることになるのは当然のことである。民族国家の出現は、必然的に哲学的なパラダイムの変化を引き起こす。そのなかの重要な要素は、中世の千年以上を支配していた啓示宗教の哲学的なパラダイムが、民族国家の出現において、自然宗教のパラダイムの影響を受けることになるということである。啓示宗教のパラダイムで最も問題となるのは、神が人間の営みに介入するという問題であり、ここで最も重要な要素は神が行う奇跡である。こうした重要な問題において、西洋の理神論者たちは、東洋の自然哲学の体系がすでにこうした難題を解決しているのを見て、感銘を受けることになる。

    ↩
  29. 147

    Voltaire, Dictionnaire Philosophique, De Etiemble, Paris, 1967, p.76,

    ↩
  30. 148

    Voltaire, Dictionnaire philosophique, 前掲書, p.343.

    ↩
  31. 149

    Voltaire, 前掲書, pp.108–109.

    ↩
  32. 150

    Baruch Spinoza, Ethique, Garmier-Flammarion, Paris, p.220·233.

    ↩
  33. 151

    Bertrand Russell, Human Society in Ethics and Politics, 金泰吉訳『人間社会秩序論』(韓国語)、博英社、p.64。

    ↩
  34. 152

    こうして啓蒙の時代に理神論が流行するにつれて、伝統的な「神」の概念は、さまざまな主張に従って、さまざまな定義と類型に分かれることになる。このとき論じられた形として、有神論(theism)、一神論(monotheism)、多神論(polytheism)、理神論(deism)、汎神論(pantheism)、無神論(atheism)などがある。伝統的なユダヤ・キリスト教の唯一神の思想では、「神」は超自然的な存在であり、信仰の活動の焦点となるが、理神論では、「神」は「宇宙を創造はするが、その後は人間の営みを含む宇宙の運行に干渉しない存在」と定義される。理神論によれば、「神」は超越的な存在として、宇宙を創造した後は人間の営みに介入せず、擬人化されない存在であり、人間の祈りに応えないので奇跡を起こさず、人間が存在することにさえ関心がなく、おそらく人間について知らないだろうと想定される。ここで問題となるのは、「神」が宇宙の創造の後に消えてしまったような状況であるなら、宇宙とは別の「神」がいることといないことの違いは何なのか、という疑問である。これに答えるのが汎神論である。汎神論によれば、「神」は自然と同一の存在であるという違いがある。汎神論とは、「世界の外に別に存在する人格神がいるのではなく、宇宙、世界、自然のすべてと自然法則そのものを『神』と呼ぶ、あるいは『神』と自然は一つなので、その世界のなかに一つの『神』が内在している」という宇宙観である。

    ↩
  35. 153

    ヴォルテールは、ルソーの哲学をこう評価した。我々みなが動物のように四つ足で這い回り、原始人のようにふるまうことを望んだが、それは彼がそれらを完全な被造物だと考えたからである、と。こうした考えから、「高貴な野蛮人」とか「自然に帰れ」という考えが出てきたのである。彼にとって、ルソーの許しがたい罪は、文明の奢侈と優雅を退けたことであった。ヴォルテールは、優雅を「最も必要なもの、すなわち余分なもの」と呼んだ。

    ↩
  36. 154

    彼の政治思想の書である『人間不平等起源論』と『社会契約論』は、民衆中心の西洋の政治思想史の発展に一線を画すものであり、フランス革命に直接の影響を与えた。『エミール』は西洋の近現代の教育制度に影響を与え、『新エロイーズ』は西洋におけるロマン主義の始まりを意味するものとなり、『告白』は西洋の自伝の嚆矢となった。『孤独な散歩者の夢想』は、西洋の近代小説の技法に影響を与えた。彼は音楽に造詣が深く、楽譜についての新しい理論を打ち立て、オペラを作曲して上演しもした。精神より感性を重んじ、何の考慮もなく行動し、考えをそのまま表に出して生きたので、彼の理論と生涯は、見方によっては矛盾だらけに見えもする。たとえば、その著書『エミール、または教育について』を通じて幼児教育の重要性を強調しながら、自分の子どもたちはみな孤児院に預けるという生涯を送ったのである。

    ↩
  37. 155

    Bacon, Francis (2013-07-29). Complete Works of Francis Bacon (Kindle Locations 4574-4580). Minerva Classics. Kindle Edition.

    ↩
  38. 156

    スピノザは、啓蒙の時代の初期にヨーロッパで暮らしていたユダヤ人である。イベリア半島を8世紀から15世紀まで約700年にわたって支配したイスラームの帝国は、ユダヤ人に寛容な政策を取ったので、ローマ帝国によって追放されたユダヤ人の多くが、イベリア半島へと住まいを移した。スピノザの家族も、そのなかに含まれていた。ところが15世紀に、スペインとポルトガルがイベリア半島からイスラームの勢力を追い出すと、その王たちはユダヤ人の財産に欲を出すようになった。彼らはユダヤ人の財産を狙って、キリスト教に改宗するか、財産を置いてポルトガルを去るか、二つに一つを選ぶよう強いた。そこでスピノザの家族は、当時西洋で最も開かれた国であったオランダへと、ふたたび移り住むことになる。そこでスピノザは、強い改宗の圧力にもかかわらず、ユダヤ教とキリスト教の啓示宗教に反対し、自らの哲学を展開しはじめる。彼は、人間は自然の一部であり、西洋で神と呼ばれる存在は自然と同じものであるほかないと主張した。

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  39. 157

    University Press of America, Gerard Vallee, The Spinoza Conversations between Lessing and Jacobi Jacobi, University press of America, 1988, p.29

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  40. 158
  41. 159
  42. 160

    ここに、ギリシアの不顕論者たちが持っている価値が表れる。我々は、ユング(Carl Jung)が、「もし西洋の世界がヘラクレイトスの哲学の影響を受けていたなら、西洋の人々は今日、キリスト教徒ではなく中国人のようになっていただろう」と述べたことを思い起こさなければならない。すなわち、ヘラクレイトスが生きた時代には、ギリシアで不顕論者と示顕論者が、哲学的な多様性をなしてともに存在することができた。しかしソクラテス以後、不顕論者たちは西洋の哲学史においてあらゆる勢力を失い、西洋の文明は完全に示顕論の世界へと落ち込んでいく状況を経験することになる。ところが、いまふたたび不顕論の哲学の世界を経験しようとするなら、はるか二千五百年前のギリシアの不顕論者の哲学の世界を、もう一度訪ねなければならない。スピノザは、こうした二千年を越える時代の転換を、西洋の人々に宣言したのである。

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  43. 161

    民族国家の出現がどのように思想体系を変えるのかという部分は、『東洋と西洋』第3部第2章に説明されている。

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  44. 162

    William Shakespeare, Julius Caesar, act 1, scene 2, lines 140–141.

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