第3部 我々はどこへ行くのか · 第4章

AI革命は我々をどこへ連れていくのか:二極化 vs 術治

約94分 · 注44件

1) AI革命は諸刃の剣:生産性の向上と二極化の拡大

我々はいま、AI革命のただなかにいる。いくつかの状況を整理しながら、人間に迫っている根本的な問題の本質をつかまなければならない。よく議論される問題は、AIが人間に取って代わるというシナリオ、あるいはAIを支配する人間がほかの人間を支配するというシナリオである。この問題にかかわって必ず考えなければならない問題が、人間の本性である。ホモ・サピエンスとして我々が持っている人間の本性についての分析があってはじめて、こうした問題に迫ることができる。

人間の本性についての議論では、我々は、西洋の近代哲学の父と呼ばれるデカルト(1596―1650)の思考を見なければならない。彼は、その思考の世界がまさに満開に達した時点で、二つの著書を発表する。『方法序説』(Discours de la méthode、1637)と『哲学原理』(Principia Philosophiae、1644)がそれである。ここで彼は、「我思う、ゆえに我あり」という命題を通じて、人間の精神をあらゆる思考の確かな出発点とした。自然は数学的・機械的な法則で説明することができ、人間は理性を通じて自然を支配することができると強調した。彼は、物質の世界を、延長を属性とする実体として精神から区別し、自然を機械的な法則に従って動く対象として説明した。人間の精神は、神の完全さにならって、自然を理解し制御することのできる能力を持っていると見た。これによって、デカルトは自然観の核心として機械論的な世界観を示した。自然は複雑な機械のようなものであり、原理がわかれば操作し制御することができると説明した。さらに人間中心主義(anthropocentrism)、すなわち人間の理性は神の秩序をまねることのできる力を持っており、したがって自然を支配する権限を持つと解釈した。

こうしてデカルトは、近代科学の発展に大きく肯定的に貢献したと同時に、イデオロギーの時代の人間中心主義を開くことにも否定的に貢献した。ここで我々は、デカルトの人間の本性についての分析が、どのように「合理主義」として西洋の近代哲学を主導したのかに注目しなければならない。彼の合理主義は、スピノザやデイヴィッド・ヒュームのようにそれに反対した思想家たちの重要性にもかかわらず、西洋で彼らを圧倒したように見える。しかし、イデオロギーの時代に人間中心主義が人類の社会を破滅の寸前まで追い込むと、精神中心の西洋の思考体系は本格的な挑戦を受けることになる。こうした紆余曲折を経たが、デカルトの合理主義はいまなお西洋の人々の頭のなかに深く残っている。それにもとづく人々は、いまなお人間の力で自然や人間の本性をつくり変えることができるという考えを持ちつづけることになる。

AI革命は、人類の精神の機能にかかわる問題である。産業革命は「筋肉の革命」であり、AI革命は「精神の革命」である。産業革命は、人間の身体的な労働を機械が置き換えることで、生産力を爆発的に広げた出来事であった。蒸気機関、電気、大量生産の体系が、人間の「筋肉」に代わって産業を動かすようになった。ホモ・サピエンスの出現以来、人間が支えてきた人間や獣の筋肉を、産業の力が置き換えることになったのである。一方、AI革命は「精神の革命」である。人間の知的・認知的な活動を人工知能が補い、あるいは置き換えることで、新しい次元の革新をつくり出している。AI革命は、人間固有の精神の能力を広げながら、社会・経済・文化の全般を根本から変える流れである。データとコンピューティングのインフラ、自律的な意思決定、物理的な世界との結合、そして人間の暮らし方の変化をもたらす。AI革命をどう見るべきか。

AIがどれほど発展しても、それはAIを創造した人間の本性のなかで動くことになる。ホモ・サピエンスに迫る危険は、人間に取って代わる、すなわち人間の本性をつくり変えるAIにあるのではない。もしAIが人間の本性を組み立て直すことができるなら、ホモ・サピエンスの歴史はそこで終わりである。ホモ・サピエンスがこれまで積み重ねてきたあらゆる宗教、倫理、進化論、科学、哲学体系が、すべて無効になる。ホモ・サピエンスではなく、新しい種類の人間の歴史が新たに始まるのである。ホモ・サピエンスのあらゆる存在と考えが人間の本性とともに消えることは、ホモ・サピエンスの死と同じことになる。ホモ・サピエンスとして、我々は孔子とスピノザの哲学を思い起こさなければならない。「死について考える必要はない。我々の知恵は、死ではなく生の観察から出てくる」。したがって、AIが人間に取って代わるという仮説は、哲学の領域ではなく、空想科学小説の分野に回すべきである。

AI革命を支配する人間がほかの人間を支配するようになるというシナリオも、人間の本性を中心に分析しなければならない。AIが発展しても、人間の本性という体制のなかで動くことになる。強力な利己心と弱い利他心、そしてそれらを管理しようとする倫理と法律、こうした体制は、依然としてAI革命をも支配することになる。これまで人間の社会で、いかなる啓示宗教も、形而上学的な論理も、イデオロギーも、人間の本性という自然法則から抜け出して人間の世界を支配したことはない。AIもこの体制のなかにとどまることになる。したがって、AIによって人間が人間を徹底して支配しうるという可能性も、哲学の領域ではなく、空想科学小説の分野に残しておくのがよい。

こうした可能性よりも、AI革命がもたらす問題は、我々が予想しなかったものでありうる。産業革命は、誰も予期しなかった気候変動をもたらし、我々の生活に広範な影響を及ぼしている。産業革命は気候変動の遠因である。産業革命がなければ、気候変動も起こらなかった。18世紀後半にイギリスで始まった産業革命は、石炭・石油のような化石燃料の使用を爆発的に増やし、それによって大気中の温室効果ガスの濃度が急激に上昇して、地球温暖化と気候危機の構造的な出発点となった。しかし、人間の誰もそれを計画し、人間を支配するのに用いたわけではない。気候変動だけで人類が完全に絶滅する可能性は低いが、文明の崩壊と大規模な人口減少を招く危険は十分に存在する。生存の環境が悪化し、海面の上昇、猛暑、干ばつ、洪水によって、住むことのできる地域が減ることになる。また、農業生産性の低下と水不足によって、大規模な飢饉が起こる可能性が大きくなる。同時に、気候変動によって感染症の媒介生物が広がりうるようになり、パンデミックがいつでも起こりうる。

気候変動に、人間の本性から迫ってみよう。気候変動は、財産を絶え間なく増やそうとする人間の貪欲という本性を、制御できなかったことにある。人間にその能力があったなら、全世界が産業化と交易で覆われ、自然を収奪する過程に至る前に、人間の社会はそれを管理していたであろう。産業革命によって、人間の欲望と利己心が資本と技術を通じて増幅され、自然を無限に搾取できるという錯覚を生み、結局、気候変動という結果へとつながった。ここ数十年、気候変動について重ねられた警告と、実際に我々に迫った問題にもかかわらず、人類は、未来の世代の生存の可能性を保障する責任から目を背けている。

AI革命によって、人間の本性がふたたび強力に現れる舞台が生まれつつある。産業革命もAI革命も、人間の本性を映す鏡であり、人間の本性を広げる増幅器となるという点である。産業革命は、多くの恩恵を人間にもたらした。同じように、AI革命も多くの恩恵を人間にもたらすだろう。しかし同時に、産業革命が人間の貪欲を自ら制御できないほど増幅させたように、AI革命は、人間の富への執着と権力欲を、いっそう大きくあからさまに見せることになる、という点に問題がある。AI革命は人間をより自由にするのか、それともより従属的にするのか。

産業革命のとき、我々はラッダイト運動(Luddite movement、1811―1816)を経験した。ラッダイトとは、実在の人物かどうかはわからないが、繊維の織機を壊しはじめた「ラッド」という人物に従う繊維産業の労働者たちを意味する。この運動は、産業革命初期のイギリスの労働者たちによる機械の破壊運動であった。単なる暴動を越えて、労働者階級の生存権の闘争であった。ラッダイト運動に加わった人々は、失業と貧困の深まり、すなわち社会の二極化への憂いが先に立った人々であった。彼らは、その後の労働組合と民主主義の運動の土台を築いたと評価されている。同時に、否定的な面は大きくなりつづけている。労働組合と民主主義の運動にもかかわらず、実際に貧富の格差の問題は産業革命以後深まった。人間の本性に内在する貪欲と二極化が、それだけ広がったのである。

産業革命とAI革命が進む方向は、人間の精神的な構想や形而上学的な発見によるのではなく、結局は人間の本性が決める。AI革命がどの方向へ進むのかは、産業革命によって人間の本性がどのように働いたのかという過去の事例がよく示している。AI革命がもたらすさまざまな発展を、肯定的に見て享受しなければならない。「AIをすべて爆破して昔に戻ろう」という反対の意見も出てくる。産業革命のときに現れたラッダイト運動と同じ脈絡である。しかし、我々が産業革命を無視できなかったように、AIを無視することはできない。未来の大勢なので、遅れを取ってはならない。しかし、貧富の格差の拡大、すなわち中間層の減少による国内と国家間の不安定を、どう管理するのか。

産業革命とAI革命:二極化は公益に背を向ける私益の追求から生じる

二極化の現象は、公益に背を向け、私益の追求を正当化するために生じる。私益と公益の収斂論である。巨大企業が私益を追い求めても、彼らの私益は結局公益として戻ってきて、皆の役に立つという理論である。しかし、産業革命とAI革命が示す現象は、こうした仮説に反する状況を示している。富者はますます富み、貧しい人はますます貧しくなり、中間層は弱まる状況を示している。結局、二極化の本質は、公益に反して私益の追求を許す政治経済体制にある。

二極化の本質を見てみよう。産業革命の結果として、資本家階級が形成された。彼らは、蒸気機関、紡績機、鉄道など新しい産業に投資した企業家と工場主であり、莫大な富を蓄えることになる。紡績業者、鉄鋼業者、鉄道事業家が、産業革命以後「新興の富豪」として浮上することになる。以前は貴族・地主が社会の上流層だったが、産業革命以後、「産業資本家」(industrial capitalist)が新しい上流層として根を下ろすことになる。産業革命の結果として百万長者が現れ、社会の二極化と気候変動を招くことになった。

産業革命の結果として、「百万長者」(Millionaire)が生まれた。産業革命に続いて国家間のパラダイムが略奪から交易へと転じるにつれて、百万長者の千倍の財産を持つ「億万長者」(Billionaire、10億ドル以上の保有者)が増えている。続いて、AI革命によって、1000億ドル以上を持つ「センティビリオネア」(Centibillionaire、超億万長者)が現れる。センティビリオネアは何人いるだろうか。世界で16人が数えられ、彼らはみな西洋人である。私益と公益が収斂するという政治経済体制から生じているのである。

近年の国際的な救援開発機関オックスファム(Oxfam)と世界不平等研究所(WIL)の報告書によれば、上位10人あまりの超富裕層が保有する資産が、世界の人口の下位50%(約40億人)の財産を上回ることが明らかになった。これは、世界の不平等が歴史的な頂点に達したことを示している。こうした不平等の比率は、毎年加速している。そして、その差はますます広がっている。二極化は、これ以上大きくなりえない状態に達しつつある。人間の本性に内在する貪欲と支配力が、広がりつづけるのである。

彼らは、未来の資本を操る「AI資本家」(AI capitalist)となる。AI革命によって最も大きな恩恵を受ける産業には、半導体、データセンターの構築、電力設備、電池の素材などがある。こうしたAI資本家の前で、産業資本家である紡績業者、鉄鋼業者、鉄道事業家などは力を失うことになる。AI資本家はデータを独占することになる。産業革命のときは土地と機械が資本の核心であったとすれば、いまはデータとアルゴリズムが資本の核心である。彼らは、プラットフォームの支配力を持つことになる。グローバルなプラットフォーム企業が、AI技術を通じて市場を掌握するからである。彼らは、何よりも富の集中を強めることになる。少数の企業家と投資家が天文学的な資産を蓄え、社会の二極化を深めることになる。彼らが持つ財の力は天文学的なので、彼らは政治的・社会的な影響力を手にすることになる。AI資本家は、単なる経済の権力者ではなく、政策・倫理・文化まで左右する新しい権力層として浮上するのである。

億万長者たちの陰には、失業と貧困の深まりが潜んでいる。技術そのものよりも、分配の不公正と社会的なセーフティネットの不足への反発が、社会問題の中心となる。AIを用いる企業・政府・権力集団が、私益のためにAIを社会を支配する手段として用いる可能性が問題となる。センティビリオネアが最も多いアメリカで、この問題を最も大きな問題と見て、それを正そうとする人々もいる。社会や国家が滅びる場合、結局、巨大企業も一緒に滅びることになる。彼らは、こうした「関係主義」の実体を見る巨視的な慧眼を持つ人々である。

ウォーレン・バフェットの努力がよい例である。ウォーレン・バフェットは、「富裕層減税」に反対し、むしろ富裕層への増税を強く主張してきた人物である。彼は、自分より社員のほうが高い税率を払っている現実を批判し、超高所得層がより多くの税を払わなければならないと強調した。彼は『ニューヨーク・タイムズ』への寄稿(2011年)で、「超富裕層を甘やかすのはやめよ」という文章を通じて、アメリカの財政赤字の解決のために富裕層への増税を促した。彼は、自分が払った所得税率(17.4%)が、事務所の職員たちの税率(33―41%)より低いことを指摘した。上位400人の平均税率が、1992年の29.2%から2008年の21.5%に下がった事実を批判した。「高い税率は投資と雇用の創出を妨げない」という考えも、自らの文章に付け加えた。

彼の主張は、オバマ政権の時代に「バフェット・ルール」(Buffett Rule)という政策の提案へとつながった。年収100万ドル以上の超高所得層は、少なくとも中間層と同じ税率を払わなければならない、という原則である。これは、富裕層の減税を減らし、課税の公平性を強めようとする試みであった。これは実現しなかった。個人主義にもとづく西洋の政治経済体制のためである。彼らはいわゆるトリクルダウン効果を掲げて、個人主義による富の創造を主張しつづけた。結局、バフェット・ルールは立法化に失敗した。アメリカを離れて世界的にも、「グローバル富裕税」が議論されるに至った。G20の合意(2024年)によって、「超高額資産家」に国際的に最低税率を適用する案が議論され、租税回避の防止、不平等の緩和、気候・貧困対策の財源の確保という目標を持っていた。企業を対象とするグローバル・ミニマム課税(Global Minimum Tax)は、15%で施行の段階に入った。しかし、重要な個人資産に対するグローバルな共通課税は、政治的な合意の失敗によって立ち消えになった。すべて、西洋の個人主義の体制で起こったことである。彼らの考えは、多くの努力にもかかわらず、政府の政策へとつながらずに失敗した。個人主義と、私益と公益が収斂するという論理を持つ西洋の哲学体系のなかでは、生き残りにくい努力なのである。

AI革命にかかわって、アメリカのサンダース(Sanders)上院議員が最も注目している問題は、まさに二極化の拡大である。AI革命によって人間の本性の組み替えが可能になって肯定的に働くのではなく、人間の本性の利己心の表れである支配力の拡大に問題があると見るのである。経済的な不平等の深まりにかかわって、彼は、AIが大規模な雇用の喪失を招きうるし、その恩恵は少数の大企業と「億万長者層」に集中する可能性が大きいと警告した。これは、既存の経済的な二極化をいっそう広げうるという点で懸念を示している。彼は、AIが単に経済の問題を越えて、政治、教育、環境、さらには戦争のやり方まで変えうると指摘した。とりわけ「ロボット兵士」のような軍事的な活用は、社会の不安と権力の集中を深めうると見ている。サンダースは、AIが「革命的で変革的な技術」であることを認めながらも、いまの議会と社会は議論と規制においてあまりにも遅れていると批判した。彼は、データセンターの建設の一時停止(moratorium)まで主張し、AIの開発の速度に社会的な合意と規制の体系が追いつかなければならないと強調した。サンダースの観点は、AI革命が単に技術の発展の問題ではなく、社会の権力構造と不平等を広げうる危険な触媒である、という点にある。産業革命が労働者階級と資本家階級のあいだの格差を広げたように、AI革命もまた、似た二極化のメカニズムを広げうるというのである。

二極化に対処する方法は、富の分配にある。利潤の追求と貪欲を区別しなければならないという命題へと、我々を導くことになる。どうすれば利潤の追求を保障し、貪欲は管理するのかという問題である。この問題は、ふたたび公益と私益の問題へと我々を導く。公益を保障すれば二極化は減り、すなわち中間層は守られるが、私益の追求を許せば二極化は広がり、中間層は減る。西洋で中間層が減っていることが特徴である。二極化は、中間層の賃金の停滞と生活費の上昇として表れる。生産性は着実に向上したが、賃金はそれほど上がらなかった。住居費、教育費、医療費が急激に上がるなかで、中間層の実質的な購買力は減る。西洋では、自動化とグローバル化によって、製造業と伝統的な産業の雇用が海外へ移るか、自動化に置き換えられる。中間層を支えていた安定した「中間技能職」が消え、不安定なサービス業や低賃金労働に置き換えられるなかで、資産の格差が広がる。

不動産や株式など資産価格の上昇は、資産を持つ上位層にだけ利益を与えることになる。中間層は資産を蓄えにくくなり、負債(学資ローン・住宅ローン)にいっそう頼るようになる。政策・税制の構造の面では、税制と福祉政策が上位層に有利に設計されるか、中間層を十分に守れなくなる。アメリカの場合、とりわけ医療・教育の費用の負担が大きく、中間層がたやすく下層へと押し出される現象が生じる。1970年代以後、アメリカなど西洋の国々で中間層の比率は着実に減っている。二極化の深まりとして表れるが、上位層はより豊かになり、下位層はより不安定になり、中間層は次第に消えていく構造が現れる。社会的な影響として、政治の二極化、社会の不安、民主主義の基盤の弱まりへとつながる。西洋で中間層は、経済構造の変化(自動化・グローバル化)+生活費の上昇+資産の格差+政策の失敗という四つの軸が同時に働くなかで、崩れつつある。

2) 「西洋の文明はどのように没落するのか」:中間層の消滅

西洋の市場経済体制は、国家主義(statism)という貪欲に対処することで大きな成功を収めた。しかし時が経つにつれて、集団主義(tribalism)の貪欲が西洋の市場経済を脅かしている。西洋の集団主義は、西洋の個人主義(individualism)の哲学の延長である。西洋の自由放任主義は、個人の自律を放任しながら、自律が自由へと変わる過程を経た。これは、個人と集団の次元で私益と公益の収斂論と結びつくなかで、私益が公益に先立つ現象をつくり出すことになる。公益と私益の収斂論は、必然的に、一つの国の経済体制において、結局は貧富の格差を深めることになる。王たちが自らの私益のために国の経済を運営して民衆との所得の格差を広げていた国家主義の現象は、いまや、集団主義の指導者たちが王に代わって私益を追い求め、民衆との所得の格差を大きく広げる現象へと転じつつある。

「西洋の文明はどのように崩壊しうるか」(How Western Civilization Could Collapse)という記事は、未来を見通しながら、西洋の政治経済に迫った問題を紹介した。459 民主主義、個人の自由、社会の寛容のような価値の上に築かれた西洋の文明が、30年、一世代のうちに危機に直面しうると説明している。二つの理由を挙げている。地球温暖化を含む生態系の破壊、あるいは貧富の格差が広がるのを放置することによって、西洋の文明は没落しうるというのである。先進国のエリート層が、自分たちの富を追い求めつづけることにだけ目的を置き、残りの人々の生活に無関心である場合、そうした社会は結局衰退する。この問題は、一つの国の内部の状況にとどまらない。国家内部の貧富の格差の拡大は、必然的に国家間の貧富の格差を引き起こす。結局、地球全体の問題となるのである。

豊かな国と貧しい国のあいだの貧富の格差は、日ごとに大きく開いている。豊かな国は日ごとにより豊かになり、貧しい国は日ごとに生きていくのがますます苦しくなっている。460

先進国は、それぞれ自らの内部の貧富の格差の拡大に気を取られて、世界の問題に没頭する余裕がない。世界の問題を除いても、国内の問題によって、先進国は決定的な危機を迎える可能性が大きい。アメリカとイギリスを例に取れば、現在の貧富の格差の趨勢が続けば、2050年ごろにはアメリカとイギリスで中間層はなくなり、国民は富者と極貧者の二つの部分に分かれてしまう、というのである。

2050年ごろになると、アメリカとイギリスは、根本的に二つの社会階層を持つ国へと変わることになる。小さなエリート集団は豊かに暮らすが、残りの大部分の人々は、ますます厳しくなる生活環境を迎えることになる……彼らは不満に包まれ、恐れを抱いて暮らしながら、宗教、人種、あるいは国家というものにしがみつくようになる。富者たちは、自分たちの持つ富にいっそうしがみつき、大部分の貧しい人々をますます働かせる体制へと転じることになる。461

そうなれば、そうした国は、両極端に立つ人々が互いに激しく争うようになって、国としての役割を果たす能力を失ってしまう。民主主義、個人の自由、寛容のような価値は、次第におろそかにされていく。西洋が陥った「先進国の罠」である。先進国の罠が意味するところは、当時ルクセンブルクの首相であったユンカー(Jean-Claude Juncker、1995年から2013年まで19年間首相、のちに欧州委員会委員長)が、2007年、ユーロ危機が起こる前に語った言葉に、的確に指摘されている。「我々各国の首脳は、何をすべきかをみなよく知っている。ただ、それをしたときにどうすれば再選されるのかを知らないだけである」(“We, heads of government all know what to do, we just don't know how to get reelected when we do it.”)。その後のユーロ危機が裏づけたユンカーの言葉は、何よりも、西洋の先進国が抱える莫大な負債と、それに結びついた社会福祉の費用、そしてそれを改められない政治体制を指摘している。

先進国がこれを避けるには、「貧富の格差の拡大と、借金をしてまで行う福祉の踏襲」から抜け出さなければならない。先進国がそうすれば、西洋の文明の没落を避けることができる。ところが時間は、人間の行動を無限に待ってはくれない。現在の状況を変えなければ没落へ向かうだろうと予見する学者は多い。彼らのなかには、西洋の文明が没落すれば、中国のような強い国が生き残るだろうと見る人もいる。462

なぜ、西洋の文明が衰えても、東洋の文明は生き残ることができるのだろうか。東洋が驚くべき経済成長を遂げており、地球上で唯一、中進国の罠を抜け出し、民主主義と市場経済を成功裏に成し遂げたのはなぜなのか、その原因を見なければならない。『文化が重要である』(Culture Matters)という論文で、アメリカの学者ローレンス・ハリソン(Lawrence E. Harrison)は、東洋の儒教文化圏を例に挙げながら、一国の文化と経済発展のあいだの密接な相関関係について、洞察に満ちた見解を示している。

シンガポール、香港、台湾は熱帯地域にある……彼らの驚異的な経済発展は、儒教文化圏の日本や韓国の経済発展における成功を繰り返している……また、熱帯にあるタイ、インドネシア、マレーシア、そしてフィリピンにいる少数の中国系の人々が経済的な成功を成し遂げていることも、儒教の文化の重要性を示している。ペルーやブラジルにいる少数の日本人も同じである。463

中南米の学者たちは、かつて、気候、植民地の生活、支配構造(従属理論、dependence theory)、あるいは人種差別などのために経済発展は難しいという「言い訳」を掲げた。ハリソン教授は、中南米にいる東アジアの中国人、韓国人、日本人の場合を見れば、そのいずれも理由にはなりえないと説明する。制度やパターンによって経済発展を成し遂げることはできず、すなわち文化こそが制度やパターンを決めるということを示したのである。464

地球全体を見れば、西洋に追いついた国は東洋しかなく、東洋と西洋を除けば、経済発展や民主主義の面でまだ先進国となった国はないと説明しながら、結局、人類の30%ほどだけが先進民主国であり、残りの70%への努力は、半世紀以上の努力にもかかわらず成功しなかったと指摘している。465

スペイン、ポルトガル、韓国、台湾、そしてシンガポール、香港のようなほんの一握りの国だけが、ロストウ(Rostow)の発展計画に従って先進国の列に加わったにすぎない。現在、およそ60億人のうち、10億人ほどが先進民主国の列にいるにすぎない。466

実際、東アジアの国々、すなわち日本を筆頭に、韓国・台湾・香港・シンガポールを指す四小龍、そして中国の経済発展は、その速さと幅において、歴史上類例を見いだせないものである。これを西洋の学者たちは「儒教的労働倫理」(Confucian Work Ethics)と総称して、西洋の資本主義が勃興したときに西洋が持っていた、いわゆる「プロテスタントの労働倫理」(Protestant Work Ethics)と比べたりもする。

儒教的労働倫理の特性として、勤勉さ、節約、教育熱、小さな政府、「未来のためにいまの楽しみを先送りする」(deferred gratification、あるいは deferment of present pleasure for greater future gain)伝統、そして効率的な法制度と社会福祉の制度などが挙げられている。結局、「儒教」の国々は、経済と民主主義が成功しうるあらゆる条件を十分に持っていることを証明した。こうした東アジアの浮上は、東洋が経済発展を成し遂げて西洋に追いつくことはけっして不可能であるとしたマックス・ヴェーバーの見解を色あせたものにしている。467 これは完全に西洋的な偏見であり、政治経済思想の本質を歪めているのである。

教育、発展、労働倫理、実力主義、そして勤勉と節約で表される儒教的な価値を、すべての東アジアの国々が共有している。その経済的な成長によって、マックス・ヴェーバーが『儒教と道教』という本で主張したことがこじつけであることが明らかになった。彼は、中国で資本主義的な成長が不可能な理由は、カルヴァン主義に見られる「自分たちが選ばれたのかどうかが不確かであることから来る緊張感」がないからだと主張した。468

東洋の儒教的労働倫理は、自分のために行うものなので、宗教的な理論の変化や地球の終末論の運命とはかかわりなく、内なる必要によって実行されるものであるから、堅固な文明的な基盤を持っていると見ることができる。西洋のメディアは、東アジアの価値として、「教育、勤勉、節約、そして未来のより大きな成就のためにいまの楽しみを先送りする姿勢」を挙げている。469 西洋の統計もまた、ヨーロッパ人、アメリカ人、東洋人のなかで、アメリカを基準とすると、ヨーロッパ人はアメリカ人より20%ほど少なく、東洋人は30%ほど多く働いているとして、東洋の勤労意識が最も強いと記している。

多くの専門家は、東アジアで経済発展がなされない理由は、まさに儒教の思想にあると見た……こうした見解は、20世紀半ばまではびこっていた。しかし東アジアで、強い教育・達成感・実力主義・勤倹節約のような経済的な飛躍に必要な要素を引き出すうえでは、まさに同じ文化的・政治的なリーダーシップが決定的な役割を果たすことを見るようになった。470

経済的に見ると、儒教、プロテスタント、そしてユダヤ教に属する社会は、カトリック、イスラーム、そしてギリシア正教に属する社会よりも、成功裏に発展を遂げていることを示している。それは、彼らの考えや思想が経済発展を成し遂げるのに必要な要素を持っているからであり、彼らは、経済発展を妨げる要素を多く持っている宗教的な社会と違いを見せている。

全般的に見ると、宗教についての研究から見て、プロテスタント、ユダヤ教、そして儒教の社会は、カトリック、イスラーム、そしてギリシア正教の社会よりも、経済発展のための振興要素を多く持っていると見ている。一方、後者には、経済発展を妨げる要素が現れているのを見ている。471

結局、19世紀半ばから20世紀後半まで、西洋ははっきりした理由もなく、ただ東洋の文明に、なぜ東洋が西洋に圧倒されたのかという問題点ばかりを探そうとしてきたと見ることができる。とりわけ20世紀半ばまで、東洋が経済発展と民主主義で遅れている理由を、儒教と道家の前近代性、非合理性、非科学性、非民主性に求めようとする努力が強かった。472 しかし、東洋の続く画期的な経済発展、民主主義、社会の発展に注目して、東洋の精神文化、すなわち儒教(教育の重視と実力主義の伝統、普遍的な倫理と勤倹節約の文化)、道家(少ない税と小さな政府によって個人の経済の主導権を保障し、自然と人間の調和)、仏教(慈悲の思想、無所有の重視)などに内在する政治経済思想の価値について、21世紀初めになってようやく、西洋も次第に認めはじめたのである。

東洋のこうした長所は、偶然に生まれたものではない。また、何かの政策的な決定や決断でつくり出せるものでもない。歴史と伝統のなかに染み込んでいるものである。西洋とは異なる、深く広い東洋特有の文化的な背景を持ち、哲学的な土台を持っているのである。すなわち、政治経済思想において、東洋は西洋よりも集団主義への警戒をはっきりさせている。東洋の労働倫理の特性は、東洋と西洋の経済発展のパターンに見いだすことができる。人間の本性の利己心について、東洋では管理を通じて経済発展を追い求めようというパターンを見せており、西洋では放任を追い求めようというパターンを見せている、という違いである。

西洋より民族国家の建設において二千年先んじた東洋には、民族国家の建設とともに現れる政治経済思想の面で見いだすべき知恵と政策がある。東洋の思想に見いだすことのできる、西洋とは異なる政治経済学的な思想は、シンガポールの故リー・クアンユー首相がよく説明している。彼は、共産主義の消滅とともにアメリカに迫っている、西洋が経験している政治経済的な問題を説明している。

社会が成功するには、競争を通じて能力のある人を育てると同時に、すべての人にも機会を与えなければならない。すなわち、競争と協力が共存しなければならない。共産主義のように、すべての人が似た結果を分かち合えば、発展がなくなる。だから共産主義は消滅した。一方、能力を育てることにだけ集中して、成功した人がすべてを取り、成功しなかった人は持つものがなくなれば、貧富の差はますますひどくなる。アメリカがそうであるように、結局は社会の均衡と公平さが壊れるのである。473

彼は、こうした状況で、貧富の格差の問題を解消すると同時に経済発展を成し遂げる方策は東洋の政治経済哲学に見いだせると見て、陰陽論を紹介する。一つの国において、経済的な弱者への支援とともに、経済発展を成し遂げた者への正当な報いを、陰陽論の哲学に従って調和させていかなければならない、というのである。すなわち、競争と協力を共存させようというのである。

最善の方法は、東洋の陰陽論に見いだすことができる。競争と協力を同時に追い求めなければならない……これは、西洋の自由主義者たちがしていることとは違う。彼らは国民を煽って、恥も投げ捨てて、福祉を一つの権利のように主張しつづけさせる。結局、その国では福祉の費用が爆発的に膨らんでしまうのである。474

こうした状況のなかで、東洋の文化の基本的な長所である教育の重視、実力主義、勤倹節約、自己修養の伝統を、どのように守っていくべきかという、文化の根源的な課題に、我々は突き当たっている。「西洋のパターンにおける倫理の排除 vs 東洋のパターンにおける倫理の核心的な役割」を見せているが、これこそが、21世紀の東洋と西洋の政治経済の現実を分ける最も重要な要素となる。倫理を排して主に法律に頼る西洋の政治経済体制は、軍・産・政の複合体が私益を追い求める道を開いてしまうのである。

利益集団の私益の追求、民本主義への脅威

法を定める議会は、国民のための公益を追い求めなければならない。その前に、もう一つ重要な段階がある。国民は、公益のために努めようとする人を代表として選ばなければならない。これが民主主義と民本主義の根幹である。しかし議会が、公益ではなく自分たちの再選を優先する代表者で埋まれば、民主主義と民本主義は意味がない。結局は国民の選択が左右する。国民は、勤倹節約を唱える人と、自分の政治力によってまず成果を保障しようとする人がいれば、そのうち後者を選ぶ本性を示す。戦争や異星人の侵略、惑星の衝突のような非常事態がなければ、国民は、すぐに成果を保障しようとする人を選ぶのである。

国会議員が公益より私益を優先する性向と、国民が公益を優先する代表者より、目の前の私益を保障しようとする代表者を優先する性向、この二つの性向は同じコインの表と裏である。そのコインとは、人間の本性にある最も強力な力である利己心である。国民も国会議員も、利他心である公益より、自己保存のための利己心を先に立てるのが人間の本性である。平和が続けば、公益より私益を追い求める状況が繰り広げられるので、法治主義や自由民主主義は脅威を受けることになる。三権分立の体制で一つの軸が崩れれば、その体制は二本の脚では立っていられず、民主主義は意味を失うのである。

国民が議会に示す支持率はきわめて低い。韓国でもアメリカでも、支持率はいずれも20%前後である。国民は、国会議員が公益より再選のための私益にまず集中している状況を目にしつづけることになる。韓国では、企業や団体の献金は違法である。しかしアメリカなど西洋の先進国では、献金が盛んに認められている。とりわけアメリカの場合、企業の政治活動委員会(PAC、political action committee)を通じた間接的な支援が制度的に認められている。アメリカの議員の再選にとって最大の要素は、選挙に必要な資金である。個人や企業家が支援する献金である。議員は法を用いて献金者に必要な利益を育ててやり、献金者は国会議員の再選に必要な資金を供給する。国会議員には、君子の品格を備えた指導者である以前に、自己保護の本能に忠実な人々、すなわち小人が多い。彼らにとって、後援会やビジネスの支援は直接的である。ビジネスと議会が結託すれば、行政府は多くの場合それに従うほかない。結局、ビジネス・議会・行政府が集団主義にもとづいて公益に背を向け、まず自分が生き残る私益を追い求める現象が大きくなりつつある。

集団主義が公益を損なう現象は、重商主義の体制でも盛んであった。アダム・スミスは、重商主義の政策の代表的な人物とされるコルベール(Jean-Baptiste Colbert、1619―1683)の政策を否定的に評価した。コルベールは、フランスのルイ14世のもとで、1665年から1683年までの18年間、財務総監を務めた。彼は保護貿易主義を追い求めながら、それを王と企業家のあいだで利益を分け合う方策として用いた。実際、コルベールが財務総監として取った最初の政策の一つは、ヴェネツィアからのガラス製品の輸入を置き換えられるよう、フランス王立ガラス製品組合を創設することであった。彼は、7年後にこの組合がそれなりのガラス製品を生産しはじめると、ヴェネツィアからのあらゆるガラス製品の輸入を禁じた。重商主義の政策のもとで、すべての国が先を争って輸入を減らし輸出を増やすことに国家の未来があると見ていたので、極度の保護貿易主義と輸入代替産業の振興を追い求めた。しかしこうした政治経済の制度のもとでは、当然、集団主義の貪欲は自由に育つことになった。すなわち、上記の王立ガラス製品組合のようなものは、国家から独占的な保護と便宜を与えられることになったのである。そして国家、すなわち王室は、こうした企業から税やそのほかの適切な形で収入を得る関係をつくるなかで、結局は一般の国民だけが犠牲になる状況が生じることになったのである。

交易を制限し、規制し、指図することにかかわる規定、法、勅令、詔勅、そして政府、王、議会の公共の条例などの大部分は、結局、政治的な誤りであるか、公共の利益のためという美名のもとで、狡猾な人々が個人の利得のためにつくったものであると、我々は考えざるをえない。475

集団主義が公益を損なう性向は、重商主義、そして産業革命を経るなかで、いっそう強まった。アダム・スミス、マンサー・オルソン、アイゼンハワー大統領、そして近年の金融経済学者たちが、まさにこうした集団主義への警戒心を表している。アダム・スミスは、一国のなかの商人と製造業者は、いずれも独占によってより多くの利益を追い求めることができるので、国外の競争者を排除しようとしたが、こうした政策の犠牲になるのは結局一般の国民であると見た。そこで、国家の干渉を排した国民の経済活動の自由放任と、国家の貿易においては重商主義的な保護貿易の代わりに自由貿易主義を唱えはじめた。476 アダム・スミスは、国家主義から一人ひとりの利己心を解き放つと同時に、集団主義の貪欲について憂慮しはじめる。

同じ業種に携わる人々は、めったに集まらない。しかし彼らが集まるとき、会話の核心は、いつも公共の利益に対する陰謀に終わるか、ときには価格を引き上げようという談合に終わるものである。477

さらに一歩進んで、アダム・スミスは、こうした集団主義の貪欲を法で治めるのはきわめて難しいという点も明らかにしている。

同じ業種に携わる事業家たちがときおり会合を持つことを法で禁じるのは不可能である。なぜなら、そうした法は自由と公平に反することになるからである。しかし、たとえ法が、同じ業種に携わる事業家たちがときおり集まるのを妨げることはできないとしても、法は、そうした会合を必要にすることはもちろん、それをたやすくすることも決してしてはならない。478

オルソンもまた、彼が「特殊利益集団」(special interest group)と呼んだ集団主義の貪欲が、民主主義を脅かす可能性について警告している。民主主義の体制は、国家主義が私益を追い求めることについてはよく防ぐ仕組みを持っているが、集団主義が私益を追い求めるのを防ぐことはきわめて難しいと判断している。すなわち、三権分立の制度によって、指導者が私益を追い求めることはよく防ぐが、ビジネスと議会が結託して私益を追い求めるやり方に対しては、三権分立の制度はたいした役割を果たせなくなるのである。

民主主義は、その指導者が社会の余剰を恣意的に引き出して使うのを防ぐうえではきわめて有利な位置にあるが、長く安定を保っている民主主義において、特殊利益集団が国の経済政策全体を左右しないように防ぐのは、きわめて難しいことである。479

またオルソンは、「個人が集まった集団は、私益のために働くのであって、公共の利益のために働くのではない」という事実を直視していた。だから彼は、特殊利益集団がつくる政治経済の政策は公共の利益を損なうだろうと見通して、懸念を表明している。

特殊利益集団がつくる政治経済の政策は、保護貿易的で、科学技術の発展に逆らう性格を帯びやすい。しかしこうした政策は、その性格上、利益は利益集団に集中させながら、その費用はすべての国民が均等に払うことになる。結局、こうした論理に従って、利益集団の政策には国民的な抵抗が大きくならない。そのため、時が経つにつれて、こうした特殊利益集団はますます大きくなり、結局その国の経済は立ち遅れることになる。480

これはさまざまな形で表れうるが、アイゼンハワー大統領は、在任中、軍と企業のあいだの、これら利益集団の利益だけを追い求めようとする目的を持った緊密な結びつきによって、公益を追い求めようとした自らの国政の運営に少なからぬ影響を受けた。そこで彼は、8年間の大統領職を去るにあたって、1961年に行った有名な演説で、まさに「軍産複合体」(military-industrial complex)への警告を残して去ったのである。

政府を運営するにあたって、我々は、軍産複合体による、自然発生的であれ意図的であれ、不当な影響力を積み上げようとする企てに注意を払わなければなりません。こうした不適切な力が大きくなり、我々に大きな災厄をもたらす可能性は常に存在します。我々は、この軍産複合体の力が、我々の自由や民主主義の手続きを損なうのを放っておいてはなりません。481

こうした軍産複合体は、結局、議会を通じて影響力を行使するようになり、したがって行政府の力も働かなければならないので、「軍産政複合体」(military-industrial-congressional complex)とも呼ばれるようになった。民主主義の国のなかで生じるこうした懸念は、国家主義の貪欲が制度的に牽制されたからといって公益が守られるのではなく、国家主義ではない集団主義の貪欲によって公益が損なわれる状況に我々が至ったことを、よく示している。アイゼンハワー大統領が活動していた時期は1950年代である。そのころは、まだ金融市場が今日のように飛躍的な発展を遂げる前である。第二次世界大戦のあいだに大きく成長した軍産複合体は、いまや、集団主義の貪欲を代表する最も重要な主体の座を、「金融・政府複合体」(finance-governmental complex)に譲ることになったのである。これは、産業革命に続く金融革命と呼べるほど、経済体制の中心を製造業からサービス業へと移すほど強力な変化である。

過去30年のあいだに、ほとんどの先進国の金融の次元で、真の革命が起こった。1970年に、アメリカの上場株式全体とアメリカ経済の総生産との比率は0.66であった。それが2000年には急速に伸びて、アメリカ国内の上場株式の総額は、国内総生産(GDP)の1.5倍に達するようになった。482(2025年には2.1倍)

市場経済において、多国籍企業、国際金融企業など、何と呼ぼうと、彼らが追い求める集団主義の貪欲は、いまや市場経済そのものを脅かすほどになった。とりわけ金融企業は、世界規模の市場を相手に、巧妙な運営の仕組みによって、生産性の何もない利潤と貪欲の追求に没頭する道へと入った。彼らが世界の市場経済に及ぼす影響力はますます大きくなり、21世紀の政治経済体制を「カジノ資本主義」(Casino Capitalism)と呼ぶに至った。ラジャン(Rajan)ら経済学者たちは、まさに企業家たちが集まると、公益を損なう謀議の方向へ力を合わせて私益を追い求めるようになると規定した。これらの経済学者たちは、「しかしきわめてしばしば、そしてあまりにも多くの国で、公正な競争を妨げようとするこうした企業家たちの謀議は、結局、国家の助けを受けている」と、国家の無責任さを診断している。483

軍産政複合体、すなわち特殊利益集団は、いまや言葉にできないほど力と影響力が大きくなった。金融界が政府と力を合わせて、「公正な競争」という公益を損なう「金融・議会、あるいは金融・政府複合体」へと発展してきたのである。資本主義、すなわち市場経済体制は、これまで人間がつくり出した制度のなかで、生産と分配を最も効率的に行う方策である。そしてその根底には競争がある。ところが競争は、企業家たちの絶え間ない貪欲を管理し牽制するので、既存のすべての企業家にとって煩わしい存在となるのである。484 そこで利益集団、すなわち集団主義は、最大限の努力を傾けて競争を抑え、それぞれの集団の利益を追い求めることになる。集団主義の最大の問題点は、社会の二極化として表れる。国民は、貧富の格差の拡大によって被害を受けることになる。中間層は減り、国民は、極度の富を享受する富者と貧者に分かれる。国家が公益を守らなければ、公益は誰の責任になるのか。

自由放任の罠:「見張りを誰が見張るのか」

自由放任主義は、個人の経済的な自律を国家主義(statism)から解き放った。資本主義はそれに頼って、ファシズムや共産主義のようなイデオロギーによる統制経済の体制に勝つことができた。しかし自由放任主義は、ビジネスと議会の結託によって私益を追い求める集団主義(tribalism)に対して、無力さを露呈している。民主主義の基本原則において、議会を構成する政党は、国民の利益、すなわち公益を追い求めることになっている。しかし多くの場合、世界の数多くの政党は、公益の追求よりも政権の再創出、すなわち政党の利益を先に立てることが多く目撃されている。彼らが代表しているのは国民の利益ではなく、所属する集団、すなわち政党の利益を追い求める集団主義の貪欲なのである。彼らは西洋の自由放任主義を掲げて、自分たちの成功が公益として表れると主張している。しかし、国民を代表する政党が利己心ないし貪欲を自由放任すれば、公益は誰も守らなくなる。見張りのいない状態となる。自由放任主義は、西洋の政治経済体制の罠となるのである。

このように、西洋の政治経済の制度が直面している問題点は、西洋の民主主義と市場経済の根本を脅かしている。この危機は、究極的には一つの問いに帰着する。ローマの詩人ユウェナリスが示した「見張りを誰が見張るのか」という問いである。485 民主主義の基本的な前提は、権力者や政党が行うことを、究極的には有権者である国民が見張り、評価し、判定を下すということである。ところが、ローマの帝政時代に皇帝の親衛隊が給料を多く払う指揮官や将軍を皇帝に擁立したように、借金をしてでも社会福祉を増やす政治家を選挙で当選させ、そのために政党のあいだで再び政権を取るために社会福祉を増やす競争が起こり、国民がその危うさを見抜けずに目の前の福祉を好むのであれば、民主主義の基本的な前提は崩れる。実際、ユーロ危機のとき、西洋の各国の指導者と国民がなすべきことは明白であった。問題の本質を知らせ、国民に基本的な労働倫理に立ち返るよう訴え、そうした政治家を国民が指導者として選ぶことである。ところが、そうした状況は起こらなかった。その場合、西洋の民主政治の制度の出発点である政党政治の制度について、疑問が生じることになる。

東洋では、政党政治の試みと集団主義の貪欲をめぐる論争が、11世紀から12世紀に繰り広げられたことがある。宋の進歩主義の政治家である欧陽脩(1007―1072)は、一連の改革措置を試みるが、そこには、官吏の報酬を上げて公務に忠実にさせること、法の施行を実効あるものにすること、情実政治を打破すること、そして科挙の試験に実際の政府の運営に必要な科目を加えることなどが含まれる。486 1045年には、皇帝に上奏する。彼の主張は、その「朋党論」にもとづいている。「君子は道を同じくするを以て朋と為し、小人は利を同じくするを以て朋と為す」と主張しながら、派閥の形成を認めることを主張する。487 すなわち、現代式の政党政治を建議したのである。

実際、11世紀には、宋で、現代式の社会主義と見なしうる政策が、宰相王安石(1021―1086)を中心に繰り広げられた。一方、保守主義と見なしうる立場が、司馬光(1019―1086)によって掲げられた。二つの勢力のあいだには、競争と牽制があった。結局、欧陽脩の派閥の形成、すなわち政党政治についての考えは採用されなかった。君子の水準に至りうる者はごく少数であり、結局、大部分の人は小人のままでいるので、政党の人々も結局は私益に陥ってしまうという判断のためであった。政党政治の主張は、結局、朱子学の泰斗である朱熹(1130―1200)によって決定的に葬られるに至った。朱熹は派閥の構成を強く批判し、派閥は結局、公共の利益よりも集団の私的な利益を追い求めるようになるという主張を展開した。(千年が過ぎて、現代の国家で、こうした論拠が新たに検証される事例が導き出される。韓国とアメリカとイギリスで、議会に対する国民の支持は20%ほどから抜け出せない。これは、国会議員が国民のための公益ではなく、自分たちの再選を狙う私益にいっそう集中するようになるということが、国民にすっかり知られるようになったからである。)

集団主義者たちが私益を追い求める行為を抑える責任は、誰にあるのか。結局、政府にあることになる。政府の統治術のなかで、術治の概念が重要になる理由である。なぜなら、市場は公正な競争という公益を追い求めることが難しく、政府の管理が必要だからである。経済学者たちは、金融革命によって特徴づけられる21世紀の世界経済において、すべての人々が公正な競争から利得を得なければならないのに、それが守られにくいと指摘している。「公正な競争という公益を守ろうとする重要な仕事には、たいしたインセンティブがない」ことが問題だという逆説を指摘しているのである。

市場は自由でないばかりか、実質的にきわめて自由ではありえないようになっている。なぜなら、市場はきわめて壊れやすい政治的な基盤を持っているからである。すべての人々が競争的な市場から利得を得るが、実際に経済体制を競争的にし、公正な試合ができるようにする努力からは、誰も大きな利得を得られないという点に、問題の鍵がある。資本家でさえ、公正な競争を振興することからは利得を得ることができない。残念ながら、資本家たちは競争からの保護を政府に求めつづけるが、まさにそうすることによって、彼らは資本主義の最大の敵となるのである。488

大企業の私益の追求は、21世紀初めの市場経済において最大の関心事となっている。とりわけ、金融資本と金融企業が公共の利益に背を向けて自らの利益だけを果てしなく追い求める貪欲については、連日報道が途切れない。西洋の市場経済は、これについて何の備えもない状態である。西洋では、集団主義の貪欲を根源的な問題と見るよりも、アダム・スミス以来の市場経済の思想にもとづいて、「部族の貪欲は、意図しなくても、見えざる手によって公共の利益の創出へと導かれる」という原則を、いまなお基本的な哲学として信じているようである。いま露わになっている根源的な問題点は、こうした基本原則についての一部の例外、あるいは周辺的な問題としてだけ認識されている様相である。

法的な一部の牽制の仕組みを除けば、超国家的な大企業、とりわけ金融企業は、倫理的に見て容認できない企業運営をしているのに、政府は何の措置も取れずにいる。2008年の金融危機のとき、またそれ以後、政府の補助、すなわち国民の税金で生き延びる巨大金融企業で、莫大な給料とボーナスが分け合われる状況を、一般の国民は目の当たりにすることになったのである。政府がこれといった措置を取れずにいるなかで、ここ数年、大企業の社会的責任についての認識が、主に国連を中心に広まってはいる。すなわち、「企業の社会的責任」(CSR、Corporate Social Responsibility)、「共通価値の創造」(CSV、Creating Shared Value)、あるいは「環境・社会・企業統治」(ESG、Environment, Social and Corporate Governance)という運動が、一部の関心を集めている。こうした運動は、法的には何の義務もないが、自ら倫理的な責任意識を持って、企業が集団主義的な貪欲を自ら抑えてみようというものである。しかし、こうした運動は、企業の基本的な設立目的、すなわち利潤の追求の前では力を発揮できなくなる。副次的な次元にとどまるほかない。そのため、こうした近年の運動は、まだ「できるかぎり他人も助けようという慈善の次元」にとどまっているという評価も受けている。

結局、金融革命とともに、強大な金融資本家と、それと結びつく政界との関係のシステムが、民主主義の市場経済の最大の敵として現れることになった。これを律するルールをつくり出すことは、中庸を見いだして保つことのように難しい。

競争的な市場は、ルールのない状態と、息が詰まるほど多くのルールとのあいだの精妙な中庸によって成り立つ。資本主義が最もよく働く状態がきわめて不安定なのは、まさにこの中庸の立つ場所がきわめて狭いからである。この状態は、たやすく、既得権による、既得権のための、既得権のシステムへと転落してしまう。歴史的に我々が経験した資本主義は、まさにこうした形の資本主義であった。そして不幸なことに、いまなお地球上の多くの場所で、こうした資本主義が盛んなのである。489

集団主義に対する西洋の哲学的な備えの不足は、自由放任主義の始まりに問題があった。政府の徹底した干渉が込められた重商主義から個人の自由を保障しようという点に、自由放任主義の目的があったからである。自由放任は、「個人の経済活動の自由を最大限に保障し、国家の干渉をできるかぎり排する経済思想」と定義される。人間の本性によって私益が公益を生み出すようになるという哲学体系が、影響を及ぼすことになる。結局、西洋の自由放任は、無為の思想とは違って、個人の自律に「自由」を与えるパターンを強調することになる。結局、アダム・スミスが唱えた自由放任について、根源的な疑いを持たなければならない。「部族の貪欲は、意図しなくても、見えざる手によって公共の利益の創出へと導かれる」という彼の哲学への疑いである。

3) 術治:公益を私益から守ろうという哲学

私益と公益の衝突論と私益と公益の収斂論は、東洋と西洋のあいだの「人間の本性」についての哲学の違いから生じる。東洋は人性論において、人間の本性は強力な利己心と微弱な利他心からなっているので、それを管理しなければならないという立場である。一方、西洋のアダム・スミスらの人性論は、人間の本性は善であるという哲学から出発したので、人間の行いに任せようという自由放任論を基本としている。したがって東洋の人性論は、人性の管理という次元で、西洋の政治哲学と相反する政治哲学を示している。こうした政治哲学は、指導者の統治力に必要な要素となる。これこそが、東洋で重んじる統治術の概念である。人間の本性に照らして見るとき、政治経済の体系において必ず術治(じゅつち)の哲学を用いてこそ、公益を守ることができるという思想である。

戦国時代の法家は、韓非子という思想家を生み、法家の思想を統合する著作を残した。戦国時代の数百年のあいだ、七つの国が生き残るために国力を強める方法を試した。勢、法、術を用いた勢治、法治、術治が頭角を現した。韓非子は、君主が自らの権力(勢)をもとに法律と制度(法)を効果的に運用するための方法(術)を、その書で総合的に説明した。韓非子は、王が国を治めるときも官僚に接するときも、公益と私益は衝突するという考えを心のなかに持っていなければならないと見た。戦国時代に広く広まった術治の概念を受け入れたのである。

彼の術治の哲学は、申不害の政治学から取ったものである。王が法を定めるとき、官僚たちの心のなかで、公務を行いながら私益を取ろうとする考えを捨てさせる方向で国法を定め、管理しなければならないと見た。同時に、指導者の率先垂範を強調している。

夫れ法令を立つる者は、以て私を廃する所以なり。法令行われて私道廃る。私なる者は、法を乱す所以なり……もし王が法と規定を無視して自分の気まぐれによって官僚に報いれば、官僚は公益を捨てて、王の気まぐれを満たすことに没頭するようになる。(『韓非子』詭使45:6)

申不害は、戦国時代の韓の宰相であり、刑名の大家として知られている。紀元前4世紀の人である。彼は術を重んじた法家の思想家で、君主が臣下を治めるとき、刑名によって権力を安定させることができると見た。刑名学において、刑はふつう形(実績・行い)と同じ意味に読まれる。彼は、君主の命令や官職を指す名と、臣下が実際に行ったこと(形)を突き合わせることが国家の運営の核心であると見た。実際に行ったこと(形)と職名や言葉(名)を一致させる政治的な原理に集中しているのである。臣下は自らの職責に合った仕事をしなければならず、言葉と行いが食い違えば罰を受ける、という原則である。これによって、君主が臣下を評価する客観的な基準を設け、権力の主導権を君主が保てるようにした。術治の核心は、結局、官僚や臣下が公益を損ない私益を追い求めているかどうかを見て、それを正すことが最も重要であるという点にある。彼は、指導者が臣下を扱う刑名の術が、富国強兵を成し遂げる近道であると主張した。彼の術治の思想は、戦国時代を経て、中国と東洋における人事行政と官僚制の確立へとつながった。

申不害の哲学の核心は、臣下が絶え間ない私益の追求の誘惑を捨てて公益を追い求めるようにして、国を富み強くしようという哲学である。申不害は、臣下の言葉と行いの一致を強調し、制度的・行政的な管理によってそれを達成しようとし、臣下の行いを法と制度に従って評価して、功には賞を、過ちには罰を与えて、予測可能な秩序を打ち立てようとした。申不害の刑名の学は、司馬遷の『史記』で、黄老思想に根拠を置くと評価されている。490 法家と道家の思想を統合して、国を治めようとしたのである。

民族国家が成立し、それにともなう官僚制度や行政制度が整ったからといって、術治の役割が終わるわけではない。術治の核心的な要素は人性論に由来するものなので、人間の社会で制度によってなくなるのではなく、働きつづけることになる。術治は、私益と公益の衝突論にもとづく政治経済哲学を、東洋の文明に深く植えつけた。社会制度の発展の過程で、その重要性がむしろ増すのは、私益と公益を区別することがいっそう難しくなったからである。政治経済が重要になるにつれて、官僚だけでなくビジネスの貪欲を管理する責任が、政府と国民に与えられることになる。議会とビジネスの結びつきによって私益を追い求める場合が多くなるからである。

東洋の国々では、術治の文化が強く保たれている。術治を国家経営でとりわけ重んじた例として、シンガポールを挙げることができる。リー・クアンユー首相は、政権初期の1960年に、何よりも先に国家公務員が私益を追い求める行為を禁じる術治の措置を取った。彼は「汚職防止法」(Prevention of Corruption Act)を公布し、イギリスの植民地政府がすでに1952年に設けていた汚職調査局に、強力な捜査権を与えた。汚職調査局(貪汚調査局、Corrupt Practices Investigation Bureau)は、シンガポールの汚職防止の専門捜査機関である。シンガポールの首相直属の機関で、警察や検察より独立して活動する。公務員・企業・個人など社会全般の汚職行為を調べ、清廉な社会を保つ核心的な機関である。シンガポールは、世界で最も清廉な国となった。公務員に私益の追求を禁じながら、世界で最も高い水準の報酬を保障するやり方で、国家を成功裏に運営した。東洋の概念である術治に重きを置いて、国家が進むべき方向を定めて成功した事例である。

術治の概念は、東洋に限られたものではない。西洋で、公益と私益の収斂論の問題点を指摘しながら、この問題が国家の行政に及ぼす巨大な否定的影響力を指摘した指導者がいる。アイゼンハワー大統領は、1961年1月17日、大統領職を去るにあたって告別演説を行った。ここで彼は、軍産複合体の集団主義の行為が私益を追い求めながら、公益を追い求める国家の運営に大きな問題を起こすと、公に警告した。軍産複合体の行為は、集団主義が公益に背を向けて私益を追い求めることであり、それに対して政府が無力感を抱くようになる問題点を指摘していたのである。491 国防とビジネスの結合が、民主主義の制度と国民の自由を蝕みうると警告したのである。

これはまさに、東洋の文明の「公益と私益は衝突する」という哲学に従って術治で対処しなければならない現象が、西洋で起こっていることを指摘したものである。アダム・スミスらが提供した「公益と私益は収斂する」という哲学的な理論を信奉する西洋の政治経済の体系は、術治の問題について基本的に無防備な状態にある。そのため、集団主義の行為は西洋で広がりつづけている。2007年から2008年のグローバル金融危機や、2009年から2011年のユーロ危機は、単なる金融や経済の問題ではない。その底には、市場経済の思想と、市場経済を管理する体制としての民主主義についての、政治経済の次元の根源的で哲学的な問題が横たわっている。西洋は、大きな政府、多くの税、多くの法規、貧富の格差の拡大、そして借金をして広げる福祉を踏襲しつづけている。2007年から2008年の金融危機は、金融家、議会、そして行政府が一体となって自らの利益を追い求めた集団主義が、その原因である。アメリカは結局、こうした金融危機への解決策を示せず、弥縫策でやり過ごしてしまった。これは、2003年、危機の5年前に刊行されたベストセラー『資本家から資本主義を救え』(Saving Capitalism from the Capitalists)がすでに下していた結論である。「市場経済への最大の脅威は、社会主義への回帰ではない。真の脅威は、市場経済の体制のなかで私益を追い求めようとする集団主義から来る」。

術治の哲学は、東洋と西洋が巨大企業とメディアのあいだの癒着をどう処理しているかにも表れている。アメリカをはじめ西洋では、巨大企業がメディア企業を買い取り、活用することを自由に認めている。東洋では、巨大企業とメディア企業の統合を認めていない。この問題を、西洋が主張するように「言論統制、あるいは自由主義の毀損」と見るのか、それとも「集団主義の私益の追求の管理」と見るのか、よく見なければならない。東洋で後者を選んでいるのは、まさに術治の概念のためである。

軍産複合体は、軍と産業界のあいだの集団主義の利益の追求のために、メディアと世論の重要性を知り、それを活用しようとする強い欲求がますます大きくなる。アメリカの強大な巨大企業は、先を争ってメディア企業を買い取る。西洋でもこの問題に関心を持ちはじめた。バイデン大統領は、アイゼンハワー大統領の告別演説とよく似た告別演説を、2025年1月15日に行った。ここで彼は、巨大企業が競ってメディア企業を所有する状況が近年アメリカで起こっていることを指摘し、こうした巨大企業とメディア企業の癒着が驚くほど強い影響力を行使して、民主主義を脅かすほどになっていると指摘した。

政治経済の問題において、「ワシントン・コンセンサス」と「北京コンセンサス」を比べる分析もまた、こうした東洋と西洋の文明の異なる面を示していると見ることができる。一般に、前者は自由民主主義と経済発展のモデルを掲げ、後者は権威主義と経済発展のモデルを掲げている。こうしたモデルの比較は、いまの趨勢が西洋の自由主義の思想を基本としているので、西洋中心的になりうる。しかし、東洋と西洋の政治経済の発展モデルは、自由に集中して分析するよりも、自己保存の原則に集中しようという文明的な面を抱えている。私益と公益の衝突論と、私益と公益の収斂論が、その重要な観点となる。後者に従う西洋の政治経済思想において、術治の観点は重んじられない概念となる。しかし、官僚や行政家が公益を損ない私益を追い求めることを戒める術治は、社会の構造が複雑になるにつれて、ますます大きな問題となっている。

集団主義の行為は、民主主義の核心である政党にもそのまま当てはまって問題となる。民主主義では、国民が能力のある人を指導者として選び、こうした指導者が公益、すなわち国民のために働かなければならないという前提が守られることが重要である。しかし西洋の政治制度では、公益優先という前提が次第にぼやけつつある。問題の解決のために、西洋は、透明性の向上などの政治制度の改善や、市民がより多く政治に参加するよう促す方策などを試みている。彼らは、民主主義は発展しつづけるという考えを持っているので、問題を正すことができると考えているからである。

しかし、現在の軍産複合体、金融危機、議会が公益より私益を追い求める傾向などを考えれば、問題は単に体制の改善で解決できるものではない。体制以前に、避けることのできない人間の本性の問題に由来すると見なければならない。人間は、何をしようと結局は人間の本性に従うので、政治家もまた、結局は公益よりも自己保存(議会主義では再選)に引かれることになる。術治の概念の不在によって、西洋の政治経済と民主主義は、自らも気づかない根本的な問題に突き当たっている。結局、貧富の格差が広がりつづける状況を制御できない結果を招くことになる。西洋では、集団主義、すなわち金融家と議会、さらには行政府まで加わって、それぞれの集団が自らの利益を広げる傾向を追い求めていることに、大きな問題意識を感じていない。

西洋のほとんどの国は、GDPに対する国家債務があまりにも大きく、国の経済が耐えられない状況にある。このまま行けば、立ち遅れと衰退は火を見るより明らかなのに、西洋は、政治家も有権者も、それを正す決意や活力を示せずにいる。西洋の国々が政治経済の次元で抱えている問題の核心を指摘したものである。まさに西洋が示している先進国の罠である。492 これは、東洋の人性論が生み出した術治の概念の「不在」と直接結びついている。

術治と無為の思想 vs 自由放任

東洋は、西洋の法規中心の政治体制に従いながら、「術治」という概念を忘れているように見える。しかし、術治という言葉に直接の関心を向けたり引用したりしてはいなくても、その重要性はそのまま東洋の文化のなかに生きている。私益に対して公益を守らなければならないという術治の哲学は、物語や詩句を通じて、東洋の文化に深く根を下ろしている。背私向公、克己奉公、先公後私、先憂後楽、憑公営私などの警句や逸話が、尊ばれながら使われつづけている。493

術治の概念は、公益の保護として表れる。西洋の私益と公益の収斂論を唱える体制に対して、東洋は、私益と公益の衝突論という哲学を政治経済体制の出発点としている。術治の概念は、人間は、個人、集団、国家の指導者のいずれにおいても共通して見いだされる人間の本性の支配を受ける、という哲学にもとづいている。すなわち、すべての人間は、公益より私益を追い求めようとする傾向のある人間の本性を持って生まれた。したがって、こうした人間の本性には、放任ではなく管理が必要である。無為の思想が、術治が追い求める公益の管理の哲学を代表している。

無為の思想によれば、この世のあらゆる政党と特殊利益集団は、結局、集団主義的な利己心を追い求める傾向を見せるものと見なされる。彼らは結局、法が制限することを避けながら、自らの貪欲を最大限に伸ばすことを目的とする傾向を見せるようになる。結局、オルソン教授が卓越した洞察をもって指摘したとおり、すべての人間は、できるかぎり最大の収奪、すなわち高い税を取り立てようとする「定住型盗賊」の性質を本能として持っている。これは、国家主義の君主だけでなく、集団主義として表れる政党や巨大企業の貪欲にも当てはまるものである。こうした本能を抑える仕組みがあってこそ、個人の経済的な自律を守りながら公益を保つことができるのである。

東洋と西洋の政治経済体制で、なぜこうした異なる現象が生じたのだろうか。アダム・スミスが早くから集団主義の貪欲への警戒心を表していたのは事実だが、西洋の市場経済の思想は、アダム・スミスに見られるように、はじめから国家の貪欲から個人を解き放つ自由放任を主張することを骨子としていたという面で、集団主義の貪欲を十分に警戒するのは難しい状況であった。そのため、個人が集まった集団、すなわち特殊利益集団など集団主義の貪欲については、問題になるだろうという点を指摘しただけで、何の哲学的な問題も提起できずにいた。すなわち、国家主義の貪欲は悪く、個人主義の利己心はよいという自己撞着の二分法にとどまりながら、集団主義の貪欲は、ただ原則としてよい個人主義の利己心から一部逸脱した程度のものとして警戒しただけである。しかしいまや、経済の規模が大きくなり、グローバル化の現象が広がるにつれて、並みの国家とは比べものにならないほどの影響力を持つ超国家的な企業と超国家的な金融企業が生まれたのである。これら超国家的な企業の貪欲が市場経済に突きつける脅威は、かつての国家の貪欲よりも深刻なものとなってしまった。

西洋では、アダム・スミス以後、もともと個人の利己心を健全で肯定的なものと見ていたので、個人の利己心の延長である多国籍企業の貪欲については、根本的な問題として認識するよりも、対症療法、すなわち問題が起これば、それに応じた局部的な解決策だけを示すやり方で臨んできた。それが、アメリカを中心に発展してきた独占禁止法などである。ここには哲学的な問題が横たわっている。集団主義の貪欲は、21世紀初めに至って、二つの次元でその弊害があまりにも明白になり、もはや目を背けられないところまで来た。一つは経済における超国家的な企業の貪欲であり、もう一つは政治における政党の政権維持の貪欲である。前者は市場経済を脅かし、後者は民主主義を脅かしている。そして、その二つの貪欲は結びついている。コインの表と裏なのである。

西洋では、アダム・スミスの見えざる手の問題が、二極化によってますます大きくなる。人間の利己心が見えざる手によって公益を生み出すという理論に、問題が生じたのである。アダム・スミスは、見えざる手、すなわち利己心から公益が生み出されることを「自然の法則」と規定したかった。見張りがいなくても、おのずと私益と公益は収斂するという理論である。ところが、これとは逆に、もし利己心が公益ではなく二極化の拡大と結びつくなら、西洋の政治経済体制全体に問題が生じる。東洋の無為の思想が唱えるように私益と公益が衝突するのなら、私益が公益に結びつくようにすることは、指導者が責任を負わなければならない。ところが西洋の政治経済体制では、指導者は集団主義の力の前で無力であり、見張ることができない。まさに、見張りを誰が見張るのかという問題への答えがなくなるのである。

東洋は、国家主義への対処の方法が西洋の民主主義とは違っていた。民本主義に頼っている。東洋は、無為の思想にもとづいて、国家主義に対して法と倫理で対処している。しかし王は、実際には法の支配を受けていなかった。無為の思想が自由放任主義として西洋に取り入れられる18世紀にも変わらなかった。法の支配が足りなかったのである。民本主義の倫理に頼る東洋の思想は、17世紀までは、西洋の重商主義より有利な政治経済制度を持っていた。しかし一つの本質的な問題点を抱えている。すなわち、指導者について「見張りを誰が見張るのか」という問題が残っていた。指導者への牽制の仕組みが、倫理だけに頼っていたからである。この点では、東洋の倫理よりも西洋の法律の概念のほうが、政権交代の面で確かな結果をもたらした。

東洋は、指導者の交代の制度がないまま、世襲の指導者の能力に頼り、指導者が死ぬまで権力を保つ制度を守り、あまりにも指導者に頼ることになった。こうした制度は数千年続いた。そのため、倫理に頼る学者たちの抑制と均衡の概念は、世襲の指導者が無能な場合、その法を逸脱した横暴によって限界に突き当たることになる。東洋は20世紀に入って、法律による指導者の交代の制度を西洋から輸入し、民本主義に民主主義の哲学体系を結びつける試みをしている。東洋の大部分では、指導者の平和的な交代に成功しているように見える。倫理的には、紀元前4世紀にすでに孟子の易姓革命という概念が示されて、準備されていた面がある。彼は、君主が徳を失えば、もはや君主としての資格がないのだから、交代させなければならないと主張した。民が最も貴く、次が国家、君主は最も軽いと主張しながら、こうした易姓革命を正当化した。孟子は、民が根本であるという民本主義と、民のためにしてこそ国家が栄えるという為民の思想を強調した。

西洋は、法律によって平和的な指導者の交代の制度を解決した。西洋は、民主主義の制度によって指導者の交代を確立し、行政府、立法府、司法府が抑制と均衡によって導いていくという実験をしている。しかし法律的に、指導者ではなく、別の問題に突き当たっている。指導者ではなく集団主義が、これら三権分立の抑制と均衡の体制を壊す現象を起こしている。巨大企業のビジネスが立法府と結託しているからである。自由放任主義の放任のパターンは、国家主義の問題は解決したが、集団主義で問題が生じており、それには何の対策も示せずにいる。

無為の思想は、法治の行いを越える、人間の行いについての根源的な哲学的思考である。西洋の自由放任の思想とは次元を異にする。無為の思想は、道家の根本思想である。無為の思想は、経済において、自然の経済の行いと人間の経済の行いを区別している。自然の経済の行いは、均衡をなすことに集中する。生態系の原理である。しかし人間の経済の行いは、差を広げて、貧しい者はますます貧しく、富む者はますます富むようにする。自然の行いと人間の行いが異なる点を指摘しているのである。自然のなかにはない人間の貪欲が働くからである。

天の道は、余り有るを損じて足らざるを補う。人の道は則ち然らず、足らざるを損じて以て余り有るに奉ず。(『道徳経』第77章)

ここに、東洋と西洋が政治経済の面で根本的な違いを見せることになる。自然の経済の行いは、マンデヴィルが示したとおり、蜂の世界を含めて、あらゆる動物の世界を含む。ところが、人間が蜂の行いに従おうというのが、18世紀に西洋で流行していた哲学の基調であった。利己心の称賛がその基調である。自然の経済の行いを、人間の政治経済の行いにそのまま当てはめようというのである。ここで、西洋の「見えざる手」が役割を果たすことになる。人間も蜂と同じように個人の利己心に従えば、見えざる手によって公益がおのずと生み出される、というのである。

利己心は、見えざる手に導かれて、もともと意図していなかった目的を達成することができるようになる……国全体の利益を増大させるのである。(アダム・スミス『国富論』第4編第2章)

しかし東洋の文明から見れば、人間の本性は自然の経済の行いに従わない。人間の本性は、人間の経済の行いをつくっていく。動物の世界では、「貪欲のない利己心」が働く。だから生態系の原理が生まれる。しかし人間の世界では、ほかのどんな動物も持っていない「貪欲のある利己心」が働く。貪欲は、人間の経済において「略奪の手」となる。人間が存在する経済の分野では、至るところに、避けようもなく略奪の手が生まれる。西洋は国家主義にだけ力を注いだが、この略奪の手は、国家主義(statism)、集団主義(tribalism)、個人主義(individualism)の分野で公益を損なう手となる。西洋は、自由放任主義の思想を打ち立てた当時、重商主義という政府の激しい国家主義に立ち向かうために、国家主義にだけ力を注いだ。しかし略奪の手は人間の本性に内在しているものなので、政府の指導者という国家主義にだけ限られるものではない。集団主義にも個人主義にも、すべて当てはまるのである。

ここで、東洋の無為の思想は、西洋の自由放任主義と哲学を異にする。公益はすべての人の役に立つものだが、個人の貪欲という私益によってたやすく損なわれうるので、公益はとくに守られなければならない、というのが無為の思想の核心の一つである。人間の本性から推して、個人の利益は貪欲へと進みやすく、例外的に利他心へと進むことがある。したがって、社会の均衡のために、「倫理」によって、個人の利益を貪欲ではなく利他心へと導くよう努めなければならない。ここに、東洋の文明の中心となる倫理の文化が生まれる。東洋の文明が、「公益にかこつけた私益の追求を戒める術治」の概念を重んじる理由である。

4) 術治の核心:利潤の追求と貪欲はどう区別するのか

人間の経済活動において、利潤の追求と貪欲を区別しなければならない。公益を私益から守ろうという術治の哲学の核心は、まさに利潤の追求と貪欲の区別にある。しかし、法によってはそれを区別することができない。西洋は、経済の観点と倫理の観点を切り離す傾向が強い。しかし東洋では、二つの観点が融合主義(syncretism)によって深い関係を保っている。道家と儒家の哲学は、経済において倫理を重んじる「政治経済」的な性格が核心である。指導者、すなわち道家の聖人や儒家の君子は、倫理的に自らを立てなければ指導者になることができない。「君子は義に喩り、小人は利に喩る」(『論語』里仁4:16)。「道を理解した指導者は、貪欲から自由である」。こうした儒家と道家の倫理的な思考が、東洋の指導者の第一の徳目となる。西洋は、倫理を遠ざけた法によって経済を管理しようとする。しかし法の次元から見れば、問題がある。どこまでが利潤の追求で、どこからが貪欲になるのかは、法的に問うことのできない分野だからである。

利潤の追求は経済の核心である。荀子とアダム・スミスが力説したように、利己心は人間の経済活動の根本である。ロックは、それを「欲望のないところに勤勉もない」(Where there is no desire, there will be no industry)と表している。したがって、利己心と利潤の追求は正当化されなければならない。しかし、利己心が公益を損ない、貪欲へと発展するのは防がなければならない。問題はここにある。貪欲は管理されなければならない。利潤の追求を正当化することについては、西洋の自由放任主義がまともな役割を果たしている。しかし自由放任主義は、見張りがいないので、貪欲の犠牲へと転落することになる。

利潤の追求と貪欲を区別できない傾向は、倫理より法を重んじる西洋でしばしば生じる。西洋では、「強欲は善である」(Greed is good)という表現が登場する。ボウスキー(Boesky)というウォール街の投資家が、1986年のカリフォルニア大学バークレー校の卒業式の演説で用いた。彼は、強欲は健全であり、それを持っていてもあなたは善い人間だと感じることができる、と説明した。この表現は、1987年の映画『ウォール街』(Wall Street)でゴードン・ゲッコー(Gordon Gekko)という人物が口にした台詞にも使われて、有名になった。西洋では、強欲は個人の成功だけでなく経済の発展にも貢献すると主張されている。この表現は、1980年代以後、アメリカの金融資本主義の精神を代表する文句として定着した。

西洋で「強欲は善である」という表現は、強欲を美化するときにも批判するときにも引かれる象徴的な表現となった。強欲が経済の原動力と革新を促しうるという、自由市場の資本主義的な論理を含んでいる。個人の利益を追い求める強欲が、企業の成長、競争、効率を高めて社会全体の富を増やしうるという主張は、私益が公益を生み出すというアダム・スミスの「見えざる手」の理論や、「企業の社会的責任は利潤を最大にすることである」というミルトン・フリードマンの論理と軌を一にしている。強欲は、本来は過度の欲望であり、他人と社会に害を及ぼしうる。しかし同時に、人間の欲望は発展と達成の原動力となるので、こうした混乱が生じる。倫理より法だけに頼る西洋で、いっそう核心的な問題となるのである。

強欲は善であるという言葉は、資本主義の肯定的な面を強調するが、過度の強欲は、不平等、環境破壊、社会の不安定を招きうるという点で批判を受けている。しかし、強欲(greed)と利益の追求(profit-seeking)は、二つの概念ともに「より多くを望む」という欲望から出発するので、境界があいまいである。同じ行いでも、脈絡によって、強欲に見えることもあれば、正当な利益の追求に見えることもある。たとえば、企業の利潤の最大化は、経済学的には正常な活動だが、社会的な責任を無視すれば強欲として批判される。強欲と利益の追求の区別は絶対的ではなく、社会の規範と価値観によって変わる。すなわち、倫理の範疇に入るのである。

利潤の追求は、企業活動の本質として、正当な経済行為と認められる。企業は、株主と利害関係者のために利益を最大にすることが基本的な目的である。しかし、それが貪欲になれば防がなければならない。ところが貪欲は、倫理的・道徳的な概念であり、法律上の明確な定義がない。したがって、法廷で「貪欲である」という理由だけで処罰したり制裁したりするのは難しい。法は主に違法な行為(価格の談合、独占の濫用、詐欺、不公正な取引など)を規制するのであって、「貪欲」という動機を直接規制するのではない。法的には「貪欲」を別に規定することはできず、違法な結果が生じたときにだけ制裁が可能である。しかし社会的・倫理的な次元では、企業が単なる利潤の追求を越えた「貪欲」を見せるとき、批判と規制を求める声が大きくなる。倫理的な次元では、利潤の追求と貪欲の区別は可能である。企業が果てしない所有と支配の欲求を表して公益が損なわれるのは、貪欲の典型である。したがって貪欲は、法によっては、違法な結果が生じたときに事後的に処罰されることになる。それ以前には、人間の社会は「倫理」に頼ることになるのである。

法治を根幹とする西洋の文明では、法を人間の行いの最も重要な起点としている。西洋の影響を多く受けた韓国でも、「法治」を唱えることが流行のようになっている。しかし、法治に劣らず重要なのが倫理である。東洋の文明が倫理を法より重んじている点についての理解が必要である。それは、西洋の私益と公益の収斂論では、法によってすべてを解決できると見るからである。しかし東洋の私益と公益の衝突論では、倫理に重きを置いてこそ社会の秩序が保たれると見る。西洋は、人間の本性の利己心と利他心が表れる過程で、結局は利他心が「おのずと勝つ」と見るからであり、東洋は、強力な利己心を倫理と法律によって管理してこそ、弱い利他心が強力な利己心と「均衡」をなしうると見るからである。

東洋と西洋のこうした法と倫理の伝統は、絶対性のあるものではない。すなわち、自分のものが正しく他人のものは間違っているという絶対性を与えることはできない。それぞれの地域の地政学的な特性を反映したものと見るのが適切である。東アジアでは、指導者は「徳」と「道徳的な正当性」を備えた人物でなければならないという道家・儒家の理想が、倫理意識として現れた。富は私的な欲望と結びつき、公的なリーダーシップとは相容れないと考えられた。「富者が政治に参加すれば私益を追い求める」という認識があった。指導者の徳目として、君主は倹素と清廉を重んじ、過度の富はむしろ不信を招いた。富と人間の本性のあいだの関係は、司馬遷が『史記』で明らかにしている(『史記』貨殖列伝129:29)。「凡そ編戸の民、富相什すれば則ち之に卑下し、伯すれば則ち之を畏憚し、千なれば則ち役せられ、万なれば則ち僕たり。物の理なり」。西洋でも、「あらゆる富の陰には犯罪が潜んでいる」(Behind every fortune there is a crime)という言葉がよく口にされる。494

西洋では、征服の文化の地政学的な伝統によって、ギリシア・ローマの時代から、貴族と富裕層が政治権力を独占することが多かった。富はそのまま権力の基盤であった。中世以後も、封建領主、商業資本家、銀行家など富者の階層が政治的な影響力を行使することが、自然に受け入れられた。近代の民主主義の時代にも、資本主義の発展とともに、「富と権力は切り離されない」という現実が制度化された。西洋の場合、政治の指導者は、大規模な資産家や企業の後援に大きく頼っている。相互扶助の精神によって、指導者は彼らの利権を法で支える。政治経済哲学では、トリクルダウン効果を唱える理論が、富と権力の癒着を守ることになる。

東洋の倫理と西洋の法律が、東洋と西洋の政治経済体制の根幹である。しかし東洋は、倫理を前に立てたが、倫理と法律を適切な方法で同時に活用する体系を築いていく。荀子は、紀元前にすでに、人間の本性は「倫理と法律」によって管理してこそ社会の秩序が保たれると説いた。こうした東洋の融合主義(syncretism)は、倫理を掲げながら法律で補うという外儒内法や、無為を掲げながら法律でそれを補うという黄老思想として、東洋の文明に表れている。しかし西洋は、啓示宗教、形而上学、イデオロギーなどの影響によって法律にあまりにも頼り、倫理には、とりわけ政治経済の次元で、ほとんど何の関心も向けない。人間の社会には、法治主義では解決しがたい問題が多い。倫理が介在しなければならないのである。

孔子とイエスは、いずれも、問題を法に持ち込む前に、倫理による解決を優先した。二人の思想家はいずれも、法は最後の手段であり、人間の社会はまず倫理的な合意と道徳的な実践によって問題を解決しなければならないと見たわけである。「法の前に倫理」という思想は、法だけで社会を運営すれば強制と処罰だけが残り、人間の自発的な道徳性は消えてしまうからである。これは、問題をいっそう難しくする構造へと、社会全体を引きずっていくことになる。

政治経済の問題においては、利潤の追求は法で保障し、貪欲は倫理で抑えることになる。アダム・スミスの見えざる手の理論は、人間の経済活動を倫理から解き放つ役割を果たすことになる。貪欲はそのまま残る。見えざる手の理論は、結局、ビジネスと議会の結合によって二極化を招く。ビジネスと指導者が同じ船に乗っているからである。しかし東洋の略奪の手の理論では、指導者は、二極化を防がなければならないという倫理的な責任を最も大きな義務として持つことになる。すなわち、二極化よりも中間層の保護に力を注がなければならない。東洋の歴史のなかでも、王が二極化に加担して富を享受するようになるとき、その王朝は滅び、それに代わる新しい王朝が現れる。新しい王朝は、税を大幅に下げる措置によって、二極化を取り除くことに集中することから始めた。

人間の利己心の管理は、東洋の略奪の手と西洋の見えざる手という東洋と西洋の二つの哲学体系のうち、どちらの哲学が中間層を生み出し守るのかによって、その有効性が証明される。国の経済がどれほど大きくなっても、貧富の格差が広がりつづければ、そうした国はきちんと働くことができない。必ず中間層が丈夫であってこそ、国家はきちんと効率を発揮することができる。ところが西洋の政治経済は、富者をさらに富ませることに慣れている。見えざる手は、個人主義にもとづいて富者をつくり、その富者が生み出す経済活動がトリクルダウン効果などによって中間層を生む、という論理である。はたしてそうだろうか。

西洋の価値は、哲学的に個人を基礎としている。西洋の人々にとっては、ほかの人との関係よりも、宗教、形而上学的な真理、法律などが優先権を持つ。しかし、こうした仕組みには、内在する価値も重要だが、同時に、こうした仕組みを利用してほかの人を支配し、自らを大きくしようという欲望が働きうるという点に注意しなければならない。政治経済学的に分析すれば、西洋の議会が制定する多くの法は、多くの長所を掲げはするが、同時に集団主義の富を育てながら、貧富の格差を広げる結果にも帰着する。富者はますます富み、中間層は減り、弱くなる。

西洋の政治経済は、哲学的な面では、個人主義の利己心について思想的に無防備な状態にあると見ることができる。個人の利己心を放任する方向へ、市場経済の方向が定められているからである。その理由は、何度か見てきたように、アダム・スミスの市場経済の哲学によって個人の利己心は放任され、それについて何の倫理的な処方も下されていないからである。もちろんキリスト教では、人間の本性を原罪の意識として問題にしており、福音書でははっきりと物質的な富を戒め、倫理の次元で問題にしている。しかし、西洋の近現代の政治経済思想家の大半は、倫理は政治経済思想や個人主義の利己心とは関係がないと見たようである。彼らは、アダム・スミスがそうであったように、性善論という人間の本性から出発しているからである。

一方、東洋の儒家と道家では、人間の本性と利己心についての、倫理の次元での戒めと管理を核心としている。利己心について、西洋の政治経済思想の放任ないし促進の立場と、東洋の政治経済思想の戒めないし管理の立場は、はっきりと違っている。人間の本性のなかで最も強力なのが利己心である。指導者は、こうした利己心の要をつかまなければならない。「常に無欲にして以て其の妙を観、常に有欲にして以て其の徼を観る」(『道徳経』第1章)。荀子は、人間の本性への戒めを通じて、指導者と民に、社会の秩序を保つ出発点を明らかにしている。「今人の性、生まれながらにして利を好むこと有り。是に順う、故に争奪生じて辞譲亡ぶ。生まれながらにして疾悪すること有り。是に順う、故に残賊生じて忠信亡ぶ」(『荀子』性悪23:1)。荀子はとりわけ、利己心の放任が社会を乱す結果を招くことを明らかにしている。「然らば則ち人の性に従い、人の情に順えば、必ず争奪に出で、犯分乱理に合して、暴に帰す」(『荀子』性悪23:1)。

西洋では、個人主義の利己心を倫理で律しないので、「法で禁じられていないことはすべて正当に許されている」という論理が当てはめられる。その結果、西洋の市場経済で、個人主義の利己心はいっそう活発に働くことになる。儒家の思想全体は、人間が社会生活を営むのに必要な倫理についての説明と、それを体得するための自己修養であると見ることができ、道家の場合も、繰り返し倫理と道徳の重要性を強調している。こうしたわけで、東洋と西洋の文明は、人間の本性について互いにまったく異なる処方を想定している。とりわけ政治経済にかかわって、西洋の思想では、法に頼りながら倫理が基本的に排除されているが、道家と儒家を根幹とする東洋の思想では、法より倫理が核心をなしている。『論語』は、まさに倫理が法より先に保たれなければならないと説明している。「之を道くに政を以てし、之を斉うるに刑を以てすれば、民免れて恥ずること無し。之を道くに徳を以てし、之を斉うるに礼を以てすれば、恥ずること有りて且つ格る」(『論語』為政2:3)。

西洋では、いまも政治経済を論じるとき、法律に集中している。倫理は、ほとんどの場合除かれている。一方、東洋では、勤倹、節約、無欲のような倫理が政治経済の核心として根を下ろしている。東洋の政治経済の労働倫理は、利己心への戒めから来る。人間は社会生活において、教育と自己修養を通じて勤倹節約を追い求めなければならず、利己心が表れるなかで、貪欲よりも同情心と謙譲を体得しなければならないのである。「是を以て聖人は、欲せざるを欲し、得難きの貨を貴ばず」(『道徳経』第64章)。こうした指導者にとって、「人を治め天に事うるは、嗇に若くは莫し。夫れ唯だ嗇、是を早服と謂う」(『道徳経』第59章)。人に接するとき、指導者は三つのことを重んじる。「我に三宝有り、持して之を保つ。一に曰く慈、二に曰く倹、三に曰く敢えて天下の先と為らず」(『道徳経』第67章)。道家では、指導者の率先垂範を最も重んじる。指導者が富を享受し、富を誇りにすれば、その国の国民は勤倹節約の精神を捨てるようになる。

人間の本性と勤倹節約の倫理文化

東洋の倫理を中心とする文明は、偶然に生まれたものではない。また、何かの政策的な決定や決断でつくり出せるものでもない。歴史と伝統のなかに染み込んでいるものである。東洋と西洋の違いは、哲学的な思考における東洋の関係主義と西洋の個人主義という概念の違いに由来する。強力な利己心と弱い利他心を持って生まれる人間の本性においては、勤倹節約という倫理の文化を前に立ててこそ、社会の秩序が保たれる。東洋の倫理の文化は、西洋とは異なる哲学的な背景を持っている。マックス・ヴェーバー(1864―1920)は、1904年に刊行したその著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(The Protestant Ethic and the Spirit of Capitalism)で、プロテスタントの労働倫理を説明した。彼は、プロテスタントの労働倫理を、資本主義の精神的な支柱として高く評価した。しかしヴェーバーの労働倫理は、その根源において、東洋の労働倫理と大きく異なっている。

プロテスタントの労働倫理は、16世紀の西洋の宗教改革以後に生まれたプロテスタントたちの「勤倹節約の態度」が、天国へ行くための資格要件として、神の恵み(grace)を受けたしるしとして個人に表れると信じられたことにある。そのため、誰もが宗教的な情熱によって、「勤倹節約する姿勢」を持つようになったのである。495 そして、こうした勤倹節約の精神が資本の蓄積と投資の増進へとつながって、西洋の資本主義を可能にしたという主張である。こうした考えは、中世から近世まで続いてきた西洋の終末論とかなりの関係があるように見える。恵みを受けた者だけが、地球の終末が来てイエスの再臨がなされるときに救われると信じていたので、懸命に働くしるしを示そうとした可能性が大きい。

ところがいまでは、西洋でも宗教的な地球の終末を真剣に信じる人は多くない。そうなると、清教徒の労働倫理は消えることになる。懸命に働く人が神の恵みを受けて天国へ行けるという根拠がなくなるからである。時期的に、こうした変化は、アダム・スミスを泰斗とする近代経済学の利己心の放任と時を同じくして起こったので、東洋とは違って、西洋では「楽しみを、できるときにすぐ味わい尽くす」(instant gratification)姿勢が、消費文化とともに生まれることになった。ファーガソン(Niall Ferguson)は、2011年の著書『文明:西洋が覇権をとれた6つの真因』(Civilization: The West and the Rest)で、まさに西洋における勤労意識と宗教心の相関関係を説明している。すなわち、ヨーロッパはアメリカよりはるかに勤労意識が弱く、ヨーロッパ人はアメリカ人より宗教心も弱いという結論を導き出している。すなわち、アメリカ人はヨーロッパ人より約20%多く働くが、教会への出席率も、ヨーロッパ人が10%ほどであるのに対し、アメリカ人は36%に達するという統計を示している。496

一方、東洋の儒教的労働倫理は、自分のために行うものなので、宗教的な理論の変化や地球の終末論の運命とはかかわりなく、内なる必要によって実行されるものであるから、堅固な基盤を持っていると見ることができる。『エコノミスト』誌は、アジアの価値として、「教育、勤勉、節約、そして未来のより大きな成就のためにいまの楽しみを先送りする姿勢」を挙げている。497 ファーガソンも先に説明した本で、ヨーロッパ人、アメリカ人、東洋人のなかで、アメリカを基準とすると、ヨーロッパ人はアメリカ人より20%ほど少なく、東洋人は30%ほど多く働いているとして、東洋の勤労意識が最も強いと記している。

労働倫理のなかで、政治経済に最も直接的な影響を及ぼしているのは勤倹節約である。すなわち、どれほど懸命に働き、どれほど多く貯蓄するかということである。この点で、東洋の勤労意識は、個人、部族、国家のいずれにも当てはまり、西洋と比べるときわめて高い投資率と貯蓄率を見せている。ファーガソンは、その本で、西洋の国家債務がきわめて高いこととその問題点を比べている。アメリカの経済記者であり著述家であるブルースタイン(Paul Blustein)は、外国の品物をアメリカがいくらでも刷れるドルで買いつづけており、それがそのままアメリカの負債として積み上がっていることを指摘している。498 ファーガソンは、アメリカの負債が、2001年にはGDP比32%だったが、2011年には66%に急増し、いまの増加の勢いが続けば、2021年には90%、2031年には150%、2047年には300%に増えるだろうと見通した。アメリカの場合に問題がいっそう深刻なのは、こうした莫大な国家債務に、約100兆ドルに達する医療保険と社会保障の費用、そして年金の負債が含まれていないためであり、アメリカの国家財政はきわめて深刻である。ギリシアが難局に突き当たったときよりも悪い状態にあると診断している。499

財政収支の赤字と貿易収支の赤字が同時に起こる、いわゆる双子の赤字(twin deficit)は、その国に耐えがたい経済危機を引き起こす。アメリカのように基軸通貨を持っている国だけが例外となる。お金を刷りつづけることができるからである。これが、アメリカが双子の赤字を続けながらも国力を保っている理由となる。いつまでこうした状態が続きうるのだろうか。

啓蒙の時代に、西洋の思想家たちが最も不思議に思い、理解しがたかったのは、東洋の文明が神の概念なしに立派な倫理体系を備えていることであった。個人主義の利己心について、西洋の放任主義は西洋の消費と負債の文化を生み、個人主義の利己心についての東洋の管理と自制の思想は、東洋の勤倹節約の文化を生んだ。東洋は、その文明の基底である倫理の面で、西洋の政治経済体制よりもファンダメンタルズの面で強みを持っている。それは勤労倫理の意識として表れる。西洋より東洋が根源的に強い競争力と明るい未来を持っているのは、まさにこの勤労倫理の意識による。政治経済において倫理が重要な理由である。勤倹節約や率先垂範は、法で定めることができない。倫理の管轄なのである。

こうした労働倫理は、根が深い。先に見たフランスの重農主義の思想家の一人であるポワーヴル(Poivre)は、18世紀半ばに東洋を旅して、東洋の労働倫理について次のように記している。

怠け者は、きわめて厳しい軽蔑の対象であった。怠け者は、社会の一員でありながら、寄生虫のように社会を蝕む一員として扱われた。政府も、こうした怠け者をそのままにはしておかなかった……伝統的に、すべての人が働くことになっており、国の片隅で働かない人がいれば、国のもう片隅で、そのために飢え、被害を受ける人が生まれる、という考えが、民のあいだに深く広く行き渡っていた。500

ポワーヴルが18世紀に東洋で見いだして感嘆した根深い労働倫理は、倫理に重点を置いた東洋の教育、節制、自己修養を重んじる。そのため東洋では、教育の重要性が早くから強調されてきた。孔子は、「性、相近し。習えば、相遠し」、そして「教え有りて類無し」と強調している。人間の本性にもとづく東洋の教育は、勤倹節約の倫理文化と指導者の育成に力を注いでいる。

東洋の精神文化、すなわち儒教(教育の重視と実力主義の伝統、普遍的な倫理と勤倹節約の文化)、道家(少ない税と小さな政府の政治経済思想、自然と人間の調和)、仏教(慈悲の思想、無所有の重視)などに内在する価値体系は、西洋の哲学がおろそかにしている倫理的な価値を核心としている。それは、一言で言えば勤倹節約である。教育によって強調される勤労意識は、法律ではなく倫理の問題である。倫理が唱える部分こそが、貪欲への戒めである。利潤の追求と貪欲の区別には、倫理によって迫ることができる。そして、そうした倫理意識は、指導者が手本を示さなければ、社会に根づくことができない。

指導者の率先垂範:君子と聖人の思想

東洋の文明は、指導者をどのように育て、国を治めさせるかに力を注いでいる。道家の聖人の思想は、儒家の君子の思想と似ている。儒家の君子の思想は、道徳的な修養と社会的な責任を果たす道徳的な人間像を強調し、道家の聖人の思想は、自然と一体となって無為自然を実現する理想的な人間像を示す面がある。しかし、いずれも指導者を指している。東洋の思想では、儒家の君子と小人、道家の聖人と民の比較によって、小人や一般の民、すなわち大衆に従うのではなく、君子や聖人に従うようにする指導者の役割を強調している。政治経済の面で指導者の倫理的な役割を重んじる面は、東洋の教育でとりわけ重要である。

指導者の倫理的な役割は、指導者と小人を対比する関係主義(relationalism)の体系で、とりわけ強調される部分である。西洋は、教育や人間の修養において、個人主義(individualism)に従って個人的な完成を強調している。古代ギリシアでも、プラトンやアリストテレスに見られるように教育の重要性が強調されているが、教育は、個人の知識の習得と幸福の追求などに重点を置いた。アリストテレスの倫理学では、正義、勇気、節制、寛大さ、中庸の教説などの徳目を強調してはいるが、こうした倫理的な価値が個人の幸福をどのようにもたらすかを論理的に説明したものであって、そうした倫理的な価値がどのように教育によって涵養され、社会に貢献しうるのかに重点を置いたものではない。17世紀に西洋で刊行されたスピノザの『エチカ』もまた、儒家の『論語』や道家の『道徳経』のように勤倹節約と社会への奉仕に重点を置いた個人の徳性の涵養と教育に目的があったというよりも、神の本質や人間の本性の探究を通じた「自由人」(free man)を目標としている。一方、東洋の哲学体系は、物事の「本質」を明らかにすることではなく、「実践」にその目的を置いている。よい指導者をつくることに力を注いでいるのである。

之を聞かざるは之を聞くに若かず、之を聞くは之を見るに若かず、之を見るは之を知るに若かず、之を知るは之を行うに若かず。学は之を行うに至りて止む。(『荀子』儒效8:9)

一人ひとりの徳性の涵養という教育に重点を置いた思想は、西洋ではロックによって始まる。紀元前5世紀に打ち立てられたこうした東洋の教育哲学は、西洋では二千年後にロック(1632―1704)によってはじめて表される。「我々が出会うすべての人間は、善いか悪いか、社会に役立つか役立たないかであるが、その9割は教育によって決まる」。また彼は、孔子のように、「すべての人間は平等に生まれた」と信じた。501 しかし、東洋の教育哲学とロックの教育哲学には、重要な違いがある。彼は西洋の思想家として、西洋の哲学に縛られて本能の重要性を過小評価したところに、その人性論の限界が表れる。ロックの教育が本能の役割を認めていない面が問題となる。人間は平等であり、教育は重要だが、人性論において精神の可能性を過大評価し、精神が本能の限界を越えると評価した面がそれである。ロックが重んじた自由のような価値は、自己保存の本能の上に立つことはできないからである。人間にとって、精神が与える自由はきわめて重要である。しかし、自由が生存という本能の原則を越えることはできないのである。

東洋の文明では、利己心を倫理の次元で管理し戒めようというのである。結局、法や規定では解決できない貪欲と利潤の追求の境界を、倫理的に解決して示した答えこそが、東洋の君子の思想と無為の思想の本質である。東洋の文明は、こうしたきわめて有用な概念を2500年前に打ち立てて用いている。君子こそが望ましい指導者像であり、国民の利益を自らの利益へと昇華させる指導者をいい、個人的な利己心から解き放たれた人である。一方、小人は大部分の人間を指すものであり、自分の立場がどこにあろうと、自らの利己心を先に立てる人である。指導者としては不適格な人だが、歴史は、多くの場合、小人が指導的な地位にいたことを示している。東洋の君子、聖人として描かれる倫理的な指導者像は、現代の政治経済に大きな貢献をすることができる。指導者の最善の徳目は、財産ではなく倫理となるのである。

君子は義に喩り、小人は利に喩る。(『論語』里仁4:16)

君子は徳を懐い、小人は土を懐う。(『論語』里仁4:11)

君子の思想と無為の思想は結びついている。人間の行いのなかの人為的な部分を最小にしようとする政治経済哲学を、東洋の文明に植えつけた。とりわけ、指導者の干渉について警告している。『道徳経』の「聖人は常の心無く、百姓の心を以て心と為す」(『道徳経』第49章)という主張は、指導者の利己心を管理する目的を持っている。したがって、「我無為にして、民自ら化す」(『道徳経』第57章)という主張は、まさに国家主義という利己心の管理となる。これは、司馬遷が『史記』で、「故に善き者は之に因り、其の次は之を利道し、其の次は之を教誨し、其の次は之を整斉し、最も下なる者は之と争う」(『史記』貨殖列伝129:1)と主張していることと軌を一にしている。いずれも紀元前に東洋の政治経済思想として根を下ろした哲学であり、西洋では、こうした政治経済哲学が、東洋より二千年を経て、近世にはじめて現れるのである。

東洋と西洋を問わず、政治経済に内在する最大のジレンマは、利益の追求と貪欲の区別である。利益の追求は、市場経済の原動力である。それがなければ市場経済は成り立たない。同時に、公共の利益を妨げる利己心ないし貪欲は、はっきりと管理されなければならない。ところが、両者のあいだの境界を明確にすることは不可能である。とりわけ、法や規定でそれを律することはできない。そこで、この分野に倫理の役割が介在するのである。重要なのは、指導者の率先垂範である。どれほど法がよくても、指導者がそれをあの手この手で破れば、法は何の役にも立たない。指導者にとって最も目につくのが、富の蓄積である。富者は指導者になりにくく、指導者は富者になりにくい、という倫理的な原則がなければならない。法はあの手この手で迂回することができるが、財産は必ず表に出てきて、倫理的に説明できなくなるのである。

利己心の管理という次元で、道家は指導者の役割が重要であることを強調している。指導者が利他心を国家運営の基底としてこそ、国家は保たれ発展しうることを説明している。倫理は、啓発された利己心となるのである。

聖人は積まず。既く以て人の為にして己愈々有し、

既く以て人に与えて己愈々多し。(『道徳経』第81章)

儒家と道家はいずれも、倫理と政治を不可分の一つと見ており、倫理的な理想像を君子、聖人として描いているが、これを21世紀に当てはめれば、君子や聖人こそが望ましい指導者となる。指導者は、財産ではなく、勤倹節約の上に打ち立てた率先垂範を優先しなければならない。「君子は道を謀りて食を謀らず」(『論語』衛霊公15:32)。したがって指導者は、自らの財産を蓄えず、他人のために自らの能力を分け与えることに力を注ぐ。「聖人は積まず。既く以て人の為にして己愈々有し、既く以て人に与えて己愈々多し」(『道徳経』第81章)。

このように、東洋の指導者には、成功や勝利の前に、倫理的な基準が重要となる。東洋では、関係主義が西洋の文明の個人主義に代わって働く文明をかたちづくっている。指導者は、利他心(啓発された利己心、enlightened self-interest)とともに、率先垂範と清廉を基準とすることになる。西洋にも、こうした指導者像がないわけではない。

彼が死んだとき、持っていた全財産は、彼が住んでいた家一軒だけであった……1953年に公職を離れたとき、彼の収入は、月112ドルにあたる軍の年金だけであった。大企業から高給の職を提案されたとき、彼は「あなた方が求めているのは私ではなく大統領という肩書きであり、それは私のものではなく国民のものだから、私が売れるものではない」と答えた。502

これこそがトルーマン(Truman)大統領の倫理観である。こうした精神は、西洋でも大いに尊敬されている。ローマ時代の模範的な政治家であり市民として崇められるキンキナトゥス(Cincinnatus)こそ、そうした人物である。ローマで最高の権力を持って仕えたのち、職を離れると故郷に帰り、平凡な農民として残りの生涯を送った。権力を貪らず公益のために献身したローマの伝説的な人物として、アメリカの初代大統領ワシントンが尊敬した人物である。1790年には、正式にシンシナティ(Cincinnati)という都市もアメリカにつくられた。しかし、こうした清廉で勤倹節約する指導者像は、西洋の一般的な指導者像ではない。アレクサンドロスからカエサルに至るまで、近世の王朝からナポレオンに至るまで、西洋の古代の指導者たちは、勝利者であり征服者であると同時に、莫大な富を持っていた。こうした指導者像にならって、現代の西洋の指導者たちは豊かである。しかし孟子が指摘したように、指導者が豊かで利益を追い求めれば、その下の補佐たち、さらには国民全体がその指導者にならって利益を追い求め、豊かになろうとする。結局、こうした指導者像に従って、すべての国民が倫理的な理想の追求よりも「富と名声」(Wealth and Fame)を望むようになるのである。

東洋では、いまなお国民は勤倹節約を徳目としており、指導者が清廉で、引退後も豊かではない静かな暮らしを送ることがモデルとされている。そして、いまのところ、こうした哲学が実際に広く残っている。東洋では、富者は政治をしにくく、富者がメディアを握ることもできない。アメリカで、マスク、ベゾス、マードック、エリソンのような一流の富者が主要なメディアを所有し、広げているのとは対照的である。「メディアを握る者が世界を支配する」という評価が出てくる背景である。

利潤の追求と貪欲は、東洋の政治経済思想では、倫理によって枠が生まれる。巨大企業がメディア企業を握ることは、東洋では自律に背く貪欲であり、西洋では自由を謳歌する利益の追求である。富者が指導者になることや指導者が富者になることは、東洋では無為を外れて自律に背くことであり、西洋では自由を追い求める自由放任である。こうした区別は、西洋の有為の思想体系では、法で律することのできない範囲である。東洋の無為の思想体系では、倫理の核心なのである。

国民の勤倹節約の精神と、指導者の清貧と率先垂範の伝統、それを守っていかなければならない。この点で、東洋の政治経済は個人主義の利己心に効果的に対応することができ、まさにこの点こそが、市場経済のファンダメンタルズにおいて、西洋と対比して東洋の優位を守ることのできる点である。思想的に見れば、西洋の政治経済のパターンに内在する利己心の放任は、消費と債務の経済体制と、東洋の政治経済のファンダメンタルズに内在する利己心の管理は、勤倹節約の経済体制と、それぞれコインの表と裏をなしている。どんな社会でも、すべての人が富者になることはできない。しかし社会は、協力して貧しい者を助けることができる。そのように協力する社会では、指導者が必ず公益を守り、勤倹節約を率先垂範しなければならない。これが関係主義である。

西洋の経済は、個人主義にもとづいて、富者が生まれればトリクルダウン効果によって貧富の格差は解消されるという論理を展開している。すなわち、上位の階層(富裕層、大企業など)に恩恵や資源が集中すれば、それが投資・消費・雇用を通じて結局は下位の階層(庶民、中小企業など)にも流れ落ちて、経済全体が成長するという理論である。ところがこれは、ギリシア・ローマの時代から近世の世界征服の時代まで、西洋の経済を長く支えてきた「征服国家」の経済では説明が可能な理論である。しかし、西洋そのものが近世に至って「民族国家」の経済体制へと転じてからは、説明のつかない理論である。上位の階層への支援は集団主義に通じ、結局は中間層を痩せさせ、上位の階層と下位の階層のあいだの貧富の格差を広げるだけなのである。

勤倹節約という政治倫理と政治経済のパターンは、東洋の文明に深く広く内在している。とりわけ、指導者の率先垂範という伝統は、関係主義にもとづく哲学体系として、西洋よりはるかに健全で堅固であると見ることができる。しかし東洋が、個人主義にもとづく西洋の制度と規範を学びながら、固有の勤倹節約の文化と伝統を捨ててしまえば、勤倹節約の国から、消費と債務の国々の群れへと移ることになるだろう。そのとき東洋は、勤倹節約の労働倫理とともに、未来も失うことになる。逆に、東洋が西洋の民主主義の市場経済の制度を学びながら、自らの勤倹節約の精神と、教育と実力主義を重んじる伝統を守っていくことができれば、未来に掲げることのできる政治経済の文化体系を持つことになる。さらに東洋は、人類が直面している二極化とAI革命という激動の時代を、よりよく管理していくことに貢献することになるだろう。

注

  1. 459
  2. 460
  3. 461

    How Western civilisation could collapse, BBC, 18 April 2017

    ↩
  4. 462

    Ibid.,

    ↩
  5. 463

    Lawrence Harrison and Samuel Huntington, eds., Culture Matters: How Values Shape Human Progress, Basic Books, 2000, New York, Introduction 28

    ↩
  6. 464

    Ibid, Introduction 18

    ↩
  7. 465

    Ibid, Introduction 17

    ↩
  8. 466

    Ibid, Introduction 17

    ↩
  9. 467

    Harrison, Lawrence E.; Clark, Gregory; Boettke, Peter J.; Robinson, James A. (2007-01-08). How Much Does Culture Matter? (Cato Unbound) (Kindle Locations 132-137). Cato Institute. Kindle Edition.

    ↩
  10. 468

    Harrison, Lawrence E.; Clark, Gregory; Boettke, Peter J.; Robinson, James A. (2007-01-08). How Much Does Culture Matter? (Cato Unbound), Op.cit., Kindle Locations 132-137

    ↩
  11. 469

    The Economist August 20th, 2011

    ↩
  12. 470

    Harrison, Kindle Locations 137-143

    ↩
  13. 471

    Harrison, Kindle Locations 117-119

    ↩
  14. 472

    Harrison, Kindle Locations 137-143

    ↩
  15. 473

    Allison, Graham. Lee Kuan Yew: The Grand Master's Insights on China, the United States, and the World (Belfer Center Studies in International Security) (pp. 123-124). The MIT Press. Kindle Edition.

    ↩
  16. 474

    Ibid

    ↩
  17. 475

    George Whatley and Benjamin Franklin, Principles of Trade, March 1777, in The Works of Benjamin Franklin vol., II. By Jared Sparks, Boston, Hilliard, Gray and Company, 1840, p.401

    ↩
  18. 476

    Smith, Adam (2002-06-01). An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations (p. 321). Public Domain Books. Kindle Edition.

    ↩
  19. 477

    Smith, Adam (2002-06-01). An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations, Op.cit., pp. 84-85

    ↩
  20. 478

    Ibid

    ↩
  21. 479

    Mancur Olson, “Dictatorship, Democracy, and Development,” The American Political Science Review 87 (Sept. 1993), pp.574–575

    ↩
  22. 480

    Ibid.

    ↩
  23. 481
  24. 482

    Rajan, Raghuram; Zingales, Luigi (2003-02-18). Saving Capitalism from the Capitalists: How Open Financial Markets Challenge the Establishment and Spread Prosperity to Rich and Poor Alike (p. 68). Crown Publishing Group. Kindle Edition.

    ↩
  25. 483

    Rajan, Raghuram; Zingales, Luigi (2003-02-18). Saving Capitalism from the Capitalists: How Open Financial Markets Challenge the Establishment and Spread Prosperity to Rich and Poor Alike. Op.cit., p 276

    ↩
  26. 484

    Ibid. 1, p.44

    ↩
  27. 485

    「見張りを誰が見張るのか」という命題は、ローマの詩人ユウェナリス(Juvenal)がその諷刺詩で提起した疑問である。はじめは、妻の身持ちを守るために見張りを置いても、その見張りを誰が見張るのかという諷刺として始まったが、次第に政治的な意味で多く用いられるようになった。

    ↩
  28. 486
  29. 487

    君子は周して比せず、小人は比して周せず(君子周而不比、小人比而不周)。

    ↩
  30. 488

    Rajan et al, Ibid, 311

    ↩
  31. 489

    Rajan et al, Ibid, 311-312

    ↩
  32. 490

    黄老思想は、古代中国の戦国時代と漢の初期に大いに流行した政治的・哲学的な思想である。黄は、伝説上の聖君である黄帝を指す。老は、道家の創始者として知られる老子を意味する。黄老思想とは、黄帝の政治的な知恵と老子の道家的な哲学を結びつけた思想を意味する。黄帝の徳治と老子の無為の思想が結びついた形であり、道家と法家を融合させた統治術である。老子の無為にして治まる(無為而治)に従って、君主は自らの意図を隠し、何もしていないように見えるが、臣下たちが自ら進んで働くようにする。同時に評価においては、指導者である黄帝の徳治に従って、名実相伴うよう、法で実践を補おうとしたのである。無為而治と名実相伴を追い求める黄老思想は、道家と法家を融合させている。こうした融合論は、東洋の政治術の核心である。漢で儒教が重要になるにつれて、儒教の倫理と法を融合させながら国を治める体制がつくり出される。外には倫理を掲げ、内では法で補強する、儒家と法家の外儒内法の体制がそれである。

    ↩
  33. 491

    アイゼンハワー大統領は、1960年5月16日のソ連のフルシチョフ第一書記との首脳会談で、軍産複合体が国家元首に及ぼす否定的な影響について協議し、核兵器を制御する方策を話し合おうとした。しかし、会談の直前の1960年5月1日に、ソ連がアメリカのスパイ機U2を撃墜し、アメリカの操縦士を捕らえた事件のために、この機会を逃すことになる。

    ↩
  34. 492

    世界は、これまで民主主義の市場経済を発展させながら、西洋をベンチマークとしてきた。ところが西洋は、民主主義の市場経済を運営するなかで罠に陥っている。「貧富の格差の拡大」と「借金をしてまで行う福祉の踏襲」を続けながら、限界に突き当たっているのである。まさに「先進国の罠」である。先進国であり続けるには、単に西洋を踏襲することで先進国の罠に陥ってはならない。これにかかわって、西洋式の市場経済と民主主義のモデルも、深刻な難局に突き当たっている。西洋は、民主主義についての政治経済の次元の根源的で哲学的な問題と闘っている。西洋は、福祉の問題、社会の均衡の問題において、それを切り抜けていく思想の貧困と哲学の不在によって、暗い未来を感じているのである。政治経済的なポピュリズム、すなわち「先進国の罠」がその源であり、西洋が経験している金融危機とユーロ危機の本質である。西洋が陥った罠、すなわち大きな政府、多くの税、多くの法規、貧富の格差の拡大、そして借金をして広げる福祉を踏襲すれば、西洋が陥った先進国の罠は避けられない。我々は、20世紀後半に世界の経済はみな西洋式に発展していけるという前提のもとで、いわゆる「中進国の罠」という概念になじんでいる。しかし21世紀に入って我々に迫った本当に重要な問題は、中進国の罠ではなく、先進国の罠なのである。

    ↩
  35. 493

    術治の哲学が生きているのは、『易経』が古典として扱われて忘れられたように見えながらも、『易経』が基礎とする変化論が東洋の哲学の基調をなしているのと、同じパターンに従っている。変化論という哲学の基調は、融合論によって道家と儒教に吸収されながら、その哲学体系のなかに深く反映されて、そのまま生きている。道家の無為の思想や儒教の倫理思想も、それらへの直接の引用は、現在は西洋の文明の影響力が強いために、以前より少ないように見えるが、それらが東洋の文明の核心として根を下ろしていることに変わりはない。

    ↩
  36. 494

    「あらゆる富の陰には犯罪が潜んでいる」(Behind every fortune there is a crime)は、西洋でよく口にされる。バルザックの言葉として知られているが、彼の著作では直接確かめられておらず、マリオ・プーゾの『ゴッドファーザー』の巻頭に引かれて世界的に有名になった。巨大な財産は、単なる努力や偶然だけでは積み上がらず、その過程に不法・非倫理的な行為が介在した可能性が大きい、という主張である。社会的な脈絡から見れば、資本主義の社会で富の蓄積の過程が、しばしば搾取、権力の濫用、不法な取引と絡み合っているという批判的な見方を反映している。哲学的な含意としては、道徳と富の関係において「正当な富」という概念に疑問を投げかけながら、富の蓄積の過程についての批判的な省察を促している。

    ↩
  37. 495

    Weber, Max (2002-04-30). The Protestant Ethic and the Spirit of Capitalism: and Other Writings (Penguin Twentieth-Century Classics) (p. 301 and location 647 0f 9560). Penguin Group US. Kindle Edition.

    ↩
  38. 496

    Ferguson, Niall (2011-11-01). Civilization: The West and the Rest (p. 280-282). Penguin Group. Kindle Edition.

    ↩
  39. 497

    The Economist August 20th, 2011

    ↩
  40. 498

    『ワシントン・ポスト』紙への2005年の寄稿「アメリカの貿易赤字は危うい不均衡にある」(U.S. Trade Deficit Hangs in a Delicate Imbalance)より

    ↩
  41. 499

    Ferguson, Niall (2011-11-01). Civilization: The West and the Rest (pp. 332-333). Penguin Group. Kindle Edition.

    ↩
  42. 500

    Poivre, 前掲書, p.87

    ↩
  43. 501

    http://en.wikipedia.org/wiki/John_Locke こうしたロックの思想は、アメリカの建国の文書に影響を与え、独立宣言は権利についての叙述を「すべての人間は平等につくられた」で始めることになる。西洋では、こうしたロックの思想を発展させて、すべての人は平等につくられたのだから、政府は市民の同意を得て統治しなければならないという社会契約説の思想を打ち立てることになる。

    ↩
  44. 502