1) 東洋の文明に対する西洋の否定的な評価
歴史的に見ると、西洋は東洋の文明について、長いあいだ肯定的な評価をしていた。では、なぜこうした重要で興味深い事実が、我々にあまり知られていないのだろうか。理由は簡単である。東洋の文明に対する西洋の啓蒙時代初期の肯定的な評価が、啓蒙時代後期に入って180度方向を変え、否定的なものへと変わったからである。啓蒙の時代以後は、西洋の産業革命の時期と一致する。産業革命によって西洋は、西勢東漸、東洋を物理的に征服しはじめた。蒸気と大砲で武装した西洋の艦船の前で、東洋の木造船は、まさに猫の前のネズミのように倒れていった。産業革命の前と後とで、西洋の東洋に対する評価は、文明ではなく科学と技術にもとづく評価へと変わった。圧倒的な西洋の地位は、当然、東洋の文明に対する評価を肯定から否定へと変えるきっかけとなった。
啓蒙の時代の初期、西洋の思想家たちは、西洋の君主たちが絶対的な権力をふるい、個人の思想はもちろん経済生活にまで細かく干渉しているときに、東洋では君主が倫理の制約を受けながら、民の生活への干渉を最大限に減らす統治を行っているのを見た。そこで東洋の君主を、「啓蒙専制君主」(enlightened despot)という、当時西洋が追い求めようとしていたロールモデルが示顕されたものとして評価した。しかし啓蒙の時代の後期に入ると、西洋の思想家たちは、君主制ではなく共和政を夢見て、ギリシア・ローマ式の民主政体をモデルとしながら、東洋の啓蒙専制君主に対する評価を否定的なものへと変えはじめた。西洋の思想家たちが共和政を夢見るにつれて、中国の専制君主に対する好奇心と好意は、非難と嫌悪に取って代わられることになる。
フランスの百科全書派の指導者として啓蒙の時代を主導したディドロ(1713―1784)は、啓蒙思想家たちのなかで自らの考えを変えた代表的な人物である。彼は、初期には東洋の文明を西洋の文明と対等な位置に置き、とりわけ宗教と倫理の面で肯定的に見て評価した。しかし後期になると、中国的なものを非科学的で偏見に満ちていると貶めた。彼は、西洋が見習うべきは、ルソーが示した「高貴な野蛮人」であって、もはや中国の自然哲学ではありえない、と宣言した。エルヴェシウス(1715―1771)もまた、考えを変えた思想家の一人である。中国の啓蒙専制君主を高く評価していた態度を変え、中国の皇帝を啓蒙されていない圧制者だと批判した。ルソー(1712―1778)とコンドルセ(1743―1794)もまた中国を批判しはじめたが、彼らは、自由の不在が中国の政治的・倫理的な発展を妨げていると見た。モンテスキュー(1689―1755)は、とりわけ東洋の文明そのものが自由という概念を持っていないと定義した。彼は、中国の政体は恐怖をあおる圧制の政権であり、東洋には政治的な自由という概念が存在しないと批判した。
19世紀の西洋は、その世界征服の最後の目標である東洋を植民地化することに没頭することになる。東洋は、西洋の圧倒的な科学と軍事力の前に、なすすべもなく崩れる。東洋は、西洋勢力による東洋の占領、すなわち西勢東漸という未曾有の状況に置かれることになる。当然、西洋は、東洋についての評価と認識を、いっそう新たに否定的なものにしはじめた。物理的な支配の流れに乗って、思想の面でも、西洋ではそれを裏づける考えと哲学体系が生まれることになる。こうした流れは、西洋の歴史哲学者たちによって体系化された。
東洋に対する西洋の見方の変化は、まもなく思想の面を離れて、人種的な偏見へと波及した。啓蒙の時代の初期、西洋が東洋の思想を西洋より優れたものと見てそれに傾倒していたときには、東洋人を「白人」に分類していた。しかし啓蒙の時代の後期以後、とりわけ西洋の世界征服が成し遂げられるにつれて、東洋人は「黄色人」へと化けることになる。368 西洋の白人より文明的に劣っているだけでなく、それは人種的な理由によって変わりえないものだと強調した。これは結局、彼らの世界征服と搾取を正当化するためのものであった。ここから西洋の人々のあいだに、世界を征服し未開の世界を教え導くことが「白人の責務」であるという考えが発展して出てくる。東洋と西洋の関係についても、東西の交流へのライプニッツの希望と楽観的な見解とは反対の側に立つことになる。東洋と西洋はまったく異なる文明を持っており、西洋がはるかに先んじているのだから、交流のようなものは不要だという見解が流行するようになった。イギリスの詩人キップリング(Kipling)は、1889年に発表した「東と西のバラード」(The Ballad of East and West)という詩で、それを凝縮して表現することになる。
東は東、西は西。この二つが相まみえることはないだろう。最後の審判の日、大地と天が神の裁きの座の前に立つそのときまで。369
こうした風潮は、かつての東洋についての肯定的な評価を正す作業も含むことになる。一つの例として、西洋のルネサンスの時期に決定的で肯定的な影響を及ぼし、西洋の思想家たちから賞賛を受けてきたモンゴル帝国についての評価も、根本的に変わることになる。近代と現代に入って、とりわけ18世紀の産業革命とそれに続く世界征服が進められる時期に、そうなったのである。西洋の思想家のなかには、チンギス・カンと同時代の13世紀、そしてその直後の14世紀から15世紀のルネサンスの時代、17世紀から18世紀の啓蒙の時代の前に至るまでの数百年のあいだ、モンゴルとチンギス・カンを肯定的に評価する人々がいた。こうしたかつての評価を正す作業が大々的に起こり、ついには人種的な評価にまで至ることになる。
ヨーロッパのほとんどすべての科学者は、人類をアフリカ人、アジア・モンゴル人、そしてヨーロッパ人の三大人種に分類する案を受け入れた……そして、最も進化したヨーロッパの白色人種に比べて、アジアのモンゴル人は、新生児の状態で成長の止まった程度の知的障害者として記述されはじめた……その後、彼らは類人猿のオランウータンにきわめて近いものとして扱われ……果ては医学的に、知的障害者をモンゴロイド(Mongoloid)という名称で呼ぶまでになった。370
こうした人種的な偏見は新しい傾向ではなく、西洋の文明のなかで連続性を持っている。ギリシアの時代にさかのぼれば、東洋を嫌悪する、いわゆるギリシアの時代の「オリエンタリズム」に表れている。こうした考えは、近現代の西洋で拡大再生産される。古代ギリシアとペルシアのあいだの戦いに表れた「オリエンタリズム」の劣等性を全世界へと広げ、それと比べて西洋とほかの人種を区別し、西洋の優越性として表そうとしたのである。
紀元前472年に上演された悲劇『ペルシア人』は、ペルシア戦争を劇にしたもので、ギリシア人がペルシア帝国と交わり衝突するなかで何を省みたのかをよく示す事例である……ペルシアの専制政治と位階秩序、莫大な富と奢侈、感情表現の過剰、無秩序、臆病さに対して、ギリシアの民主政治と平等主義、倹約と節制、自己規律と秩序、勇敢さを対置したのである……悲劇『ペルシア人』の分析と解釈を受け継いだヘロドトスは、西洋と東洋、ヨーロッパとアジア、ギリシア人と非ギリシア人、専制政治と民主政治の二分法をいっそう発展させる。こうして、前者が後者より優れているというイデオロギーが生まれたのである。こうした伝統から、オリエンタリズムが始まった。371
近年、オリエンタリズムを再び広めた代表的な西洋の歴史家が、ほかならぬウィットフォーゲル(1896―1988)である。彼は『東洋的専制主義』(Oriental Despotism)という著作で、ヨーロッパを除くほとんどの地域ではいずれも「水資源と農業を根幹とする文明」(hydraulic civilization、水力文明)が発達したが、それはいずれも専制主義を生んだと評価した。そこで、近東、中東、極東はもちろん、ほかの地域の文明までをすべて専制主義と見て、オリエンタリズムとして一まとめにし、西洋と比べようという考えを展開した。まさに「西洋とそれ以外の世界」という二分法である。当時、世界へと伸びて天下無敵の地位を享受していた西洋の時代精神にぴったり合う本を出版したのである。彼の本は西洋の人々のあいだで注目を集め、盛んに引用されるに至った。
いま東洋と西洋で我々に知られている、モンゴル帝国、モンゴル人、モンゴルの平和(Pax Mongolica)についての評価は、歴史的な事実を反映したものではなく、近現代になってなされた、人種的な偏見に包まれた評価なのである。ごく最近になってようやく、こうした歪曲を正す作業が西洋で一部なされている。人類の第三の千年紀(the Third Millennium)である2000年を前にして、『ワシントン・ポスト』紙は、第二の千年紀、すなわち1000年から1999年までの千年のあいだに、歴史に最も大きな足跡を残した人物を選んだ。それがチンギス・カンであった。
オリエンタリズムという偏見は、東洋の思想に内在する真の価値に対して、すっかり目と耳を閉ざしてしまう状況をあおっている。人類の未来のために、東洋の思想が持っている、西洋とは異なる宇宙観、人間と自然の関係、普遍的な倫理観、そして人間の本性について西洋の文明とは異なる哲学体系への理解が必要である。そのために、17世紀から18世紀の西洋の啓蒙の時代に西洋へと流入し、大いに歓迎され評価された東洋の思想の本質が何であったのかを、振り返らなければならない。とりわけ、それを通じて、東洋と西洋の政治経済思想がどのように異なるのかを見ることが重要である。
2) 産業革命以前の東洋と西洋
東洋に対する西洋優位のイメージは、ほとんどが西洋の人々によってつくられた。それがほぼそのまま東洋に伝わり、受け入れられた。だから我々は、東洋は西洋に比べて歴史的にずっと遅れた位置にあったと、たやすく見てしまう。しかし、こうしたイメージが事実と異なることは、歴史学者と思想家たちによって記されてきた。ウェルズは、東洋と西洋の比較において、均衡の取れた歴史的な見方を示している。
長いあいだ、中国は西洋より優れていた。西洋の世界が再び中国に追いつきはじめたのは、16世紀から17世紀にかけて、アメリカの発見、印刷された書物と教育の普及、そして近代科学の夜明けとともに始まったと言える。中国が栄えた唐の時代、芸術的だがいくぶん堕落していた宋(960―1279)の時代、そして文化的であった明(1368―1644)の時代に、中国は繁栄し幸福であり、当時の文化と芸術などは、どの国よりも先を行っていた。372
西洋の最高の中国文明の権威の一人として知られるニーダム(Needham、1900―1995)もまた、その著書『中国の科学と西洋』で、東洋と西洋の関係についての見解を述べている。20世紀後半を生きる我々が、いまなお19世紀的な考えに圧倒されて、三、四世紀前まではヨーロッパより中国のほうが暮らしやすい場所であったことを知らずにいる、と記している。373 紀元前1世紀から紀元15世紀まで、自然についての知識を人間の実際の必要に当てはめるうえで、東洋の文明が西洋の文明よりはるかに効率的であったことを知らずにいる、と説明している。374
ニーダムは、第二次世界大戦の終結後、1948年にケンブリッジ大学出版局に、中国の科学と文明についての著作を提案し、この計画が受け入れられて、中国の科学と文明についての本格的な研究と著述を始めた。この研究でニーダムは、鋳鉄術(鉄を溶かして一定の形に鋳造する技術で、器や大砲の製作に用いられる)、犂先、そして馬の鐙が東洋で発明されたことを説明した。鐙は東洋で3世紀ごろに発明され、西洋には中世に伝わった。鐙の使用は、馬を用いた人間の機動力と戦闘能力を、想像しがたいほど大きく高めた。文明の発展に貢献した度合いが、車輪の発明や印刷術の発明に比べられるほど大きいという評価があるほど、鐙の発明は重要性を持っている。そして、我々によく知られた紙、火薬、印刷術、羅針盤などの発明が、いずれも中国でなされたことを証明した。
ところが20世紀半ばまでは、西洋はもちろん、世界のほとんどの人々が、こうした発明の大半は西洋でなされたものと信じていた。375 20世紀半ば以後、西洋の知識人のあいだでは、ニーダムの研究のおかげで、こうした重要な発明が東洋から始まったことが受け入れられるようになった。これに続いて、ニーダムを筆頭に、西洋では、それならなぜ中国は千年あるいは数百年も先を行っていた文明、科学、技術を発展させつづけられず、西洋に追いつかれてしまったのか、という疑問へとつながった。376「ニーダムの問い」(Needham’s Question)として知られるこの重要な疑問は、20世紀半ばの西洋の多くの科学者と思想家の関心事であった。377 ウェルズも、ニーダム以前にすでにこうした疑問を持っていた。
あれほど多くのことを成し遂げた中国が、なぜそれ以上何も成し遂げなかったのか。この期間、中国は海洋へと進出し、かなりの海外貿易を行っていた。なぜ中国は、アメリカやオーストラリアを発見しなかったのか。378
ニーダムやウェルズのように歴史を見てきた思想家たちは、長い歴史のなかで、東洋の文明が西洋より優れていた時期が長く続いていたことを知っていた。しかし、西洋が東洋をあらゆる面で圧倒しているここ二、三世紀のあいだは、それぞれの文明の相対的な位置についてのこうした見方は、適切性を持たなかった。結局、西洋ではもちろん東洋でも、東洋の文明が西洋に伝わったという歴史的な事実を、ほとんど誰もが信じがたい見方として扱い、たいした意味を与えなかった。20世紀後半にも、東洋の経済の歴史的な興起が爆発的に現実のものとなるまでは、東洋と西洋を問わず、こうした見方が支配的であった。
しかし、西洋人であるウェルズやニーダムが、東洋は文化の面で西洋より長く先を行っていたという有利な評価を軽々しく下したはずもなく、また彼らの膨大な歴史的知識から推して、作り話であるはずもない。実際、歴史をよく見れば、ウェルズやニーダムの東洋に対するこうした見方は、18世紀以前の西洋では支配的な見方であった。アダム・スミスがその一つの例である。アダム・スミスは、1776年に著した『国富論』で、中国の繁栄を記している。中国は18世紀の世界で最も豊かな国の一つであったと記しているのである。
中国は、世界で最も豊かな国の一つである。言い換えれば、世界で最も人口が多く、農地は肥沃で、人々は勤勉で洗練されている。しかし、長いあいだ変化がなかったように見える。マルコ・ポーロが500年前に中国を訪れたとき、中国の文化、産業、そして多くの人口を記したが、今日中国を旅した人々も似た記録をしているのである。中国は、おそらくずっと前に、中国の法体系と制度が許す最大の富をすでに生み出していたように見える。379
ウェルズ、ニーダム、アダム・スミスのこうした見方を受け入れるなら、我々は、西洋が東洋に本格的に追いつき優位を占めたのは、ここ二、三世紀、すなわち18世紀以後に限られている、というきわめて興味深く重要な歴史的見方を持つことになる。そうであれば、我々は、過去二世紀に限られた支配的な西洋の見方に自らを閉じ込めてはならない、という結論に至る。19世紀から20世紀の状況の虜になっていては、過去を理解することもできず、21世紀に広がる未来を設計することもできないからである。19世紀から20世紀の状況より前の長い歴史を振り返って、東洋と西洋の浮き沈みを見る必要がある。
ルネサンス以前、東洋の文物の西洋への伝播
東洋と西洋の文明は、19世紀に西洋が本格的に東洋へと迫ってくるまで、数千年にわたって根本的に互いに隔てられたまま発達してきた。真の文明をなす基本の段階である文字、金属の使用、社会組織、啓示宗教、自然哲学などは、いずれも東洋と西洋が隔てられたまま、それぞれ生み出したものであって、互いに密接な影響を及ぼしたり外から流入したりしたものではない。380 二つの文明をつなぐのは、細い絹の道、すなわちシルクロードだけであった。東洋と西洋のあいだで伝わったいかなる文化的要素も、このきわめて細い通路をたどって中央アジアの山脈を越えなければならなかったので、本質的なもの以外は、あらゆる特性を失わざるをえなかった。シルクロードは、東洋と西洋のあいだで思想的に密接な影響を及ぼし合うには、あまりにも細く、あまりにも長かったのである。381
シルクロードは、よく想像されるのとは違って、陸路とともに海路も重要であった。そのため専門家たちは、陸路だけを表すシルク・ロード(road)という言葉の代わりに、通路の意味のシルク・ルート(route)という言葉のほうが正確だと見ている。東洋と西洋をつなぐ陸路と海路からなるシルクルートは、紀元前1世紀に本格的に切り開かれて、東西の交易路となった。1497年にヴァスコ・ダ・ガマによって大西洋とインド洋を結ぶ東西の直行航路が開かれるまで、1700年以上にわたって、東洋と西洋をつなぐ唯一の通路として用いられた。
シルクロードを通じて主に行き来したのは、軽くて値の張る貴重品であった。数千年にわたって、中国の絹や香料が西洋へと売られていき、西洋からはガラス製品と、絹を買うための貴金属が中国へと運ばれてきた。絹が断然最も重要な交易品であった。だからその道がシルクロードと名づけられたのである。紀元前1世紀には、中国の漢とローマ帝国の勢力が、東洋と西洋でそれぞれ堅固になり広がるなかで、シルクロードが本格的に動きはじめるに至った。
この期間、中国には、ローマ帝国を大秦国と表す記録があるほどである。ローマ時代の文献にも、中国の絹がローマへ大量に売られていった記録がある。ローマではそれへの警戒心まで表明するほどであった。
ローマの元老院は、何度も経済的な、そして道徳的な理由から、ローマ市民が絹の衣を着ることを禁じる法を通したが、守られなかった。それは、中国から絹を輸入するために、ローマ帝国の多くの金が中国へと流れ込むことになったからである。道徳的には、絹の衣は贅沢で不道徳なものと見なされた。382
紀元1世紀のローマの元老院議員セネカは、絹の衣の「不道徳な面」について、次のような記録を残した。
私には、絹の衣が、体の線を隠すこともできず、ましてそれを着る人の尊厳を守ることもできないのに、衣と呼べるものなのかどうかわからない……不貞な女たちの体つきが薄い絹の衣を通してそのまま外に現れ、客も主人も自分の妻の体つきについて同じ知識を持ちうるのを見て、数多くの女たちが先を争って絹の衣に熱を上げているのである。383
シルクロードを通じた東洋と西洋の交易は、間接的な交易であった。すなわち、ヨーロッパの西洋と東アジアの東洋のあいだにあった中央アジアや中東の諸国の商人が、仲介の役割を果たしたのである。こうした仲介者なしに、西洋ではじめて東洋を直接訪れ、目撃して記録を残した西洋人は、マルコ・ポーロであった。13世紀のことである。もちろん、マルコ・ポーロ以前にもカトリックの神父たちがときおり中国を訪れて記録を残したが、東洋を本格的に西洋に知らせたのはマルコ・ポーロであった。13世紀にシルクロードを通って東洋へ行ったマルコ・ポーロは、帰りはシルクルートの海路を通って戻ってくる。
マルコ・ポーロは、東洋で見てきたことを、13世紀末に『東方見聞録』という書物に残した。彼の旅行記は、ヨーロッパに東洋の文明を紹介した最初の書物となる。多くの人に影響を与えたが、1492年に大西洋を渡ってアメリカを発見したコロンブスも、その一人である。コロンブスは『東方見聞録』に書き込みをしながら熱心に読みふけり、西洋から東洋へ至る直行航路を切り開いて東洋へ行くことを決意することになる。
マルコ・ポーロは『東方見聞録』を通じて東洋の文物を紹介したが、このとき紹介された東洋の文物のなかには、さまざまな宗教に対する寛容な態度、紙幣の使用、活字印刷術、石炭の利用、万里の長城と大運河についての説明がある。大多数の西洋の人々は、マルコ・ポーロの時代の人々はもちろん、その後も数世紀にわたって、それを信じなかった。文明の基礎があまりにも違い、規模の差が大きすぎて、とうてい信じられなかったのである。どうして紙切れを金や銀の代わりに使えるのか、何やら黒い石ころを燃やして燃料にできるのか、どうして手で一つ一つ書き写してつくる本を、活字というものでまた紙というものを使って大量に生産できるのか、そして何よりも、どうして神を中心にしない人間の社会がありえて、また一つの国にいくつもの宗教が共存できるのか、といった疑問を抱いて、マルコ・ポーロがほらを吹いていると見たのである。いずれも理解したり想像したりしがたいことだったからである。しかし、こうした疑問や問いは、まだ中世の暗黒時代を生きていた西洋の人々には、ごく当然のことであった。
とりわけ、13世紀末の、政治、経済、人口などすべてが小さな規模であった西洋の人々にとって、マルコ・ポーロが伝えた東洋で起こった一つの出来事や事柄にかかわる人口や物資の単位が、ともすれば数百万を超えるというのは、信じられないことであった。15世紀末になってもイングランドの人口が300万ほどであったことを考えれば、当時の西洋の人々にとって、百万という単位は、いくつもの国を動員してはじめて可能な数と考えられた。そこで西洋では、マルコ・ポーロを「百万の男」(Il Milione)と呼んであざけった。マルコ・ポーロの臨終のとき、友人たちは、魂の平安のために、『東方見聞録』に収められた数々の嘘を悔い改めるよう勧めた。それに対してマルコ・ポーロは、ため息をつきながら、私は自分が見た東洋の驚くべきことの半分も書き記さなかったと言って、目を閉じたという。
その後数百年にわたって、ヨーロッパの人々はマルコ・ポーロの『東方見聞録』をでたらめなものと確信し、そのため彼を、ほら吹き、嘘つきの代名詞とした。西洋では、荒唐無稽だと思われることを言う人を「マルコ・ポーロ」と呼んだのである。こうした状況は、西洋の人々が、ヴァスコ・ダ・ガマが1497年に切り開いた大西洋とインド洋の直行航路をたどって16世紀から17世紀に東洋へ直接やって来て、マルコ・ポーロが『東方見聞録』に記したことがほとんど事実であったと確かめられるまで、約300年にわたって続いた。384
このように西洋が東洋の新しい姿を理解できなかったのは、中世の「暗黒時代」のためである。西洋がほぼ千年にわたる中世の暗黒時代を経るあいだに、東洋は文物の面で発展に発展を重ねたのである。千年の隔たりを置いた、こうした東洋の発展した文物と思想は、二度に分かれて西洋に届き、影響を及ぼすことになる。第一は東洋の文物であり、第二は東洋の思想である。ユーラシア大陸を貫く大帝国を建設し、約二世紀にわたってあらゆる交易を盛んにした「モンゴルの平和」(Pax Mongolica)の期間に、東洋の発明品が本格的に西洋へと流入し、西洋のルネサンスに大きな影響を与える。その後、東洋と西洋のあいだではじめて直接の人的な接触を通じて東洋の思想が西洋に流入し、西洋の啓蒙主義に深い影響を与えることになる。
直行航路による東洋と西洋の直接の接触は、16世紀まで待たなければならなかった。それ以前は、シルクロードはいくつもの国の管轄のもとで、さまざまな国境を越えなければならなかった。例外があったとすれば、モンゴルが東洋と西洋にまたがる帝国を建設したときであった。モンゴル帝国は、道路と橋を大きく広げ、新しくつくりながら、帝国の内部ではもちろん、東洋と西洋のあいだの自由な交易と文物の交流を積極的に進めた。このときに、東洋の発明品が本格的に西洋へと伝わったのである。モンゴル帝国が、ユーラシア大陸を横切る人類最大の広大な帝国を建設して、モンゴルの平和を定着させたおかげである。それ以前は、シルクロードを通じて、漠然と東洋の文明が存在するという程度の認識しかなかったのである。限られた交通と通信の手段しか持たなかった人類は、東洋と西洋のあいだで互いをよく理解する必要も感じずに暮らしていたのである。12世紀まで、シルクロードを通じた東西の旅には、片道に二、三年がかかっていた。
モンゴルの平和の時期に、文物の流れは東洋から西洋への一方通行であった。西洋は当時、約千年にわたる中世の暗黒世界からようやく抜け出そうとうごめいていた時期なので、東洋に与えるものは、カトリックという啓示による宗教だけであった。しかしこのとき、東洋にはすでに道家と儒家を中心とした自然哲学の体系が確固として成り立っていたので、西洋の啓示宗教が入り込む隙はなかった。そのため、東洋の文物が一方的に西洋へと伝わることになり、このとき伝わった東洋の文物が、西洋のルネサンスの始まりと発展に少なからぬ影響を及ぼすことになった。『チンギス・カンと近代世界の形成』(Genghis Khan and the Making of the Modern World)という本で、ウェザーフォード(Jack Weatherford)教授は、モンゴルの平和がルネサンスに及ぼした影響を次のように表している。
ヨーロッパのルネサンスの時代に、ヨーロッパの技術、戦争、衣服、商業、食べ物、芸術、文学、そして音楽まで、すべてがモンゴルの影響によって変化することになった……ヨーロッパ人は歴史上はじめて、長い長衣とスカートの代わりに、ズボンと上着を着るようになった。楽器を指で弾いて演奏する代わりに、モンゴルが草原で用いていた弓で演奏するようになった。また美術も、新しいやり方で描くようになった。385
西洋の人々は、ルネサンスの時代になって、モンゴルから学んだズボンをはくようになった。それ以前は、我々がギリシア人、ローマの元老院議員、中世の修道士の絵に見ることができるように、数千年にわたって長い長衣の裾をまとっていたのである。また弦楽器は、手で弾いて演奏するハープが、やはり数千年にわたって西洋の弦楽器であり、ルネサンスの時代になってはじめて、弦楽器の弦を弓でこする方法を用いはじめたのである。これが発達して、ヴァイオリンやチェロになったのである。
中世の暗黒時代の千年を耐えてきた西洋は、モンゴルの平和のおかげで、東洋の驚くべき文物の数々に触れることができた。我々がよく挙げる中国の四大発明である紙、火薬、印刷術、羅針盤なども含まれている。こうした文物は、14世紀に全世界を襲ったペストを生き延びて、生についての新しい見方を持つようになった西洋の人々に、大きな影響を及ぼした。ルネサンスの始まりである。こうした文物、たとえば紙のようなものは、それ以前にも中央アジアや中東の諸国の商人の仲介を経て、西洋に届いたことがある。しかし、言葉と文字、習慣と文化の異なるいくつもの国の商人の仲介を経るうちに、交易品を除く技術や文化、思想の本質は、ほとんどが薄められるか消えるほかなかった。しかしモンゴルの平和の期間には、莫大な量の東洋の発明品が絶えず西洋へと流入し、西洋の文明の発達と飛躍に決定的な影響を及ぼすことになった。
紙と印刷術の西洋への流入が、本の量を飛躍的に増やして、ルネサンスの到来に貢献したことは容易に想像できる。マルコ・ポーロの『東方見聞録』も、当初は手で一つ一つ書き写す写本に限られていた。しかしコロンブスの時代になると、印刷本が広まって、コロンブスも『東方見聞録』を印刷本で読むことができた。また羅針盤の西洋への流入は、15世紀末から大々的に始まったポルトガルとスペインの大西洋、インド洋、太平洋の航海を、決定的にたやすくした。このとき、東洋の鋳鉄術(iron cast)と火薬の使用を融合させて、西洋は優れた大砲をつくることに成功し、大砲が西洋の世界征服に決定的に貢献したことは、歴史がよく示している。
15世紀から16世紀のルネサンスが、14世紀に始まったモンゴルの平和のおかげで西洋に自由に流入しはじめた東洋の文物のおかげであったとすれば、ルネサンスに続く17世紀から18世紀の西洋の啓蒙の時代には、東洋と西洋の直接の接触によって、東西の思想の交流が可能になった。このときもやはり、思想の流れの方向は、東洋の思想が一方的に西洋に流入する側であった。西洋は、啓示宗教のさまざまな非精神的なドグマから自由になることを目的としていたので、自然を中心とする東洋の自然哲学の思想体系が、西洋の側へと流れていったのである。
啓蒙の時代、東洋の文明に対する西洋の肯定的な評価
東洋と西洋は、世界の屋根と呼ばれるヒマラヤ・崑崙の山脈によって隔てられ、互いに影響を及ぼせないまま数千年を過ごし、それぞれ特性を持つ文明の体系を築いて暮らすことになる。こうして互いに隔てられて発達した東洋と西洋の文明のあいだの実質的な思想の交流は、結局、16世紀から17世紀になってようやく可能となる。それは、ヴァスコ・ダ・ガマが切り開いた大西洋とインド洋の航路を通って、西洋のカトリックの宣教師たちが北京に住むようになったことから始まった。
カトリックの神父たちのなかで最も重要な人物が、マテオ・リッチ(Matteo Ricci、1552―1610)である。マテオ・リッチは、1582年、30歳のときにマカオに着き、28年間中国で暮らして、1610年に北京で世を去るまで、中国語と文化を身につけた。中国の宮廷の顧問の役割を果たしながら、西洋の神の概念を東洋に紹介する『天主実義』を中国語で刊行した。彼はキリスト教徒として儒学を学んだ。死後は、北京のかつての仏教寺院の敷地に葬られた。
マテオ・リッチは、韓国とも関係がある。朝鮮の使節として北京に赴いた李睟光(イ・スグァン)は、そこでリッチの『天主実義』などに触れ、リッチが紹介した西洋の文明とキリスト教の教義は、李睟光を通じて朝鮮に伝わった。李睟光は、帰国後の1614年(光海君6年)に、朝鮮最初の百科事典である『芝峰類説』を著し、そのなかでカトリックに言及した。マテオ・リッチは、キリスト教を通じて西洋の思想を中国に広めることに熱心であったが、『論語』などを翻訳して西洋に伝えることで、東洋の思想をヨーロッパに広めることにも決定的な貢献をした。このとき孔子は、その名をラテン語化したConfuciusという名を得たのである。
このとき東洋は、西洋から何を学び、何を感じたのだろうか。東洋は、西洋の肖像画の技法や、時計のような精密機械、世界地図などに関心を示すことになる。しかし哲学と思想の面で西洋が差し出せるものは、啓示宗教、すなわちカトリックであった。しかし東洋は、すでにかつての唐、宋、元の時代の接触を通じて、カトリックについてかなりの程度の認識を持っていたので、新しいものではなかっただろう。また、西洋の啓蒙の時代の後期にあたる自然哲学の体系をすでに備えていた東洋が、啓示宗教に大きな興味を感じなかったであろうことは想像できる。したがって、西洋の啓蒙の時代である17世紀から18世紀の思想の流れは、東洋の自然哲学が西洋に影響を及ぼす方向へと流れることになる。
西洋を訪れた最初の中国人の一人は、中国に住んでいた西洋の宣教師クプレ(Couplet)がカトリックの信者に改宗させた中国人、沈福宗(Shen Fuzong)である。386 彼はミカエル(Michael)という洗礼名を持つようになった。彼らは1681年にマカオを発ってヨーロッパへ向かう。沈福宗はイタリア、フランス、イギリスを訪れ、クプレとともにロンドン、ベルリン、ウィーンを訪れて学者たちと会い、中国語や東洋の哲学などについての質問に答えたことが知られている。1684年にはフランス王ルイ14世に謁見し、国王の晩餐にも出席して、箸の使い方と漢字の書き方を実演した。1685年から1688年まではイギリスに滞在する。イギリスに滞在するあいだ、イギリス王ジェームズ2世に謁見する。ジェームズ2世は、イギリスを訪れた最初の中国人である沈福宗に大きな関心を寄せ、彼の肖像画も描かせて王宮に掛けた。387 彼は1688年にイギリスを発ってポルトガルへ行き、イエズス会の修道士となった。その後、中国へ向かう帰路の1691年に、モザンビークの近くで亡くなったとされている。388
マテオ・リッチや沈福宗らを通じて、西洋の思想家たちは、東洋の文化にはじめて直接触れることになる。このとき西洋の思想家たちは、東洋の思想に対して、偏見のない新鮮な好奇心を示し、評価をすることになる。西洋の啓蒙の時代である17世紀から18世紀に、東洋の儒家を中心とした政治倫理と、道家を中心とした政治経済の二つの方面で、東洋の思想が西洋の思想に直接の影響を及ぼした。
当時の西洋の思想家たちは、続く宗教改革から生じた新教と旧教のあいだの無慈悲な殺戮の戦いを経験しながら、西洋の宗教のドグマと不寛容にうんざりしていた。こうした状況のもとで、彼らは東洋の思想に、神の啓示によるのではなく精神による自然の宇宙観と倫理の体系を見いだして、驚きと感嘆を表した。彼らが目指そうとしていたことがすでに成し遂げられている文明に触れることになったからである。ライプニッツ(1646―1716)のような思想家が、代表的に、東洋の文明に対する肯定的な評価とともに、東西の文明の交流への大きな期待を表していた。
人類が成し遂げた最も輝かしい二つの文明を、我々の大陸の両端に、すなわちヨーロッパと中国に置いたのは、私には運命の特別な計らいだと思われる。神の摂理もまた好ましい状況のなかで働いており、最も発達し、また互いに最も遠く離れている二つの国が互いに腕を伸ばしているあいだに、そのあいだにあるすべての国々は、次第に、より高い生活のあり方を持つようになるだろう。389
この時期の西洋の啓蒙思想家たちは、東洋の思想が、何のドグマもなく、きわめて寛容に、また政府の干渉を最小限に減らしながら、東洋の社会において政治、経済、倫理の面でうまく働いていることについて、肯定的な評価を下していた。デーメル(Walter Demel)とマンジェロ(David Mungello)の両教授が、この時期の西洋の思想家たちの東洋の文明に対する見方をよく集約して整理した論文と著作を発表した。デーメルの見方をまとめると、次のとおりである。
西洋には、中国人は親切で勤勉だが、結局は無神論者であり迷信的だと映った。しかし西洋の哲学者たちは、多くの面で驚くべき側面を見ることになった。すなわち、東洋の官吏が出自や財産の有無にかかわりなく、個人の見識と徳性だけを基準として選ばれること、学者がとくに尊敬の対象となっていること、さまざまな統計がきわめて発達していること、そしてとりわけ、神の祝福を受けていないのに中国がきわめて豊かであることを、不思議に思った。西洋はこのとき中国人を、たとえ倫理的で礼儀正しく頭がよくても、聖書やアリストテレスについて何も知らず、宗教的な判断がまったくできないと考えた。西洋の思想家たちは、中国がどう見ても自分たちの思想体系のなかに収まらないことに、ひどく居心地の悪さを感じた……東洋は、世界のどこにもない独特の文化的なパターンを持っていることを見いだした。彼らは、中国の皇帝が農業に直接関心を示していることに深い感銘を受けた。彼らは西洋の君主たちに、中国の皇帝のように、春に自ら種まきの手本を示すよう勧めた。そのため、ルイ15世と16世、ヨーゼフ2世など西洋の君主たちが、種まきの手本を示したりもした。ヴォルテールは、ほかのすべての国が迷信に浸っているのに、中国の指導層だけは賢明で理神論的(deistic)であると見た。中国には、最高指導者と民のあいだに、西洋の貴族階級のような中間の階級がないことに驚きを示した。すべての人が働いており、貴族階級のように働かない階層がないことを驚異に思った。1692年に宗教の自由を認めた中国の康熙帝の寛容令(Edict of Tolerance)に驚き、寛容すぎると批判までした。多くの西洋の思想家は、中国は哲学者たちによって国が運営されていると考えた。官僚を昇進させる制度があり、官僚を手厚く遇し、賄賂を受け取れば重い罰を受ける、そうした体制が長く保たれ発展してきたことに、大いに鼓舞された。中国の君主は、忠実で学識の高い側近たちの補佐を受けて国を治めており、こうしたモデルは、彼らが考える「啓蒙された(enlightened)絶対君主」の手本と考えられるようになった。倫理は中国の社会の中心的な思想であり、その倫理は、信仰の篤いキリスト教徒でなくても一般の民が努めるべき実際の目的であるだけでなく、誰もが到達できる理想の目標であることを知るようになった。390
マンジェロ教授もまた、その著書『中国と西洋の大いなる出会い 1500―1800』(The Great Encounter of China and the West, 1500–1800)で、また「啓蒙主義のなかの儒教」(Confucianism in the Enlightenment)という論文で、ヨーロッパの啓蒙の時代に西洋が見た東洋について記している。まとめると、次のとおりである。
ヴォルテールやほかの啓蒙思想家たちは、儒教の精神的な価値観にもとづく皇帝が統治する中国こそが、ヨーロッパにおける啓蒙君主制のモデルとなりうると主張した。言い換えれば、君主が士大夫の官僚組織との協議を通じて統治することに注目したのである。ケネーは孔子への尊敬の念がきわめて深く、儒教を熱心にヨーロッパに広めたので、ケネー自身が「ヨーロッパの孔子」と呼ばれるほどであった。儒教の五経が、ある特定の派閥ではなく、すべての東洋人の共通の遺産とされていることに、並々ならぬ関心を示した。孔子の教えは倫理に集中しているが、論理的に筋が通っているだけでなく、実用性の面で大きな価値があると評価した。儒教は、人類にとって理想的な政治体制を打ち立てるのに役立つと見た。とりわけ、宗教なしにも倫理体系が可能であるという歴史的な証拠となる点で、彼らは驚き、鼓舞されたのである。一部の西洋の啓蒙思想家は、朱子学に込められた宇宙論と形而上学は唯物的で無神論的だとして退けもした。儒教の思想は18世紀にイギリスに紹介されたが、サミュエル・ジョンソンは、当時のイギリスで官職がロンドンの資本家たちによって売り買いされていたのと比べて、中国が能力にもとづく士大夫の官僚制度を採っていることを指摘した……とりわけ中国の科挙制度が、個人の能力と知的な達成度を官職と結びつけていることを高く評価した。そこで中国は、「学識にもとづく実力主義」(learned meritocracy)の生きた証拠と見なされるようになった。391
こうした中国への好意的な関心は、西洋の貴族の生活と建築様式、そしてイギリス式庭園の発展にも表れる。当時、フランスのヴェルサイユ、ウィーンのハプスブルク家、サンスーシのプロイセン王家の宮殿には、あらゆる装飾品と壁と天井を中国風に飾った「中国の間」、すなわち中国風の部屋があった。18世紀に西洋で流行したロココ風の建築と装飾のやり方は、中国のモデルを手本としたものである。彼らは、中国の絹、中国の磁器、茶を高級な趣味として広めながら好んだ。こうした文化、建築、生活様式の傾向を、当時のヨーロッパでは、フランス語にならって「中国趣味」を意味するシノワズリ(Chinoiserie)という言葉で呼んだ。美術においても、東洋の影響を受けたヴァトー(1684―1721)のような巨匠が現れることになった。
ヨーロッパ大陸の王朝がこうして中国の文化を受け入れているあいだ、イギリスでは中国の影響によって、いわゆるイギリス式庭園(English Garden)が現れる。バロックの時代まで、啓示宗教あるいは絶対王政の秩序を象徴する幾何学的な均衡と概念を反映した、よく整えられた庭園が西洋で流行していた。これが中国の自然主義の影響によって、ヨーロッパ大陸の幾何学的な庭園から、無秩序に見えもするが自然なイギリス式庭園へと変わっていくことになる。あるいは、ヨーロッパ式の封建王朝を最も早く脱して議会制民主主義を打ち立てることに成功したイギリスが自然な庭園を好んだのは、自然哲学の体系を庭園の構成に表現したものと見ることもできる。
3) 西洋の啓蒙の時代:何からの啓蒙なのか
17世紀から18世紀の啓蒙の時代に、西洋では、いまの我々には想像しがたいさまざまな問題が、熱心に、また真剣に論じられた。当代最高の哲学者、科学者、思想家たちのあいだで、宗教的な情熱、冷徹な精神、そしてときには正義感を持って、聖書に書かれたさまざまな論題について議論する状況が繰り広げられた。東洋の自然哲学に対して、なぜ西洋の思想家たちが大きな好奇心を示し、それに傾倒するようになったのか、その背景を理解するために、そうした興味深い出来事をいくつか見てみよう。
地獄が実際にエルサレムの地下にあると信じていた西洋
キリスト教が来世の重要性を強調して以来、西洋の人々は天国と地獄を固く信じた。中世の西洋の人々は、地獄がエルサレムの地下にあると確信していた。ダンテが『神曲』を書いた13世紀から14世紀、彼は地獄がエルサレムの地下にあると見ていた。こうした地獄の存在は、結局、天国と地獄という死後の世界についての西洋の信仰と直接結びついている。我々が推し量るよりはるかに深刻に、中世と近世の西洋の人々は、最後の審判がまもなく訪れると信じていた。そのため、最後の審判で罪を赦されて天国に行こうという熱望が、彼らの人生を支配した。教会は、こうした罪を赦すさまざまなしるしを示した。たとえば、エルサレムを取り戻そうとする十字軍の戦争に加われば、すべての罪が赦されて天国に行けるという教皇の宣言が、第1回十字軍の結成に決定的な働きをした。さらには、教会が免罪符を売る行為へとつながった。多くの人は、地獄のさまざまな恐ろしい刑罰への恐れから逃れようとした。
太陽が地球を回り、人間が世界の中心であると信じた西洋
太陽を天にとどめたヨシュアの奇跡(ヨシュア記10:12―14)は、西洋の思想界で千年以上にわたって真理と信じられてきた礎の一つであった。天動説は、挑むことのできない真実だったのである。ここに大きな波風を起こした出来事が、ルネサンスの時代の後期と啓蒙の時代の前期に起こった。コペルニクス(Nicolaus Copernicus、1473―1543)、ケプラー(Johannes Kepler、1571―1630)、ガリレオ(Galileo Galilei、1564―1642)らが、天体観測という科学的な事実にもとづいて示した「太陽中心の宇宙観」(heliocentrism)がそれである。神は天動説に従って太陽を止めたのだが、新しい理論である地動説によれば、神は地球の自転を止めなければならなかったからである。神かヨシュアのどちらかが誤りを犯したのか、あるいは神とヨシュアのあいだの伝達に深刻な誤りが生じたのか、聖書の記録の過程に誤りがあったのだから、聖書そのものに問題があるという疑問が提起されるのである。ガリレオの有名な地動説は、我々によく知られている。ガリレオが望遠鏡を通じて実際に観察した天体の動きは、明らかに太陽が中心であり、地球がそのまわりを回っていた。しかし教皇庁は、聖書に書かれた神の言葉を主張しつづけなければならなかった。教皇庁は、地球のまわりを太陽が回るという天動説を強要した。中世の教会は、アリストテレスとプトレマイオスの仮説を支持し、地球が世界の中心であり、そのまわりを太陽と月をはじめとする天体が巡っていると考えた。こうした仮説は、モーセ五書の創世記にある天地創造の描写とよく合っていたからである。地動説は、神が地球と人間をとくに創造したという聖書のドグマに内在する「地球中心の宇宙観」(geocentrism)を揺るがすことであった。したがって、太陽を中心に地球が動くという彼らの観測の結果を、ローマ教皇庁は弾圧せざるをえなかった。ガリレオは、命を守るために聖書の言葉を認めながらも、「それでも地球は回っている」と地動説を繰り返したという逸話がある。
ノアの洪水への信仰が、東洋の文物の西洋への流入によって挑戦を受ける
地球の年齢の計算にかかわるものとして、東洋の文物が影響を及ぼした、ノアの洪水を新たに測り直す出来事もあった。西洋の啓蒙主義の時代である18世紀に、西洋の思想家たちはキリスト教の非精神的な面に疑問を抱き、それについて精神的な説明を試みた。その一つが、創造の起源と人類の始まりがいつであったかを探す努力であった。当時はまだ、聖書に記されたアダムとアブラハムから続く系図をたどってその年代を計算するのが当然と考えられていたころであった。この状況で、北京に派遣されたイエズス会の神父たちの報告書と翻訳によって東洋の文明が西洋へと流入すると、啓蒙思想家たちはそこに、キリスト教のドグマを攻撃するのに役立つ資料を見いだした。オランダの学者フォッシウス(Isaac Vossius、1618―1689)は、聖書による歴史ではなく、自然の歴史(natural history)に大きな関心を注いだ。彼は1659年に刊行した著書『世界の真の年代について』(De vera aetate mundi)で、中国の文化は少なくとも紀元前2900年に始まるが、これは洪水より500年以上早いので、キリスト教の聖書による計算法は誤りだと主張した。ヴォルテールは、この主張を、ユダヤ・キリスト教が最初の最も古い宗教であるというドグマを攻撃するのに用いた。392 そしてさらにヴォルテールは、東洋の文明を、ほかの文明とともに、キリスト教以外の人間の文明として認める思想家となった。彼はそれを『哲学辞典』に反映させたが、それは西洋ではじめて、キリスト教文明以外に中国の文明とほかの文明を正式に認めて言及した事例となった。
啓示宗教の核心である奇跡への不信
啓蒙の時代に、宗教の名を借りたさまざまな迷信とドグマに立ち向かって戦ったヴォルテールは、奇跡を行う神の属性は人間が必要としてつくったものであって、けっして神が人間に知らせたり命じたりしたものではありえない、と考えた。「なぜ神が奇跡を行わなければならないのか……奇跡を信じるのは愚かなことであり、神に対する不敬となる」。393 ヴォルテールは、東洋の自然哲学の体系は精神にもとづくものだと見た。彼は、東洋の哲学体系には迷信もなく、奇跡も信じず、擬人化という過程もないと評価し、祭祀は死んだ祖先への敬意にすぎないと見た。ヴォルテールは、儒教がきわめて成功裏に人間の社会に倫理的・社会的な秩序を打ち立てており、こうした東洋の倫理は、西洋の迷信的な信仰と煩わしい儀式、堕落した制度に頼るキリスト教よりも効果的だと考えた。「神は我々の犠牲も祈りも必要としていない。ただ我々がそうする必要を感じるだけである。神を崇めるようにさせたのは神ではなく、我々自身なのである」。394 奇跡を行う宗教の創始者が抱える問題について、ヴォルテールは次のように書いている。「あなたが大いなる名声を望み、宗教の創始者になりたいのなら、完全に狂うのがよい。しかし、あなたの狂気が時代の流れに乗らなければならないことを忘れてはならない。狂った状態でも、狂気じみた言動をあなたの精神が導かなければならない。すなわち、人がうんざりするほど意見をはっきりさせ、頑固さもこの上なく強くすることをためらってはならない。だから、あなたは絞首刑に処される覚悟をしなければならない。しかし、もし絞首刑を免れることができれば、あなたを祀る廟が建てられるだろう」。395 結局、奇跡を否定する思想家が増えるにつれて、彼らは、奇跡を信じる啓示宗教から離れて、神は人間の営みに介入しないという理神論を広めることになる。
アダムとイヴが用いた言語を探す運動の展開、中国の表意文字への価値づけ
17世紀から18世紀の西洋の啓蒙の時代に、地球の年齢を計算することとあわせて、アダムとイヴが用いた言語を探すための努力が並行して行われた。アダムがエデンの園で用いた言語は、人間が堕落する前の純粋な言語、天使の言語と見なされた。西洋で「アダムの言語」(Adamic Language)を探そうとする努力が起こったのは、創世記の記録による。「主なる神は土でさまざまな野の獣と空のさまざまな鳥を造り、人がそれを何と呼ぶかを見ようと、人のところへ連れて来られた。人がそれぞれの生き物を呼ぶと、それがそのまま名となった」(創世記2:19)。彼らが堕落以前のアダムの言語を探した理由は、16世紀から17世紀の西洋の歴史が、新教と旧教の葛藤と、それを後ろ盾とした勢力どうしの長い殺戮の戦いで塗りつぶされていたので、その理由が言語と概念の違いから来ると見たためであった。こうした考えは、聖書に出てくるバベルの塔の記録によって、いっそう確固としたものになった。すなわち、創造の後、人類は一つの言語を用いて調和して暮らしていたが、人類が傲慢になって神の知恵と権威に挑もうとバベルの塔を築くのを見て、神がそれを壊し、人類を多くの部族に散らして、二度とまとまれないよう、それぞれ異なる言語を用いさせた、というのである。そこで、人類の分裂を癒すために、啓蒙の時代の西洋の思想家たちは、太初の言語、すなわちアダムとイヴの言語を探そうと多くの努力を注いだ。新教と旧教の葛藤を乗り越え、人間の理解の領域を広げようという目的を持っていたのである。彼らは、中国の表意文字が西洋の各国で用いられていた表音文字よりも自然に近いと見て、アダムとイヴの言語を探すのに役立つかもしれないと考えて関心を示すようになった。
地球の年齢を六千年ほどと固く信じていた西洋
モーセ五書の始まりであり、ユダヤ・キリスト教の聖書の始まりである創世記は、神の天地創造の過程を詳しく記すところから始まっている。モーセが神から直接啓示を受けて書いたものとして、少なくとも18世紀までは、西洋のほとんどの人々が一つの事実として固く信じていた。それに異論を唱える人は、異端者、背教者として、命を脅かされる深刻な罪を犯すものと認識された。西洋の文明では、きわめて長いあいだ、18世紀初めまで、神が自然と人間を六日かけて創造したと固く信じていた。旧約には創造の過程と時間が詳しく記されており、最初の人間アダムが930年生き、その子孫が何年生きたかがすべて記されている(創世記5章)。新約聖書の始まりは、アブラハムからイエスに至る王と預言者の系図を詳しく記している。これにもとづいて、ローマ帝国がキリスト教を国教と宣布した4世紀の前後に、天地創造の時期を真剣に計算して暦に反映させる習いが生まれた。初期には、ほとんどの人が、天地創造は五千年から六千年前ごろにあったと信じていた。ビザンティン帝国の暦では、天地創造は紀元前5509年にあったものとして基準にしていた。それは、旧約に記された天地創造が六日でなされたことを信じたうえで、ペトロの手紙二に記された「主にとっては、一日は千年のようで、千年は一日のようだ」という記録にもとづくものであった。396「六千年前の天地創造説」は、中世の後も固く信じられた。啓蒙の時代の後期である18世紀までも、宇宙の創造が紀元前約4000年ごろにあったという考えを事実として受け入れて、実際の時期を示した。示された時期は、紀元前3952年3月18日である。イエス以後の年数を足せば、天地創造は六千年前となる。宗教改革者カルヴァンは「天地創造以来、五千年あまりの時が流れた」と説教し、ルターも「我々はモーセから、地球はおよそ六千年前には存在しなかったことを学んだ」と説教しながら、六千年創造説を広めた。シェイクスピアもそうである。彼は作品のなかで、「哀れな世界は、ほぼ六千歳になった」(The poor world is almost six thousand years old)と書いている。多くの科学者が、新たに発見された事実にもとづいて、天地創造の時期を更新しつづけていた。万有引力を発見し、ケプラーの法則がまさに万有引力によるものであることを明らかにして地動説をいっそう確かなものにした科学者ニュートン(Isaac Newton、1642―1727)も、天地創造説を含む聖書のさまざまなドグマを固く信じていた。彼は聖書に書かれたとおりに天地創造の日付を計算して、地球はそれまで知られていたのとはわずかに違って5700年ほどになるという、新しい天地創造の時期を発表した。
地球の滅亡とイエスの再臨の時期を真剣に計算した西洋の人々
地球滅亡説は、イエスの再臨と最後の審判という、新約聖書に記された宗教的な信仰に由来するものであった。西洋では、中世の人々はもちろん18世紀までも、多くの西洋の人々が、聖書に預言されたとおり地球の滅亡とイエスの再臨を固く信じていた。この問題は聖書に何度も詳しく説明されているので、中世の西洋の人々のあいだではキリスト教の信仰の核心的な要素と見なされた。終末論(eschatology)あるいは来世論は、中世に、教皇庁が社会を安定させ、教皇庁の権威を保つ効果的な方策として積極的に用いた。11世紀末の十字軍のころから教会は贖宥(大赦)を与えるようになり、のちには来世論にもとづいて免罪符を売るに至った。16世紀初めに旧教の免罪符の販売が盛んをきわめると、ついに1517年、ルターが敢然とそれに立ち向かい、自らの領地の富が免罪符の購入を通じてローマへ流れ込むことに不満を抱いていた領主たちの支持を受けることになる。旧教と対立する新教の誕生と、新教と旧教のあいだの残酷な宗教戦争が始まったのである。ルネサンスの時期には、預言された地球滅亡の時期がどんどん後ろへずれていく現象が起こった。15世紀の思想家たちの計算によれば、地球の終末は18世紀初めと発表されたこともあれば、イエスの誕生から2000年目の年に終末が始まると計算されたこともあった。教皇庁の側は、16世紀末に最後に終末についての立場を明らかにしたが、1992年以前には終末はないと見るという立場を示した。宗教改革の後、各国の王権が強まるにつれて、イングランドのエリザベス1世、またフランスのアンリ3世とリシュリュー宰相らは、社会を乱す混乱を防ぐために、地球の終末の年を発表して民を惑わす行為を厳しく禁じはじめた。397 しかし、聖書で百回以上も繰り返し言及された地球終末論は、政府の禁止令にもかかわらず、たやすくは消えなかった。ニュートンも、18世紀初めに地球の滅亡の時期を計算して、2060年より前に世界が滅びることはないと記した。その計算は、西洋でシャルルマーニュ大帝がヨーロッパを統一し、レオ3世が最初の名実ともに教皇として勢力を持つようになった800年を起点とし、旧約のダニエル書で終末にかかわって示された1260日を1260年として計算して、800+1260=2060を導き出したものである。ニュートンは、「地球の終末の前に、福音書は地上のすべての国で読まれなければならず、地球の終末の前にそうしたことが起こるだろう」と信じていた。398 実際、地球の滅亡、すなわち世界の終末は、イエスの再臨を意味し、サタンを滅ぼし、すべての善い人を死からよみがえらせて報いを与えるという信仰と結びついていたので、その時期を予測することは、旧教の権威を確立するキリスト教の根源的なドグマの一つであった。そのためこの問題は、ローマ教皇庁にとってきわめて核心的な案件として扱われ、宗教改革者たちにとっても同じく重要なものであった。ルターは、地方の領主の支持を受けて、ローマの旧教の免罪符の販売、聖書の解釈権の独占など、さまざまな弊害を激しく糾弾したが、彼もまた天動説とともに世界の終末とイエスの再臨を固く信じており、世界の終末がますます早く近づいていると信じていた。そのため一部の西洋の思想家は、宗教改革によって成立した新教が、免罪符の販売の中止、個人の信仰と聖書の解釈権の重視など重要な進展を成し遂げたが、天動説や地球終末論の非科学的な面など、精神の導きを拒んだという点では旧教と大きく変わらない、という意見も示すことになる。
したがって、善悪の問題とともに、天国と地獄の存在は、啓蒙の時代にも、ほとんどの西洋の人々と思想家たちが揺るぎない事実として認識していた。しかし、こうした地獄の物理的な存在への信仰は、聖書の無謬性が挑戦を受け、天動説、創造論、天地創造の年代計算、ノアの洪水、アダムの言語などへの信仰が揺らぐにつれて、こうしたドグマとともに揺らぐことになる。天国と地獄の存在は、西洋の文明の基礎にある善悪論、罪と罰、そして法律の役割についても問題を提起することになることを意味する。ここで、東洋の儒教の自然哲学的な倫理観と、自然の道にもとづく無為の思想が、西洋の思想家たちに大きく訴えることになるのである。
4) 西洋の啓蒙思想家たちは東洋の自然哲学に心酔した
一般に考えられているよりはるかに深く、また広く、東洋の思想は17世紀から18世紀に西洋の思想家たちの尊敬を受けていた。東洋の思想への西洋の関心は、二つの方面で進んだ。ベール(1647―1706)、ライプニッツ(1646―1716)、ヴォルテール(1694―1778)らを通じた儒教の政治倫理思想がその一つである。もう一つは、ケネー(1694―1774)、ド・グルネー(1712―1759)、ポワーヴル(1719―1786)らフランスの重農主義(Physiocracy)の哲学者たちを通じた、道家の政治経済思想である。
儒教は啓示宗教ではなく、自然哲学である。儒教の目指すところは、修身を通じた現実への参加、すなわち政治的な行動にある。修身と愛民の二つが、儒教哲学の核心である。こうした東洋の自然哲学が、17世紀から18世紀の啓蒙の時代に、啓示宗教から抜け出そうと努めていた西洋に大きな影響を及ぼした。ところがこうした現象は、産業革命以後、東洋の文明を貶めようとした西洋の風潮のために、大半が忘れられることになった。産業革命以後、西洋の思想家たちは、東洋の文明を遅れた文明として扱う歴史哲学の論争を受け入れていた。産業革命以前の西洋の啓蒙の時代に戻ってみると、西洋の思想家たちは東洋の文明に対して尊敬の態度を示していた。代表的な人物はヴォルテールである。彼は孔子について、「人類に最も有益な知恵を与え、人類のすべての師のなかで、ほかの人々を欺こうとしなかった唯一の師」と高く評価した。399 彼らは、啓蒙の時代に、啓示宗教の代わりに理神論(Deism)を唱えていた。どうして東洋の思想が西洋の理神論者たちに大きく訴えることになったのか。それは、西洋の思想家たちが17世紀になってようやく、人間と自然の関係、またそれにもとづく自然哲学に関心を持つようになったからである。しかし自然哲学は、東洋の文明が二千年早くすでに打ち立てていたものである。そこで、多くの西洋の啓蒙の時代の思想家たちは、西洋の理神論の手本を、東洋の儒教や道家に求めようと努めたのである。
啓蒙の時代の直前、西洋の人々が暮らしていた世界の背景には、宗教改革と、新教と旧教のあいだの戦争と殺戮の戦いが長く続いていた。フランスでは、1572年に旧教が新教徒を明け方に襲って虐殺した「サン・バルテルミの虐殺」があり、ヨーロッパ全域にわたって新教と旧教の支持勢力どうしの三十年戦争(1618―1648)が起こり、フランスでは新教徒のユグノーに信仰生活を認めていた1598年のナントの勅令(Edict of Nantes)が1685年に廃止されて新教と旧教のあいだの血なまぐさい葛藤が再燃するなど、宗教の不寛容が極みに達したと見てもよいほど、人間の生活に大きな被害を及ぼしていたころであった。
まさにこの時期に、東洋と西洋ははじめて思想の交流を始めることができるようになる。すなわち、東洋の道と西洋の神が、東洋と西洋の思想家たちを通じて接触と対話を始めたのである。当時、新教と旧教を問わず、西洋の倫理観は徹底して宗教主義的であった。すなわち、神と宗教から倫理が出てくると見ていた。東洋の倫理観は自然的である。すなわち、自然のなかにその変わらない原則である道を見いだし、それを人間の社会に当てはめたのが東洋の倫理観である。そこで西洋の理神論者たちは、儒教において神が介在しない東洋の自然主義的な倫理観に触れて、驚きと尊敬を表すことになる。また彼らは、当時、重商主義の政治経済哲学のもとで、国家が個人のあらゆる経済活動に干渉するのを当然と見なしていた時代に生きていた。しかし東洋では、道家の無為の思想によって、国家が個人の経済活動に干渉しないのに経済的に成功しているのを見て、これにもまた驚きと尊敬を禁じえなかった。
16世紀にすでに東洋の思想に関心を示したフランスの哲学者に、随筆家モンテーニュ(1533―1592)がいた。モンテーニュは、人本主義にもとづいて当時の西洋の宗教の不寛容を批判したが、そのとき、ヨーロッパにときおり流入しはじめていた東洋の思想を、しばしば拠りどころとして用いた。1687年には、パリでラテン語による儒教についての本『中国の哲学者孔子』(Confucius Sinarum Philosophus)が刊行され、西洋の知識人のあいだで広く読まれるようになった。400 こうした背景のもとで、17世紀から18世紀に東洋の思想を本格的に西洋に紹介しはじめたフランスの哲学者のなかに、ベールとマールブランシュがいる。
ベール(1647―1706)は、宗教の不寛容だけでなく、絶対的な真理を発見したというあらゆる形而上学的・宗教的な主張を批判し攻撃することに集中した。このときベールにとってきわめて役に立ったのが、形而上学に無関心で、宗教的な好みをまったく持たず、真理は人間が到達できないものだという「道の道とすべきは、常の道に非ず」という命題の上に打ち立てられた、東洋の自然哲学の思想であった。実際、こうした道の定義を取り入れて、ベールは「神は人間が理解できない領域にある」と主張した。401 こうした理由から、ベールは、18世紀の啓蒙思想を主導したフランスの「百科全書」派の嚆矢となる『歴史批評辞典』を刊行しはじめた人となった。彼は、当時のヨーロッパの思想家たちが東洋の思想を理神論的だと考えていたのより、さらに一歩前へ進んだ。彼は大胆にも、東洋の思想は自然哲学的であると主張し、それを、人類は西洋式の宗教がなくてもいくらでも堅固な倫理体系を築くことができるという証拠とした。
マールブランシュ(1638―1715)は、『キリスト教の哲学者と中国の哲学者との対話:神の存在と本性について』という小冊子を著した。402 ここで彼は、儒教の思想に含まれる神の概念を、スピノザの神の概念と同じものとして説明し、示したのである。こうした説明は、当時の西洋の思想家たちが、朱子学の理気論による東洋の自然哲学の体系とスピノザの宗教観を同一視したことから来るものであった。東洋の自然哲学の体系は、孔子の儒教だけでなく道家の核心をなす道の概念なので、東洋の道とスピノザの神を同一視することになる。それに照らして、西洋の啓示宗教のドグマ的で非精神的な面を浮き彫りにしたのである。東西の対話において、ついに西洋ではじめて、東洋の道の概念を理解し、東洋の道と西洋の神を同一視する哲学が現れたのである。
彼らがフランスで活動していた時期に、ドイツでも、東洋の文明に深い関心を示し、西洋の文明と対等な立場で比べた哲学者が現れた。それがライプニッツ(1646―1716)である。ライプニッツは中国への関心が深く、二冊の著作を残した。一つは、イエズス会の神父たちの報告書と書簡を中心として1697年に刊行した『最新中国情報』(Novissima Sinica)という本であり、もう一つは、世を去った1716年に書いた『中国人の自然神学論』(Discours sur la théologie naturelle des Chinois)である。ここでライプニッツは、中国の易経や理気論などを説明しながら、東洋の宗教は「啓示ではなく精神にもとづく自然宗教」を打ち立てたと評価した。そして、先に見たように、「人類が成し遂げた最も輝かしい二つの文明がユーラシア大陸の両端に」あり、これからこの二つの文明が交流を始めれば、そのあいだにあるほかのすべての文明がともに高い文明の境地に至るだろう、というビジョンを持って、東西の文明のあいだの交流の拡大を実際に推し進めもした。
ヴォルフ(1679―1754)はライプニッツの弟子で、東洋の文明への大きな関心と評価を師から受け継いだ。ヴォルフは、1721年にハレ大学で行った儒教についての講演で、儒教の倫理は啓示によるものではなく精神にもとづくものだが、キリスト教の倫理と同等の価値を持つと主張し、したがって儒教の存在こそが自然倫理の体系の可能性を証明したのだと述べた。ヴォルフのこうした講演に、同僚の新教徒たちは激怒した。彼らは、ついに彼を大学から追い出し、プロイセンから追放することに成功した。
啓蒙の時代の前後に東洋の思想に関心を示した哲学者は多い。モンテーニュ、マールブランシュ、ベール、ヴォルフ、ライプニッツ、ヴォルテール、ディドロ、エルヴェシウス、ケネー、そしてアダム・スミスらがいる……。クリスティアン・ヴォルフ(1679―1754)を例に挙げてみよう。彼はライプニッツの弟子であるが、ライプニッツは当時のドイツの合理主義を導いた哲学者で、カントに大きな影響を与えた。ヴォルフは儒教を熱心に研究し、とりわけ儒教の倫理哲学に大きな尊敬を示した。彼は1721年にハレ(Halle)大学で、儒教の倫理は宗教的な示顕ではなく精神の自然な表れとして説かれたものであり、キリスト教の倫理意識に匹敵すると説明した。そして儒教は合理性に照らしても問題がなく、これは自然主義の倫理意識が重要であることを説明していると主張した。この講演は新教徒の信者たちを激怒させ、ついに新教徒たちはヴォルフを大学から追い出すことに成功した。結局、ヴォルフはプロイセンから追放された。403
フランスのイエズス会に属する歴史家デュ・アルド(1674―1743)は、パリで、1703年から1743年までの40年間、中国に派遣されたイエズス会の神父たちの報告書を定期的に編集・刊行しながら、東洋の文明を西洋に紹介した。ヴォルテールとディドロを筆頭とするフランスの百科全書派など、西洋の啓蒙思想家たちは、この報告書から東洋についての多くの情報を得ることができた。404 彼は1735年に『中華帝国全誌』をフランス語で刊行し、その本は翌年英語に翻訳されてヨーロッパ全域に広まり、大きな反響を呼び起こした。この本でデュ・アルドは、中国の歴史とともに東洋の文明のあらゆる面をきわめて肯定的に紹介し、評価した。同時に、西洋の制度や文化と比べながら、西洋の立ち遅れを指摘した。
啓蒙の時代、多くの思想家が西洋の文明の問題点を指摘し攻撃するとき、東洋の文明の長所をその論拠とする本を何冊も刊行するなかで、ヨーロッパの思想界は東洋の思想に魅了されていた。このとき西洋が注目した東洋の文明の特徴には、理神論的な宇宙観、皇帝が周りの補佐の意見を聞いて統治する倫理的な政府の制度、政府の官吏を家柄ではなく個人の能力によって選ぶ科挙の制度、少ない税で多くのインフラを提供する経済的な伝統、政府が個人の経済活動に干渉しないことなどがあった。とりわけ、このとき紹介された思想は、北京のイエズス会の神父たちが接した中国の儒教の知識層のものであったので、孔子への関心が集中した。孔子は「世界がこれまでに生んだ最高の人物」と称えられ、「啓蒙主義の守護聖人」(the patron saint of the Enlightenment)とまで呼ばれた。405 そのわけは、孔子が、当時の西洋の哲学者たちが目指していた「自然哲学」を体系化し、それを説いていたからである。
ルネサンスが終わるころ、宗教改革とともに、思想の面で、宗教とドグマ的な伝統の代わりに、精神と個人の自律を強調する運動が現れた。宗教改革を経て啓蒙の時代に入った17世紀後半になると、もはや管理できない変化が西洋の思想界を席巻することになった。すべてを精神的に判断しようとした西洋の啓蒙主義の時期に、西洋の哲学者たちは、千年以上にわたって彼らを徹底して支配してきた啓示宗教のドグマやそのほかの特性に、疑問を表しはじめたのである。彼らは、こうしたドグマにしがみつき、わずかな異論も異端として、火刑など極端な方法で異端者を処断することにうんざりして、寛容を強く主張した。そこで寛容(tolerance)は、啓蒙の時代の一つのモットーとなる。
西洋の理神論は17世紀末に現れ、約百年にわたって西洋の思想界を支配することになる。理神論は18世紀末のフランス革命のときに頂点に達し、フランス革命政府は理神論をフランス共和国の国教と宣布しもした。このとき、一神論を掲げる聖堂の聖人像が破壊されるに至った。理神論は、フランスを中心に、啓蒙の時代の西洋の多くの思想家によって発展してきた。このとき、西洋の啓蒙運動の先駆者ヴォルテールをはじめ、フランスの思想家たちは東洋の思想から大きな影響を受けた。彼らは、世界にただ一つ理神論的な体系を備えた文明があり、それこそが東洋の文明であると見た。そして、東洋の文明は教会や啓示の権威に頼らず、人間の誰にでもある精神という光にもとづく理神論であると見て、儒教の倫理はキリスト教の教えと同じ価値があるが、啓示ではなく精神にもとづくものであると評価した。406
西洋でなぜ啓蒙主義が必要だったのか、すなわち西洋の啓蒙が何からの啓蒙なのかという問題を見てみると、実のところ、17世紀から18世紀の当時、東洋の文明は多くの面で、すでに西洋の啓蒙主義の後期(post-enlightenment)に到達していたと見ることができる。すでに引用したが、紀元前4世紀に「雨乞いをしなくても雨は降る」と主張した荀子の哲学があった。「天行常有り。堯の為に存せず、桀の為に亡びず」(『荀子』天論17:1)。西洋は、二千年以上にわたって西洋の文明に深く広く根を下ろした宗教のさまざまなドグマと不寛容から抜け出し、啓蒙される必要があったが、東洋の文明はすでに、そうしたドグマと不寛容から自由な状態にあったのである。
啓示宗教、自然宗教、自然哲学
儒教が啓蒙の時代に西洋に知られるようになったのは、儒教が代表する東洋の自然哲学の体系が、啓示宗教に囲まれた西洋の人々に訴えたからであった。自然哲学は、西洋の神の文明とはまったく異なる思考の体系にもとづいている。預言者が伝える言葉ではなく、自然の現象を基盤としているからである。キリスト教を指す「啓示宗教」(revealed religion)に対して、西洋の人々は儒教を「自然宗教」(natural religion)と呼ぶ。しかし東洋の文明にとって、宗教という言葉はなじみのある表現ではない。超自然的な神、預言者、そしてそれを代表する司祭階級は、宗教の核心である。ところが東洋の儒教と道家には、神、預言者、司祭階級がなく、神ではなく自然そのものを中心としているからである。儒教や道家は、自然宗教ではなく「自然哲学」(natural philosophy)というのが正しい表現である。自然宗教は西洋中心的なものであり、誤った呼び方である。
東洋の自然哲学では、人間と自然の関係を道という概念で設定した。人間は、自然の道と仲介者なしに直接向き合う。道は不顕、すなわち人間の言葉では言い表せない範疇に属する。一方、西洋では、人間と自然の関係を、神という超自然的な存在を通じて設定した。預言者という仲介者が、神の言葉を人間に伝える。そうなると神は、預言者を通じて示顕、すなわち人間が言い表せるという範疇に属することになる。そして預言者を中心に、徹底した司祭階級が設けられる。
19世紀以後、西洋の圧倒的な科学技術と民主主義・市場経済の制度が東洋へ流入するにつれて、思想の面でも西洋の制度と規範が基準となってしまった。西洋の文明では宗教が核心的な役割を果たしていたので、西洋の思想家たちは当然、東洋の文明でも宗教が核心的な役割を果たしていると推定した。そこで、なぜ西洋の文明で宗教が中心的な役割を果たすようになったのかという問いは発せず、東洋の文明にはどんな宗教があったのかという問いを発するようになったのである。それに従って、東洋の文明で儒・仏・仙の思想が中心をなしているのを見た西洋の思想家たちは、それらを宗教と見なして、儒教、仏教、道教という名をつけたのである。そして、こうした東西の宗教のあいだの違いを説明するようになる。しかし儒教は宗教ではなく、自然哲学の体系である。西洋の宗教は、人間と自然の関係だけでなく、人間と人間の関係についても詳しく規定している。西洋の文明は神が下した啓示的・規範的な倫理観を持つようになり、東洋の文明は自然的・経験的な倫理観を持つようになる。
西洋の思想家たちは、17世紀から18世紀に儒教を通じて触れた東洋の文明が、神とはかかわりのない自然にもとづくものであったことを発見したのである。また儒教は、人間と自然の関係を自然に設定した道家の道の概念をそのまま用いていたので、人間と自然を捉える宇宙観においても、東洋の宇宙観は西洋とは違って自然を母胎としていることを知るようになった。407 東洋の自然哲学がもとづいている宇宙に、西洋の神とは異なる原則があるという考えは、西洋の思想家たちにとってきわめてなじみのない概念である。また、その道という原則は、人間のために存在するのでもなく、人間が望むからといって奇跡によって損なわれるのでもないという考えは、当時の西洋の人々にとって、きわめて革命的な概念であった。しかし東洋では、すでにその二千年あまり前に、道家の道と儒教の仁の思想によって、こうした概念が一般的な原則として、東洋の文明の基礎として受け入れられていた。なぜなら、西洋の人々は、ギリシア・ローマの時代にも神に頼り、さらにほぼ1300年以上にわたって、キリスト教を国教として信奉していたからである。
ローマ帝国のコンスタンティヌス帝が313年のミラノ勅令でキリスト教の迫害を禁じ、続いて380年にテオドシウス帝がキリスト教をローマの国教と宣布した。それ以後、西洋の文明では、キリスト教が掲げる神の概念が人間の言動の絶対的な中心となった。西洋の人々は、聖書に書かれていることと少しでも違う考えをする人は異端とされ、火刑の対象となる精神世界のなかで、ほぼ千年を越えて生きることになった。
これが、14世紀から16世紀のルネサンスの時代に、宗教の息詰まる支配から人間の個性を取り戻す動きとして、大きく伸びをすることになった。西洋の思想界で、中世式の宗教観にもとづくドグマは、もはやそのままでは通用しない状況に至ったのである。ルネサンスの人文主義、宗教改革と旧教・新教の分裂、そして理神論が繰り広げられる時期を経験することになる。続いて18世紀末、アメリカ合衆国憲法修正第1条に「国教樹立の禁止条項」が盛り込まれることになる。西洋は、4世紀にキリスト教を国教と宣布して以来、14世紀ぶりに、国教を定めてはならないと原則を変えたのである。
西洋の啓蒙の時代には、宗教のドグマに疑問を示しながらそれを検討し、新しい理論を掲げることが、西洋の思想界の新しい思潮となった。当然のことだが、このとき、いまの我々には想像しがたいさまざまな興味深いことが西洋で起こることになった。こうした時期に東洋の文明が西洋へ流入すると、東洋の文明のさまざまな面が西洋の思想家たちのあいだで精神的で自然的なものとして映り、尊敬と感嘆を示すようになり、西洋の非精神的で非科学的なドグマと比べられるに至ったのである。
西洋は規範的に、すなわち神の啓示(あるいは人間が神の啓示だと主張した人間の考え)によって与えられた規範のなかで、すべてを考え、思い、暮らすやり方をたどってきたのである。もし地球上にほかの文明があり、その文明が神の啓示による規範的な文明ではなく、自然を観察し、自然のなかで見いだした原則と倫理に従う自然的ないし経験的な文明であったと仮定してみよう。そうであれば、その文明には、中世の千年のあいだの西洋の思想はもちろん、17世紀から18世紀の西洋の啓蒙の過程も不要だったであろう。
こうした思想界の流れは、必然的に、西洋の宗教の神の概念について、聖書が示す規範に従うよりも精神的に捉えようという運動を起こすことになる。これこそが、西洋の理神論の始まりである。政治倫理の次元で、理神論という言葉が西洋にはじめて現れたのは1682年である。神は人間の営みに介入しないというのが、その核心的な思想である。17世紀末より前は、人間の営みに介入する神の概念が中心をなすキリスト教の圧倒的な影響のなかで西洋は生きてきたので、17世紀末に西洋で理神論が掲げた哲学は革命的であった。それ以前は、誰もあえて、神は人間の営みに介入しないという考えを掲げることができなかったのである。
理神論は、創造主あるいは神は自然の摂理に反する行いをしないとして、自然神観あるいは自然宗教とも表現される。そして、東洋の儒教と道家がこうした自然神観、自然宗教に似ていると考えるようになった。そのため、西洋の啓蒙の時代に東洋の儒教と道家の思想は西洋の思想家たちに大きく訴え、かなりの数の哲学者が、理神論に関するかぎり、東洋の思想にこれから西洋の文明が進むべき道を見るようになった。
東洋の文明では、春秋戦国時代にすでに自然哲学の体系が育っていた。その時点は、西洋の啓蒙の時代より二千年早かった。啓蒙の時代の西洋の思想家たちは、自分たちが目指していた理神論の倫理が、東洋の文明のなかで、東洋の自然哲学において実現されていることを知り、それに心酔するようになった。とりわけ国家の政治経済哲学にかかわって、「自由放任」主義が、東洋の道家においてすでに「無為の思想」として成し遂げられているのを見ることになった。当然、多くの西洋の哲学者が東洋の文明に感銘を受け、それを見習おうと努めたのである。