1) 民族国家は民本主義を目指す
東洋と西洋の文明の比較において、歴史的に最も重要な要素は民族国家(nation state)の形成である。東洋は、民族国家の形成において、西洋より二千年先んじている。紀元前3世紀まで続いた春秋戦国時代に、東洋では民族国家が生まれた。西洋は、古代の征服国家、中世の宗教国家として数千年を過ごし、1648年のヴェストファーレン条約以後になってようやく民族国家の誕生を見ることになる。民族国家の形成が早かったからといって、知恵が発達するわけではない。それよりも、知識の方向が決まるだけである。哲学もまた知識の結晶であって、けっして知恵にかかわるものではない。西洋のイデオロギーの時代が、それを傍証している。
民族国家の誕生は、文明の次元で新しい思想と哲学を求める。民族国家の誕生において、自然哲学を尊ぶ哲学的な変化が起こる。そして、国民を中心とする民本思想が芽生えることになる。民本思想は、政治経済体制における個人の経済的な自律を意味し、それが成功する政治経済の核心となる。自然哲学を中心として、民本思想と経済的な自律というファンダメンタルズが文明のなかにあれば経済は発展し、そうでなければ経済発展は不可能である。
東洋と西洋で、民族国家(nation state)はいつ形成されたのか。西洋では、「近代的な意味での民族国家」、すなわち「民主主義の民族国家」という概念を用いている。産業革命以後に西洋で現れた民主主義を備えている国家でなければならない。憲法、三権分立など抑制と均衡の制度を備えていてこそ、はじめて民族国家の構成要素となる。東洋では、とりわけ伝統的な王朝の廃止が重要である。中国の1912年の辛亥革命、日本の1868年の明治維新、韓国の1897年の大韓帝国の成立を、民族国家の出現と見ようというのである。西洋中心の世界観と歴史観に由来する見解である。
しかし、こうした西洋中心のやり方では、東洋と西洋の文明は比べられなくなる。西洋では、民族国家の出現と民主主義の政治体制の成立が、ほぼ同時に17世紀から18世紀に成し遂げられた。しかし東洋では、民族国家は紀元前5世紀から3世紀に成り立ち、民主主義は19世紀から20世紀に成り立った。民族国家は、民主主義の政治体制が導入される前に、東洋ではほぼ二千年にわたって存在していた。民族国家の成立が重要なのは、民族国家は生き残るために、必然的に自然哲学と民本主義を目指すことになるからである。
民本思想は、西洋では近世以前には見当たらない。古代ギリシア・ローマの時代は、奴隷が欠かせない征服国家の時代であった。市民と奴隷を分ける体制では、民本思想は不要であった。中世は、人間ではなく神の命令に従い、それを研究する宗教国家の時代であったので、自然主義的な人性論や民本思想は、やはり不要であった。したがって西洋では、近世以前には、国家のなかのすべての人間、国民を中心とする政治経済哲学は不要であった。
一方、東洋では、民族国家の形を備えるにつれて生まれた民本思想は、西洋より二千年早かった。
民族国家の出現は、一つの文明の哲学的な思潮に根本的な変化を芽生えさせる。こうした変化は、国家の生存のための「自然哲学」の体系に従うことになる。民族国家は、征服者や預言者など指導者の命令ではなく、民族を中心とする「民本主義」によって生存を追い求めることになる。啓示宗教ではなく、自然哲学の体系を国家運営の中心とする過程をたどることになる。生存、すなわち自己保存の本能が、国家の最優先の政策となるのである。
民族国家の出現は、文明の体系に核心的な変化をもたらす。東洋と西洋の文明の比較において重要な点は、東洋と西洋でいつ民族国家が出現したのかということである。東洋と西洋で、いつ民族国家が出現したのか。キッシンジャーは、東洋の民族国家の出現は西洋よりおよそ二千年早いと指摘している。
中国では、戦国時代は250年続いた後、秦の始皇帝の統一によって終わりを告げる。そのあいだに、封建諸国は自治権を獲得して独立した国家へと姿を変える。西洋は、これと似た経験を、1648年のヴェストファーレン条約から第二次世界大戦に至る時期に持つことになる。ヨーロッパの国々が勢力均衡のなかで主導権を勝ち取ろうと争う過程がそれである。408
アメリカの政治学者フクヤマもまた、国家間で数百年にわたって続いた戦争が国家の形を変えると指摘しており、民族国家が東洋と西洋でどのように形づくられるのかを説明している。春秋戦国時代に、東洋ではすでにこうした数百年の戦争状態を経て、民族国家が誕生した。西洋では、千年以上後に似た戦争の状況を経て、中央集権的な民族国家が生まれることになる。
中国で民族国家は、春秋戦国時代を経ながら、続く戦争のなかで形づくられた……こうした現象は、東洋と西洋の比較において、きわめて興味深い状況を示している……東洋より千年以上遅れて形づくられた民族国家の成立において、西洋はきわめて似た結果を示している……中国とヨーロッパで、民族国家の形成はいずれも戦争に備えるための努力から始まった。戦争の準備を通じて、封建領主たちの領地が次第に一つの国家の領土に統合され、国家の統治権力が中央集権化され、近代的な独立した行政体制が生まれることになる。409
民族国家が形成されると、それを統治するための行政体制である官僚制、国内の経済を運営するための政治経済思想、国内の政治を運営するための民本主義の政治倫理思想などが生まれることになる。東洋では、こうした体制が紀元前の戦国時代にすでに成し遂げられた。西洋では、二千年後、ヴェストファーレン条約以後に成し遂げられた。
西洋で民族国家がヴェストファーレン条約(1648)以後に始まったのだとすれば、それ以前の西洋の国々は、いったいどのような形の組織を持っていたのか。ギリシア・ローマの時代には、征服国家の体制であった。被征服国の人々は奴隷である。ギリシアやローマのような征服国家は、国家を構成する市民と、連れてきた奴隷からなる。スパルタは市民の数より奴隷のほうがはるかに多く、アテネは奴隷が半分を超え、ローマは三分の一ほどが奴隷であった。奴隷は、戦争や略奪で捕らえてくるか、奴隷市場で買って補われた。カエサルは、ガリア地方を征服した英雄として西洋史に知られているが、ガリア地方を征服しながら、数多くの奴隷を売って富を蓄えた。あるときは、彼の軍隊が戦争に勝った日に、一度に5万人の奴隷を捕らえて売り、カエサルとローマの軍団兵たちに大きな富をもたらしもした。奴隷はどのような扱いを受けたのか。アリストテレスは、彼らをこう扱った。奴隷は動物とまったく同じ存在である。奴隷は、動物と同じく魂がないからである。
しかし野蛮人のあいだでは、女と奴隷は区別されない。彼らのあいだには生まれながらの支配者がいないからである。彼らは男女の奴隷からなる共同体である。だから詩人たちは「ギリシア人が野蛮人を支配するのは当然である」と言う。野蛮人と奴隷は、本性上同じものであるかのように。410
ギリシアの市民だけが魂を持っているとアリストテレスは信じ、こうした哲学をギリシア人に説いた。ギリシアの都市征服国家では、戦争に勝って金銀財宝と奴隷を連れてくることが、国家の経済を守り大きくする最善の方策である。ローマもまた征服国家の体制であった。奴隷を基盤とする征服国家では、すべての人間を対象とする政治経済理論が入り込む余地はなかったのである。
ギリシア・ローマの時代の後、西洋は中世の千年以上にわたって宗教国家であった。ローマ教皇庁が絶対的な権力を持っていたので、神を中心とする宗教や教皇庁が中心であった。411 地方の領主や王たちは限られた権限しか行使しなかったので、民族国家のなかで民全体を相手にする政治経済思想は生まれようがなかった。中世のあいだ、西洋では教会と国家が共存していたが、教会が国家運営の体制において優位を占めていた。とりわけ、啓示宗教の終末論が大きな役割を果たした。
16世紀まで、西洋のキリスト教の歴史は、一言で言えば待つことの歴史であった。すなわち、人間の歴史の終末がいつ訪れるのかを待ち、その終末が延び延びになる状況を待ちつづけることが、彼らの歴史であった。待つことの具体的な形は状況によって変わっていったが、終末を待つということは常に同じであった。412 ……ルターは、終末が数年のうちに訪れることをしばしば口にし、それが今年かもしれないと語った。そしてしばしば、神は選ばれた者たちのために終末の時を早めるだろうと述べ、「時の流れのなかで、これからの百年は十年のように縮まるだろう」と説明した。413
したがって、ヴェストファーレン条約以後になってはじめて、国家は宗教から切り離され、一つの政治体制として存在することができた。征服国家でもなく宗教国家でもない民族国家が、はじめて西洋に生まれたのである。
「支配する者が、その地の宗教を定める」という概念は、国家の指導者の主権を支える表現である。指導者がどのような宗教観を持っていようと、彼が支配する地域のなかでは宗教の上に国家が立つ、という表現である。ところがこうした概念は、三十年戦争が終わるころになってようやく可能になった。ドイツ人が平和を打ち立てるにあたって、宗教にはもはや戦争と平和の問題にかかわって行使できる権限はない、という原則を立てることができたからこそ、可能になったのである。414
民族国家が生まれるとともに、ついに西洋でも、国家が宗教的な善悪の判断ではなく、精神によって国家の将来を考えるようになる。生き残るためである。こうした哲学体系は、征服者や啓示宗教の演繹的な命令体系から独立することになる。そうなると民族国家は、当然、演繹的な命令体系から抜け出して、自ら見いだすほかない帰納的な自然哲学の体系に従うことになる。
これから訪れることは必然ではないという考えは、すぐさま、宗教が当然行使すべき権限を制限する。最後の審判という概念は、善悪の選択において一つの条件だけを許す。しかし政治家は、国家の将来のために、善悪ではなく最悪の悪と次善の悪を見きわめる選択において、宗教ではなく道徳的な判断をしなければならない。この面で、リシュリュー(Richelieu)は、国家の運営において先見の明が最も重要だと判断した。なぜなら、先見の明を持ってこそ、政治家は国家に迫る悪を避けることができるからである。悪は、ひとたび始まると、ますます避けがたくなる。415
東洋と西洋を問わず、自然哲学の体系の政治経済は「民本主義」を目指すことになる。国家の生存のために、そうならざるをえない。民本思想はどのように芽生えるのか。春秋戦国時代に形づくられた民族国家とともに表れた民本思想は、国家の生存に最も重要な要素となる。民本主義によってのみ、民族国家は生き残ることができるからである。民本思想は、征服の指導者や啓示宗教の指針ではなく、民が国家にとって最も重要であるという思想である。民本思想は、春秋戦国時代以後、為民、保民、牧民、愛民など、さまざまな表現で用いられていた。孟子は、紀元前4世紀にすでに民本思想の本質を明らかにした。「民を貴しと為し、社稷之に次ぎ、君を軽しと為す」(『孟子』尽心下)。孟子は、積極的に民の重要性を前面に掲げた哲学者の一人である。そのわけは簡単である。民本思想が、国家と国民の「生存」に必要だったのである。孟子以前にも、孔子、そして『道徳経』などで、すでに民本主義が東洋の自然哲学の核心的な主題として登場していた。
西洋の民本思想は、18世紀のフランスの思想家ルソーがはじめて唱えて以後、哲学的に根を下ろすことになる。それ以前は、ギリシア・ローマの時代の「征服の時代」と中世の「教権の時代」が数千年にわたって続き、民本主義は西洋で生まれることができなかった。西洋では17世紀になってようやく民本主義を必要とする民族国家が誕生し、民主的に指導者を交代させる民主主義の制度とモデルが、19世紀に西洋の各国に広まることになった。東洋もまたこうした制度とモデルを輸入し、それに適応することになる。その過程で、東洋がすでに持っていた民本主義の思想が重要な働きをした。東洋が西洋の民主主義の制度を吸収する過程で、文明として東洋の民本思想がすでに存在していたのである。「文化は母であり、制度はその子どもたちである」。文化がなければ、制度は根づかない。
ルソーの国民中心の思想は、西洋ではまったく新しい視点である。それに大きな感銘を受けたのが、ドイツの哲学者カントである。カントは、ルソーを読むまでは「国民」(people)の重要性を知らなかったという記録を残している。カント以前の西洋の思想家たちは、征服の時代の征服指導者や教権の時代の宗教指導者を重んじる西洋の文明の体制のなかで、二千年以上生きてきた。しかし1648年のヴェストファーレン条約以後、西洋では政治倫理思想の枠組みが変わる。民族国家の出現以後になってようやく、西洋ではじめて「国民」全体が国家の生存に必要となり、それを主張する思想家たちが現れることになる。
民本思想は、国家や民主主義が当然重んじるイデオロギーや哲学的な概念であるから発展してきたのではなく、民族国家の成立という枠のなかで自生的に出てきたものである。戦争が横行する時期が続けば、国家のなかで皆が生き残るためには、指導者や貴族ではなく国民全体が努力してこそ、国家を守ることができる。こうした結論は、哲学やイデオロギーではなく、人間の本性の自己保存の本能から出てくる。こうした必要から、自然哲学の体系がはじめて生まれることになるのである。
民本主義 vs 民主主義
「東洋の民族国家の形成は、西洋の民族国家の形成より二千年早かった」。こうした現象は、民族国家の形成に必然的についてくる「民本主義」の芽生えが、東洋は西洋より二千年早かったことを意味する。民本主義が早かったという主張は、「民主主義」の体制が東洋で西洋より早かったという意味で述べたものではない。民主主義は、法律と制度による「指導者の平和的な交代」を含む。とりわけ、指導者の平和的な交代を憲法に盛り込み、こうした目的を抑制と均衡が反映された政治制度に反映させることは、西洋で17世紀から18世紀に成し遂げられた。こうしたものは、東洋の民本主義では発展させられなかった現象であり、すべて西洋から学んできたものである。
東洋と西洋を比べるとき、「自然哲学」、「民本主義」、そしてそれを支える「政治経済体制」の芽生えは、民主主義の出現ではなく「民族国家」の出現に焦点を当てなければならない。民本主義は、東洋で早くから発展した政治経済の理念である。民が国家の根本であるという意味を込めている。孟子は、紀元前4世紀に易姓革命論という王朝交代の説を唱えた。「民を貴しと為し、社稷之に次ぎ、君を軽しと為す」という民本主義の哲学である。西洋が17世紀の絶対王政の時代まで唱えた王権神授説より二千年早い、東洋の民本主義の思想の出現である。民貴君軽の思想は、民を尊び、民の暮らしをいたわってこそ、政治経済が発展し、国家の保存と発展がきちんと成し遂げられるという哲学体系である。
孟子以前にも、『書経』に「民は惟れ邦の本」(民惟邦本)の思想が説かれている。すなわち、民が国家の根本であり、民が安定してこそ国が安らかになる、という思想である。民心が天心であるという意味は、指導者が民の意に逆らわず、民の声に耳を傾けてこそ国が安定する、という思想である。民惟邦本の思想は、紀元前20世紀ごろの夏の「五子の歌」の遺訓とされ、この思想がまとめられたのは、紀元前10世紀前後の周の初期に確立されたものと見られる。したがって、民惟邦本や民貴君軽のような民本思想は、戦国時代の民族国家の出現より前に、すでに中国の文明に長い根を持っていたのである。
とりわけ孟子は、戦国時代の続く戦争のなかで、民惟邦本の思想からさらに一歩進んで、無能な指導者は交代させてもよいという易姓革命を唱えた民貴君軽の思想にまで発展させたのである。しかし東洋は、19世紀まで、指導者は死ぬまで指導者であるという終身制の制度と慣習から抜け出せなかった。無能な指導者が現れた場合、彼に仕えつづけなければならないのか、それとも彼を交代させるべきなのかという倫理的な問題が、続かざるをえなかった。こうした二千年を超える終身制の制度に、革命的な、指導者の平和的な交代の制度を打ち立てたのが、西洋の民主主義である。17世紀から18世紀のイギリスの名誉革命とフランスの市民革命が、西洋で民主主義を打ち立てるきっかけとなった。
民主主義の実現は、示顕論に立脚した西洋の哲学体系のなかから生まれた。西洋の思想家のなかには、中世の千年を支配した教権と新たに現れた王権のあいだの勢力争いのなかで「抑制と均衡」の制度に関心が注がれるようになり、結局、民主主義が発展する基礎が築かれたと見る人もいる。人間が生きる世界を根本的に変えてみようという「理想の実現」が可能だと見る視点は、西洋の示顕論的な思考のなかで民主主義の出発を可能にしたと見ることができる。東洋の不顕論の思考には、民本主義を革命的な民主主義へと変身させるには、あまりにも現実的な面があったと見ることができる。民主主義の発展が西洋で成し遂げられたのは、倫理にもとづく東洋の思考と、法律にもとづく西洋の文明的な思考の違いと見ることができる。実際、東洋が指導者の平和的な交代を成し遂げたのは、19世紀以後になって、西洋の民主主義の哲学にもとづく制度を輸入してからのことである。
このように、東洋の民本主義の出発点と、西洋の民主主義以前の民本主義の出発点を比べてみると、我々は、東洋と西洋の文明の比較において必然的に生じる隔たりの違いを理解することになる。
東洋と西洋の文明を比べるとき、民族国家の出現を考慮して、我々は東洋と西洋の思想家のあいだに二千年の間隔を置くことになる。東西の文明の比較において、道家 vs 理神論、儒教 vs 自然哲学、無為の思想 vs 自由放任主義、韓非子 vs マキャヴェリ、『孫子』兵法 vs クラウゼヴィッツの『戦争論』などの概念や思想家のあいだの比較が、二千年の間隔を示すことになる。道家、儒教、無為の思想、韓非子、孫子などは、いずれも紀元前の人物か、その時点で成り立った思想である。それに対比される西洋の人物や思想には、理神論、自然哲学、自由放任主義、マキャヴェリ、クラウゼヴィッツなどが含まれるが、これらはいずれも西洋の近世に打ち立てられた思想や人物である。これらはいずれも、啓示宗教の体系ではなく、自然哲学の体系に従っている。これらが現れることによって、はじめて、東洋と西洋の自然哲学の体系のあいだで、思想と人物の比較が可能となるのである。
東洋では、民族国家という概念はあまりにも当然なので、新たに考える必要のある概念ではない。東洋は数千年前から民族国家をなして暮らしてきたので、ほかの種類の国家になじみがない。しかし民族国家は、西洋では近世にはじめて経験しはじめた重要な概念である。西洋は、ギリシア・ローマの時代には征服国家、中世は宗教国家として特徴づけることができ、近世になってようやく民族国家を打ち立てたからである。古代ギリシア・ローマの征服国家は、市民とさまざまな奴隷などからなる、いくつもの民族がともに暮らす国家であった。中世の千年以上のあいだは、西洋は宗教を中心に国家を分けるようになったので、国家のなかにはいくつもの民族がともに暮らす形であった。
ローマ教皇はキリスト教国の運営に深くかかわり、宗教改革の時期には、国家は旧教と新教に分かれて成り立った。旧教の国のなかには旧教を信じるいくつもの民族がともに暮らし、新教徒は暮らせなかった。同じように、新教の国のなかには新教を信じるいくつもの民族が暮らし、旧教徒は暮らせなかった。そうした形が、17世紀の新教と旧教のあいだの長い戦争を経るなかで、結局、生き残るために、宗教とかかわりのない民族中心の国家が誕生することになった。すなわち、一つの国家のなかに、同じ民族からなる、新教と旧教を信じる人々がともに暮らすようになったのである。ついに数百年にわたる戦争の末に民族国家が現れ、新しい国家運営の体制が芽生える。ここで西洋は、はじめて自然哲学と民本主義の政治経済哲学の体系を打ち立てることになる。
西洋の民族国家の成立は、17世紀になされた。自然哲学を唱える思想家が現れる。西洋で自然哲学と経験論を強調したベーコンが、その時代の人である。「人間は、自然の下僕かつ解釈者として、自然の秩序について、事実によってあるいは精神によって観察しただけのことをなし、理解する。それ以上は何も知らず、何もなしえない」。ベーコンに続いて、スピノザが自然哲学をさらに一歩進めて唱えることになった。神と自然は一つであると叫ぶ。「人間が自然の一部でないことは不可能である……神の力、すなわち自然の力が、人間の存在を保っている」。自由放任の政治経済を唱えたフランスのケネーとイギリスのアダム・スミスも、彼らの後に続いた。「なすに任せよ、行くに任せよ。そうすれば世界はおのずと回る」が、彼らの哲学となる。東洋の自然哲学の無為の思想から霊感を受けたのである。
2) 東洋の民本の政治経済:管子、荀子、韓非子、司馬遷、そして『道徳経』
民族国家は、生き残るために、当然、民本主義の政治経済哲学に頼ることになる。政治経済哲学は、17世紀から18世紀より前の西洋の文明には存在しなかった。征服の時代であるギリシア・ローマの時代や、宗教中心の中世には、民族国家が存在しなかったからである。近代以前の西洋の思想家たちは、民族国家がなかったので、民族国家で生まれる政治経済思想を考える必要がなかった。17世紀になってはじめて西洋に民族国家が誕生し、それを基盤として、18世紀にフランスで重農主義という政治経済思想が生まれた。続いて、イギリスのアダム・スミスが西洋の政治経済思想家として頭角を現すことになる。
ギリシアのプラトンやアリストテレスは、あらゆる分野にわたって理論と哲学を説いたが、彼らに政治経済思想の痕跡はほとんど見当たらない。彼らは征服の時代の文明に生きていたので、彼らが考え出した「政治経済思想」は、人間が社会でどのような財産を持つのが正しいのかという政治倫理の問題についての一部の見解に限られている。彼らは、国家あるいはポリスのなかのすべての人、すなわち「国民」を対象とする政治経済に関心を持つ必要がなかったのである。
しかし民族国家のなかでは、生き残るために、国家のなかのすべての「国民」への関心が最も重要になる。国民をどのように経済活動に活かすのかが、国家の力と国家の生存の重大な目的となる。まさに民本思想が現れる必要がある理由である。これに従って、民本思想を基盤として、はじめて政治経済思想が芽生えはじめる。紀元前6世紀から3世紀の春秋戦国時代に、東洋の思想家たちは政治経済思想を展開しはじめた。彼らにとって最も重要な第一歩は、まさに政治経済思想の基盤となる人間の本性を打ち立てることであった。自然哲学にもとづく人性の確立である。彼らは、それを基盤として政治経済哲学の核心を打ち立てていった。管子、荀子、韓非子、司馬遷の『史記』、そして老子の『道徳経』を見てみよう。
『管子』(春秋戦国時代に書かれた書)。管仲は、戦国時代より前、封建制度が民族国家へと移っていく時代である春秋時代の人物である。紀元前685年から645年までの40年間、斉の国を実質的に治めた政治家である。彼の思想と似た哲学を共有した多くの人々の哲学思想を並べた書が、ほかならぬ『管子』である。これは、東西を通じて最初の政治経済の書に数えられるに値する。『管子』は春秋時代に始まり、戦国時代の百家争鳴の思想家たちに大きな影響を与えながら、戦国時代に編集・整理されたものと見られる。『管子』に記された哲学のなかには、とりわけ国家のなかのすべての民についての経済政策の思想が多く込められている。東洋の民本主義は、西洋の民主主義とは異なる。西洋の民主主義は、人間がどうしても達成しなければならないビジョンや理想を表すものである。東洋の民本主義は、すべての国や個人が闘い取るべきイデオロギー的な思想ではない。それよりも、きわめて現実的な目標がある。戦国時代に、国家や個人が生き残るためである。すなわち、「自己保存」というきわめて現実的な目標がある。それは、国力を育ててこそ戦国時代に生き残ることができ、そのためには民全体を国家で最も重要な要因と見て活かさなければならない、という根源的な現実論に立脚している。民本は、民族国家の生存の哲学の基本となるのである。
国に財多ければ、則ち遠き者来たり、地辟け挙がれば、則ち民留まり処る。倉廩実ちて則ち礼節を知り、衣食足りて則ち栄辱を知る。(『管子』牧民1:1)416
こうした民本思想は、無為の思想と結びつく。人を選ばずに包み込む指導者の哲学を、自然の哲学にならう無為の思想に根拠づけようというのである。
生を同じくせずと曰う毋かれ、遠き者聴かず。郷を同じくせずと曰う毋かれ、遠き者行わず。国を同じくせずと曰う毋かれ、遠き者従わず。地の如く天の如く、何をか私し何をか親しまん。月の如く日の如くなるは、唯だ君の節なり。(『管子』牧民1:5)
管子は、塩と鉄の流通を国家の専売として、斉の国の富を大きく増やした。そして、穀物やほかの品物の流通の大きさに応じて銭(貨幣)の量を調節する経済政策を根づかせるのに、それを用いた。通貨政策を国富の管理に組織的に用いた最初の事例と見られる。417 管子は、穀物の価格が暴落すれば貨幣を放出して穀物を買い入れて価格を引き上げ、穀物の価格が暴騰すれば穀物を売り出して価格を安定させた。飢饉や戦争などの非常時には、貨幣を追加で発行するか物資を売って財政を確保した。彼は、斉と周辺国の特産品の生産と流通を、斉の金や貨幣を用いて売り買いしながら、斉の利益を最大にするのに用いた。管仲は、すべての税と公共事業の対価を、現物ではなく貨幣で受け取り、あるいは支払いながら、財政政策と金融政策を結びつける政策を行った。これは『管子』の「軽重」の諸篇で説明されている。「天下の物価を安定させることができるか」という桓公の問いに対する管仲の答えは、軽重の術であった。軽重の術とは、物資が多くなれば価格が下がり、物資が少なくなれば価格が上がるという市場経済の原則であり、こうした経済の環境を、貨幣を用いて理財(国家の財政をうまく運営するという意味)を追い求める、という意味である。418 これを基盤として、管仲は斉の桓公を春秋の覇者の最初の覇者とした。419
荀子(紀元前3世紀前半)は、その書『荀子』第10篇「富国」(wealth of nation)で、アダム・スミスの18世紀の『国富論』(wealth of nation)のように、国家の経済をどう運営すべきかを説明している。荀子は「富国」篇で、民が豊かにならなければ民から税を取ることはできず、民を守らなければ民を働かせることはできない、と説明している。
国を足らすの道は、用を節して民を裕かにし、善く其の余を臧むるにあり。用を節するに礼を以てし、民を裕かにするに政を以てす。彼民を裕かにす、故に余り多し。420
そして、とりわけ面白いのは、アダム・スミスが広めた「見えざる手」の概念が、荀子によって二千年前に似たかたちで説明されていることである。それぞれが自分のためにつくらなくても、その産物は結局、全体の利益に貢献するというのである。興味深いのは、アダム・スミスが見えざる手によって「私益が公益を生み出す」という西洋式の理論を掲げたのに対し、荀子は「流通」によって「それぞれの努力が、すべての人が用いる利得」をつくり出していくと説明していることである。
故に沢人は木に足り、山人は魚に足り、農夫は斲削せず陶冶せずして械用に足り、工賈は田を耕さずして菽粟に足る。(『荀子』王制9:12)
荀子は、流通によってすべての人が享受する品物を用いるようになると見るが、ここでアダム・スミスとは異なる見解を表明している。西洋のアダム・スミスは、公益は私益からおのずと生まれるという見解を表明するが、荀子は流通の重要性を強調している。流通が公益を生み出すと見たのである。しかし荀子は、流通もまた個人の貪欲によって損なわれうるという見解を述べている。
人の性に従い、人の情に順えば、必ず争奪に出で、犯分乱理に合して、暴に帰す。故に必ず将に師法の化、礼義の道有りて、然る後に辞譲に出で、文理に合して、治に帰せんとす。(『荀子』性悪23:1)
人間の本性に従って私益をそのまま放任すれば、公益が損なわれると見る。したがって、公益のために、人間の本性は法と倫理によって管理されなければならないと主張することになる。
韓非子(紀元前3世紀後半)は、自らの書『韓非子』で、政治経済思想についての自らの哲学を明らかにしている。とりわけ、公益と私益を分ける哲学が目を引く。「古者、蒼頡の書を作るや、自ら環る者之を私と謂い、私に背く之を公と謂う。公私の相背くや、乃ち蒼頡固より以て之を知れり」(『韓非子』五蠹)。この部分は、次の章の「西洋の私益と公益の収斂論 vs 東洋の私益と公益の衝突論」で詳しく見る。
明主上に在れば、則ち人臣私心を去りて公義を行い、乱主上に在れば、則ち人臣公義を去りて私心を行う。(『韓非子』飾邪)
韓非子の私益と公益の衝突論は、国家を運営する指導者にとって術治(じゅつち)が核心の一つであるという哲学と結びついている。
夫れ法令を立つる者は、以て私を廃する所以なり。法令行われて私道廃る。私なる者は、法を乱す所以なり……もし君主が個人の好みによって臣下を用いれば、臣下は公益ではなく君主の好みを満たすことに身を捧げるようになる。(『韓非子』詭使45:6)
韓非は、国家の生存のための最善の方法は、民の努力によって国の富を自ら大きくすることであると説明する。彼は、その政治経済哲学の出発点として、人間の努力はすべて個人の利益を追い求めようとするものであり、国家の政策はそれを基本としなければならないと説明している。
夫れ庸を売りて播耕する者、主人家を費やして美食し、布を調えて銭を易うることを求むる者は、庸客を愛するに非ざるなり。曰く、是くの如くならば、耕す者且に深く、耨る者熟く耘らんとすと。庸客力を致して疾く耘耕する者、巧を尽くして畦陌を正す者は、主人を愛するに非ざるなり。曰く、是くの如くならば、羹且に美ならんとし、銭布且に易からんとすと……皆自ら為にするの心を挟むなり。421
こうした状況で、国家は機会の平等を守らなければならず、結果の平等を追い求めてはならないと明らかにしている。
侈にして堕なる者は貧しく、力めて倹なる者は富む。今上、斂を富人に徴して以て貧家に布施するは、是れ力倹に奪いて侈堕に与うるなり。而して民の疾作して節用するを索めんと欲するも、得べからざるなり。(『韓非子』顕学50:3)
韓非は、公益と私益の衝突論に立脚して、公共の利益を守ることが国家と指導者の目的であることを明らかにしている。韓非はすでに戦国時代末期の人物なので、民族国家のなかではすでに官僚体制が根を下ろしていた。彼は、官僚体制のなかでの指導者と臣下の利益の追い求め方について説明している。まさに術治の核心を教えているのである。
『史記』(紀元前91年前後)は司馬遷が著した歴史書で、西洋の最初の歴史家であるヘロドトスの書と比べることができる。とりわけ『史記』の列伝の部分は、当時の東洋と西洋の英雄たちの生涯の記録という面で、プルタルコスの『英雄伝』とよく似ている。しかし『史記』には、ヘロドトスやプルタルコスの『英雄伝』にはまったくない政治経済思想が込められている。司馬遷が生きた時期、東洋ではすでに民族国家の形成が完成しており、政治経済思想が、国家の運営において戦争に劣らず重要な要素となっていた。
『史記』の列伝の第69は、「貨殖列伝」と名づけられている。貨は財産を意味し、殖は増やすことを意味する。すなわち、財産がなぜ重要なのか、財産を増やして富者になる方法、そして財産をどのように使ったのかについての記録である。ここに、政治経済思想を説明する人間の本性についての司馬遷の卓見が込められている。人間の本性において、利益と財産が人間を動かす根源的な理由であることを明らかにしている。
天下熙熙として、皆利の為に来たり、
天下攘攘として、皆利の為に往く。(『史記』貨殖列伝129:2)
司馬遷は、歴史と人間の心の流れを見ながら、人間を動かす力は結局自分の利益によって左右されると見抜いている。官吏が公益のために働くようにしなければ私益を追い求めるようになる状況は、一般の人々が利益を追い求めようとするのと同じ人間の本性にある、と見たのである。
凡そ編戸の民、富相什すれば則ち之に卑下し、伯すれば則ち之を畏憚し、千なれば則ち役せられ、万なれば則ち僕たり。物の理なり。(『史記』貨殖列伝129:29)
吏士の文を舞わし法を弄び、章を刻し書を偽り、刀鋸の誅を避けざる者は、賂遺に没すればなり。農工商賈畜長も、固より富を求め貨を益さんとするなり。此れ知有りて能を尽くし索むるのみ、終に余力ありて財を譲らず。(『史記』貨殖列伝129:27)
人間の本性がこうである以上、政府や指導者が絶対にしてはならないのが、「国家主義の貪欲」である。すなわち、指導者が自分の利益を追い求めるために民と争ってはならないと強調しているのである。
故に善き者は之に因り、其の次は之を利道し、其の次は之を教誨し、其の次は之を整斉し、最も下なる者は之と争う。(『史記』貨殖列伝)
司馬遷は、荀子や韓非子が説いたように、また二千年後にケネーとアダム・スミスが努めたように、国家の経済の運営において無為の思想(西洋では自由放任主義)を基礎とするのが最善の方策であることを説明している。
故に農を待ちて之を食い、虞にして之を出だし、工にして之を成し、商にして之を通ず。此れ寧ろ政教発徴期会有らんや。人各々其の能に任じ、其の力を竭くし、以て欲する所を得……召さずして自ら来たり、求めずして民之を出だす。豈に道の符する所にして、自然の験に非ざらんや。(『史記』貨殖列伝129:3)
彼は、流通を滑らかにすることが経済を生かす道であると説いている。これは、国家の介入ではなく、市場経済の有用性を教えている。
財幣は其の行くこと流水の如くならんことを欲す。(『史記』貨殖列伝)
『道徳経』(紀元前6世紀から7世紀):『管子』、荀子、韓非子、『史記』などは、西洋より二千年早く、政治経済思想の大きな絵を描いている。しかし、政治経済哲学を最もよく説いている古典は、老子の『道徳経』である。とりわけ、政治経済哲学を『道徳経』の行動の指針である無為の思想とともに示している。『管子』、荀子、韓非子、『史記』などはいずれも無為の思想を共有しているが、その源は『道徳経』にある。無為の思想は、人間の本性と、人間と自然の関係を理解しながら、その基盤の上に示されている。以下は、『道徳経』に明示されている政治経済哲学の一部である。
民生の重視(『道徳経』第53章):朝甚だ除まり、田甚だ蕪れ、倉甚だ虚し。文綵を服し、利剣を帯び、飲食に厭き、財貨余り有り。是れを盗夸と謂う。
簡明な法規(『道徳経』第57章):天下に忌諱多くして、民弥々貧し。民に利器多くして、国家滋々昏し。人に伎巧多くして、奇物滋々起こる。法令滋々彰らかにして、盗賊多く有り。
小さな政府(『道徳経』第58章):其の政悶悶たれば、其の民淳淳たり。其の政察察たれば、其の民缺缺たり……民の治め難きは、其の上の為す有るを以てなり。
民間の主導(『道徳経』第65章):智を以て国を治むるは、国の賊なり。智を以て国を治めざるは、国の福なり。
少ない税(『道徳経』第75章):民の饑うるは、其の上の税を食むことの多きを以て、是を以て饑う。
社会の均衡(『道徳経』第77章):天の道は、余り有るを損じて足らざるを補う。人の道は則ち然らず、足らざるを損じて以て余り有るに奉ず。孰か能く余り有りて以て天下に奉ぜん。唯だ有道者のみ。
指導者の清廉(『道徳経』第81章):聖人は積まず。既く以て人の為にして己愈々有し、既く以て人に与えて己愈々多し。
『道徳経』とモーセ五書が政治経済について持つ関心を比べてみよう。聖書には、政治経済の活動についての直接の言及はなかなか見当たらない。まだ民族国家が形成される前に完成した聖書には、出エジプト記、申命記、民数記などに、政治経済の活動についての直接の「律法」がいくつか示されてはいる。たとえば、次のとおりである。
あなたがイスラエルの子らの数を数えて人口調査を行うとき、人はそれぞれ、自分の命の代価として主に贖い金を納めなければならない。(出エジプト記30:12)
あなたは毎年、畑の産物の十分の一を必ず納めなければならない。三年の終わりごとに、その年の産物の十分の一をすべて取り出して、あなたの町に蓄えよ……。レビ人と、あなたの町に寄留する者、また孤児と寡婦が来て、食べて満ち足りるようにせよ。そうすれば、あなたの神、主は、あなたが手ですることすべてにおいて、あなたを祝福されるであろう……。隣人のぶどう畑に入るときは、思うままにぶどうを食べて満ち足りてよい。しかし器に入れてはならない。隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよい。しかし隣人の麦畑に鎌を入れてはならない。(申命記14:22―29、23:24―25)
犯した罪を告白し、その償いを完全に払い、それに五分の一を加えて、罪を犯した相手に返さなければならない。(民数記5:6―7)
東洋と西洋の比較において重要なのは、西洋の限られた政治経済についての考えが、いずれも律法、すなわち法の形を取るということである。西洋の神は政治経済には関心を示さなかったので、モーセ五書に出てくる経済活動についてのものも、政治経済にかかわるものではなく、人間が守らなければならない、あるいは破れば罰を受ける「法」という性格に重点を置いている。同じ脈絡で、ギリシア・ローマの文化は、奴隷制度を基盤としながら、戦争、征服、略奪を主な手段とする利己心を積極的に伸ばす伝統と文化の上に築かれたものである。個人の利己心の放任という面で、西洋の近現代の政治経済思想は、アテネ・ローマの時代の古代の思想と似たところがある。民本思想にもとづく政治経済思想は、まだ芽生える前の状態である。
西洋の啓蒙の時代は、東洋の管子、荀子、韓非、司馬遷などの思想家の書物や哲学が西洋に紹介される前である。啓蒙の時代には、儒教と道家の書物だけが西洋に紹介され、西洋の思想家たちは感銘を受けることになる。したがって、道家の政治経済哲学は、道家の核心的な行動原理である無為の思想とともに、このとき形づくられはじめた西洋の政治経済思想の流れに決定的な影響を及ぼす。民族国家の形成は、結局、国家主義を克服する過程を始めることになる。この過程で、西洋は東洋の無為の思想から霊感を得ることになる。
3) 西洋の民族国家の出現:重商主義から自由放任主義へ
西洋は、15世紀から18世紀までを大航海時代(Age of Discovery)と呼ぶ。これは、西洋の世界征服の時代を指す。西洋の列強は、全世界を舞台とする植民地の開拓と、金・銀、香辛料、奴隷の獲得の競争を始めた。その方法として、主に開拓、海賊行為、奪取に頼った。スペインとポルトガルは、コロンブスとヴァスコ・ダ・ガマの大西洋とインド洋の開拓を筆頭に、これに最初に成功した国である。ポルトガルが先頭に立ったが、人口があまりにも少なく、スペインに押されることになる。スペインは、いわゆるコルテス(1485―1547)とピサロ(1471―1541)のようなコンキスタドールたちの活躍によって、アステカとインカの帝国の金と銀を奪い取る。コンキスタドールとは、スペイン語で征服者を意味する。アメリカから得た莫大な金と銀を国内に持ち込んで、スペインはヨーロッパ最大の強国として浮上する。
イギリスは、こうしたスペインの金と銀、そして香辛料を運ぶ船を襲って奪い取ることに力を注ぎもする。有名なドレーク(1540―1596)がその代表的な人物である。エリザベス女王は、こうしたドレークの海賊行為に投資して、ある年には王室の収入の半分ほどをそこから得るほどであった。422 ドレークは、海賊、探検家、海軍提督、事業家、政治家として活躍し、爵位も受け、1588年のスペインの無敵艦隊との海戦で赫々たる功を立てるなど、傑出した人物であった。イギリス人にとってはまたとない愛国者、スペインにとっては自国の船の大西洋航海にとって最も危険な海賊の頭目として、大きな懸賞金がかけられた男であった。
こうしたスペインとイギリスのあいだの競争は、海上のあちこちで小規模な衝突が頻繁になったのち、結局、全面戦争へとつながる。西洋の歴史できわめて重要な、1588年に英仏海峡で繰り広げられた海戦(グラヴリンヌの海戦、the Battle of Gravelines)で、スペインの無敵艦隊の壊滅とイギリス海軍の勝利によって、二つの国の運命が分かれる。423
ヨーロッパの国々は、海運の発展、海外の植民地の開拓とともに、国際貿易に乗り出すことになった。彼らは、植民地と領土の拡張を追い求め、国際貿易の管理を通じて国富を増やすことに力を注ぐようになった。こうしたやり方は、「重商主義」(Mercantilism)と呼ばれるようになった。重商主義という言葉は、ラテン語のmercansから来ているが、mercansとは売り買いする人という意味である。ヨーロッパの列強は重商主義の政策を追い求め、国家間のほとんど無制限の戦争の状態に入ることになる。15世紀後半から18世紀まで、実に300年近く、こうした重商主義を崇める状態が続く。スペインのように、植民地から金と銀を確保して強国として浮上しようというのである。
彼らが取った重商主義という国家の経済政策は、商業を振興して民生を図ったり、世界の秩序を保ったりしようという世界観を持つ哲学ではない。これは、最強の国として生き残り君臨するには、他国を征服して必要な物資を奪い取るか、自国に有利な交易条件によって国益を確保することを、最も重要な競争の手段とした。これが重商主義である。この政策は、何としてでも国際交易で貿易黒字を達成し、それを通じて国家の財貨、すなわち金と銀の保有を最大にしようというものである。当然、極度の保護貿易主義が盛んになる。保護貿易主義の旗のもとで、西洋の各国は貿易収支の黒字の達成に総力を傾けるようになった。重商主義の政策は、次のように表現される。
我々は、外国に売る以上に、外国から買ってはならない。この政策を守らなければならない。なぜなら、これに背けば、我々は貧しくなり、相手は豊かになるからである。424
そこで、すべての国が、輸出を最大にし輸入を最小にする政策を行うことになる。そして、こうした立場に従って、ヨーロッパの各国は、海外の植民地の確保と帝国内の貿易の統制のための競争をすることになる。重商主義は、大西洋の三角貿易のパターンをつくり出すに至った。すなわち、アメリカの植民地から綿花、砂糖、タバコなどがヨーロッパへ輸出され、ヨーロッパではそれを加工した繊維や、サトウキビからつくった酒ラム(Rum)のような工業製品をアフリカやほかの植民地へ輸出し、アフリカからは奴隷をアメリカへ輸出する貿易を、ヨーロッパの各国が先頭に立って追い求めるようになったのである。
専売と独占は、重商主義の政策の一般的なパターンとなる。そのため、アダム・スミスら近代の経済学者たちは、重商主義を、国家権力、製造業者、商人が結託して消費者に損害を与えた巨大な経済体制と見た。実際、重商主義者は政府の官僚や商人たちが代表していた。実際、商人たちは、外国との競争を排除した国内市場で独占権を持って莫大な利潤を得たが、それは結局、労働者と消費者の立場を犠牲にした結果である。また国家は、高い関税を課し、商人たちが払う税を独占することができた。重商主義者たちは当然、労働者を低賃金に縛っておくことを、国富のために、国家の生存のために必要なことと見た。労働者や下層の階級に、教育、余暇の提供、最低限を超える賃金の支払いなどを与えることは、国家を怠惰と悪へと導くものと考えた。そこで国内では、貿易の競争力を高めるために、賃金の上昇を積極的に抑えることになった。
政治経済の面では、初期の植民・搾取の政策と中後期の保護貿易の政策の両方を貫く一つの現象は、国家主義(statism)と表現することができる。西洋の植民・重商主義の政策は、政治経済の面から見れば、結局、国家主義に帰着する。
重商主義は、17世紀から18世紀のヨーロッパで頂点に達した。それは国家主義の一種であり、誤りに満ちた経済の論理を用いて帝国主義的な国力を育て、また国家が選んだ集団や個人に独占権を与えたり補助金を与えたりする制度だったのである。425
重商主義の政策を追い求めながら、各国の君主は、自らの利益のために国家の経済・通商政策を強く統制しようとした。もちろん当時の君主たちには、重なる戦争と差し迫った競争のなかで、国家の安全と富、すなわち富国強兵を前に立てた面もあった。当時は、国家と君主の区別がなかった。ルイ14世は「朕は国家なり」という宣言で有名である。国家のためという名分と、国家主義を通じた個人の利己心ないし貪欲の追求との区別がない状態であった。
西洋の政治経済がこうした桎梏から解き放たれるためには、西洋で民族国家が成立することがまず必要であった。1648年のヴェストファーレン条約によって、ついに西洋で民族国家が出発するとともに、西洋の政治経済に大きな変化が訪れることになる。民族国家は、征服国家とはまったく異なる思想体系に目を開くことになる。生き残るためである。政治経済の面では、それは、政府の干渉を排して国民の経済的な自律を確保し、国益を育てようという考えに、西洋の思想家たちが目を開くことになる。これによって、三世紀にわたって西洋を支配した征服の時代の重商主義が退場し、自由放任主義がついに西洋の政治経済で花開くことになる。426
征服の時代に西洋の政治経済を支配していた当時の思想は、国家主義であった。王政を保ちながら、国王の生存と国家の生存を同一視していたときに生き残るための方策である。しかし17世紀から18世紀の西洋は、民族主義の導入によって、国家の経済をもはや国家主義に頼ることができなくなった。生き残るために、大胆な国家改革を試みることになる。こうした過渡期に、西洋では革命が頻発し、さまざまな思想があふれることになる。とりわけ、征服国家的な重商主義の制度から抜け出さなければならなかった。民族主義の出発によって、民族国家に必要な新しい思考の体系が必要になった。民族国家の生存のためである。西洋で18世紀の民族主義は、政治経済の面で、国家主義の代わりに自由放任主義を試みることになる。
4) 自由放任主義は道家の無為の思想から霊感を得た
近代の啓蒙の時代に、西洋は重商主義という徹底した国家統制から抜け出そうともがいていた。重商主義に思想的にはじめて挑戦状を投げつけたのは、フランスの重農主義者(Physiocrats)たちであった。彼らは、重商主義というスローガンのもとで国家が征服と搾取に果てしない競争を繰り広げる代わりに、別の方法で国力を育てることができると考えるようになる。植民地を含め、自国内の農地を最大限に活用して農業生産を増やすことで、国家の富を増やすことができると主張するようになる。彼らは、東洋で農業が高い生産性を上げていることを知るようになる。そして、その背景をなす無為の思想に深く魅了される。
西洋の思想家たちが国民の経済的な自律を主張するようになる時点で、東洋の無為の思想が西洋に知られることになる。政府を含めて人為的な干渉を排そうという無為の哲学が西洋に取り入れられると、この哲学は西洋の思想家たちに、画期的で革命的な哲学として迫ることになる。フランスの重農主義者たちは、政治経済哲学の核心である個人の自律に集中する。彼らは、無為の思想を翻案した自由放任(laissez-faire)の思想を西洋に広めることになる。フランスの重農主義者たちが道家の「無為の思想」を「レッセフェール」と翻案したことで、自由放任の思想がフランスで広まりはじめた。laissez は「させておけ、任せよ」、faire は「する」を意味するので、「レッセフェール」は「するに任せよ」、すなわち無為という意味である。レッセフェールは、西洋で重商主義に取って代わりうる新しい革命的な思想として浮上する。アダム・スミスもフランスに来て重農主義者たちに会い、それを学ぶことになる。英語圏では、この重要な思想を取り入れるにあたって新しい言葉をつくらず、フランス語のレッセフェールをそのまま英語として用いることになる。
政治経済哲学は、西洋よりはるかに早く、東洋で民族国家の形成とともに発展した哲学である。道家の無為という核心的な思想が、政治経済哲学に当てはめられる。無為の思想は、有為への戒めを説き、個人と指導者が行動原理とすべきほど重要な、政治的・経済的・倫理的な思想である。道家の行動原理である無為の思想は、のちに西洋で自由放任(laissez-faire)主義と訳されるほど、重要な経済性を含んでいる。無為の思想は人間的な干渉を最小にしようというものであり、自由放任主義は国家の干渉を最小にしようというものである。無為の思想は経済を含めて人間の行い全体にかかわるものであり、自由放任主義は人間の経済的な行いに限られている。
重農主義者たちにとっては、どうすれば国家の干渉を小さくし、個人の生産的な能力を育てることができるかに力が注がれる。個人の努力が経済に重要であることを、どう表現できるかが核心であった。その背後には、海外の征服によって金と銀を確保するよりも、自然と農業を重んじて国富を育てようという哲学が敷かれている。それをどう表現し体系化するかが問題であった。このとき、道家の無為の思想が、フランスの重農主義の哲学者たちに大きな影響を及ぼした。重農主義者たちが、無為の思想からどのように自由放任主義という新しい概念の思想を西洋に広めたのかが、近年、西洋の人々によって次第に知られるようになった。西洋の哲学者デュラントは、『東洋の遺産』(Our Oriental Heritage)という本で、自由放任主義の生成の過程を説明している。
フランスの重農主義者たちは、道家と老子、荘子から影響を受けた。彼らは無為の思想、すなわち自由放任主義(laissez-faire)を信奉した。427
政治経済の次元で、フランスの重農主義の哲学者たちは、中国の農業制度と、それを運営する政府の倫理的な役割、そしてそこに込められた経済哲学である無為の思想に心酔した。それを自由放任主義という思想にまとめて、西洋の啓蒙の時代に流行させることになった。
賢明な指導者は、政治を行うとき、かなりの部分をそのままに任せて何もしないところに要があることを知らなければならない。こうした哲学は、まさに東洋の道家の無為(wuwei)の思想に内在している。これをフランスの人々が自由放任主義(laissez-faire)と訳して、西洋に伝わることになった……この無為の思想がケネーを感動させ、ケネーから学んだアダム・スミスを通じて、西洋の近代政治経済学の基礎をなすことになる。428
フランスの重農主義者たちは、国家の富は農業から来ると見て、農業は政府の関与なしに、自然の摂理に従い、また市場のメカニズムに従って人間が働くときに最も大きな効果をもたらすと主張した。重農主義(Physiocracy)という言葉は、「自然」と「統治」という意味の合成語である。国富を、農業のように自然に頼って管理しようという考えである。
フランスの重農主義:ケネー、ド・グルネー、ポワーヴル
18世紀の西洋の政治と文化の中心地はフランスであった。フランスで、西洋の歴史ではじめて、政治経済を考える哲学者たちが現れた。ケネーは、国家のなかの経済の動きを見る『経済表』(Tableau économique)を1758年に発表する。彼は西洋最初の政治経済の哲学者となる。ケネーは、フランスの重農主義の泰斗として、18世紀の西洋に、近代経済学の基礎理念である自由放任主義(laissez-faire)を中国の無為の思想から取り入れた人物である。ケネーは、「無為」をフランス語で「自由放任」と訳すことができると見た。429 自由放任主義は西洋の政治経済史を揺るがした概念であり、フランスで生まれたので、英語でもフランス語の言葉をそのまま用いている。
ケネー(1694―1774)は、フランスの重農主義者を代表する。彼は道家が説く無為の思想に心酔し、それにならった自由放任の思想を西洋に広めはじめた。430 フランスの重農主義者たちは、「なすに任せよ、行くに任せよ。そうすれば世界はおのずと回る」と主張した。政府の干渉から政治経済を解き放とうという考えが、彼らを支配した。「政府が干渉すればするほど、民は苦しい暮らしをすることになる」という東洋の無為の哲学に、そのまま従ったのである。
当時、自由放任という新しい思想にもとづくケネーのこうした主張は革命的であった。フランスの重農主義の思想家たちが掲げたレッセフェールという思想は、イギリスへと伝わった。イギリスを中心とする西洋の自由市場の経済体制に、直接的で深甚な影響を与えた。431 実際、アダム・スミスは1760年代にパリにケネーを訪ね、自由放任の思想について話し合ったこともある。432 自由放任という概念は、ケネー以前にも、17世紀末から18世紀前半にかけて、フランスの事業家たちのあいだで一部用いられてもいた。433 しかし、自由放任の思想が広まった背景に、道家の無為の思想とのつながりがあったことは否定しがたい。
フランスの重農主義の思想家たちは、重商主義者のように必ずしも他人のものを奪ってきて豊かになるのではなく、自ら持っている農地で多くの作物を生産することが国富の源となりうると考えた。革命的な発想である。重商主義は、軍事的な征服を通じた植民地で金と銀を最大限に確保して国富を育てようという考えを持っていた。重商主義という概念に込められた意味を広げて見れば、アレクサンドロス、カエサル、中世のシャルルマーニュ、スペインの中南米征服、イギリスとヨーロッパ諸国の植民地征服などは、いずれも重商主義と核心的な概念を同じくしている。多くの金と銀を手にする国家が強国になる、というのである。すなわち、国家がほかの国を征服する役割が、国富のために最大限に重要になる。国家のなかの個人の生産力は何の個別的な価値も持たない、西洋の古代、中世、近世の征服国家の政治哲学的な概念である。
ド・グルネー(1712―1759)はケネーの弟子であり、自由放任主義を西洋に広く広めた人物である。ケネーとド・グルネーが活動していた時期には、中国の発達した農業と、それを運営する政府の自由放任の政策、そして道家の自然主義の哲学の概念が、直接あるいは間接に、フランスの思想界に影響を及ぼしていた。その影響で、道家の思想である「統治しすぎるな!」というモットーや「自然に任せよ!」という標語が、フランスの知識人のあいだに広く流行した。それにもとづいて、また師ケネーの教えに従って、ド・グルネーは、商業と産業に対する国家の規制を取り除こうという自らの信念のために、「なすに任せよ、行くに任せよ!」というスローガンを熱心に広めた。彼のスローガンは、「なすに任せよ、行くに任せよ、世界はおのずと!」という、より発展した形でもフランスの思想界に流行することになった。
ド・グルネーが叫んだ重農主義の哲学である「なすに任せよ!行くに任せよ!世界はおのずと回る!」には、征服国家や重商主義が政府の役割を強めようとした政治哲学を根本から転換しようという意味が込められている。彼の重農主義の哲学は、道家の哲学、「我無為にして民自ら化す」と同じ内容である(『道徳経』第57章)。重農主義の哲学の主張である「自然に任せよ!」という標語は、道家の「天の道は、利して害せず」という哲学とそのまま合致する(『道徳経』第81章)。重農主義のスローガンである「統治しすぎるな!」という主張は、道家の「智を以て国を治むるは、国の賊なり」という考えと同じ表現である(『道徳経』第65章)。無為の思想は、儒教も共感している哲学である。「天何をか言うや。四時行われ、百物生ず。天何をか言うや」(『論語』陽貨17:19)。
ポワーヴル(1719―1786)は、ド・グルネーに続いて無為の思想を西洋に広めた、もう一人の重要な人物である。彼は4年間、中国の地方を広く旅した。西洋より発達した農業経済と、それを支える政府の自由放任の政策と役割を経験し、それをフランスに知らせた人物である。実際、ケネーとフランスの重農主義者たちは、中国の農業と、その哲学的な柱である儒教・道家の思想に、西洋の政治経済の未来とモデルを見た。ケネーはポワーヴルから多くの情報を得、彼との接触のなかで互いに深い影響を及ぼし合うことになる。ポワーヴルは、中国の農業と道家の思想について、目撃者としての生き生きとした情報と考えをケネーに与え、ケネーは、ポワーヴルを重農主義の哲学者にするのに決定的な影響を与えた。
ポワーヴルは園芸農業に大きな関心を持っており、若いころカトリックの宣教師として中国に派遣され、広州とマカオの地域で働くことになる。ポワーヴルは、北京に住んで儒教に集中したほかのイエズス会の神父たちとは違って、園芸農業に関心を持ち、二度にわたって4年間地方を広く旅しながら、農業に大きな関心を注ぐようになった。彼は続いて、東南アジア、アフリカ、中米でも研究を続けた。そして、こうした考えをまとめて、『ある哲学者の旅』(Voyages d’un philosophe)という本を出版した。
ポワーヴルはこの著書で、中国の農業経済を観察したのち、それをアフリカ、アメリカ、そしてヨーロッパの農業の状況と比べながら、いずれも中国の効率的で生産性の高い農業制度を見習わなければならないと結論づけた。434 彼は農業礼賛論者であった。彼は、当時、重商主義の枠のなかで、ヨーロッパの列強が生産には注意を払わず、通商による競争にだけ集中して政治経済政策を運営していることを批判しながら、農業によって生産量を大きくすることができると主張した。この点で、ポワーヴルは重農主義の思想家ケネーと意気投合することになったのである。
ポワーヴルは著書で、「中国では、国の基幹である農業の繁栄は簡明な倫理と規定のおかげであり、この倫理と規定は、自然と精神が命じるところに従ってつくられたものである」と記した。当時の西洋の規範的な政府の政策を、中国の自然で放任的な政府の政策と比べて批判しながら、中国のこうした自然な政府の政策と国民の活発な勤労意識を見習わなければならないと主張した。「ほかの地域では、民は、他人を欺こうとする狡猾な者たちがつくった、意図の隠された疑わしい規定や政策に従っているが、これは中国とよい対照をなしている」と記している。435
彼は、中国の農業と思想体系が自然にならって自然の道に従っており、こうしたやり方が政府の支持を受けて、政府は個々人の経済活動にできるかぎり干渉を控え、税を減らそうと努めていることを見いだした。彼は、こうした中国の政治経済思想が、道家の道と無為の概念に凝縮されていると見た。したがって中国では、君主が国民経済に干渉したりそれを指導しようとしたりする考えを捨て、民が自らの道、すなわち道に従うようにすることに力を注いでいる、と観察した。436
フランスの重農主義の思想家たちは、毎年春に中国の皇帝が、民の勤労意識を育てるために率先垂範するという次元で種まきの手本を示すが、これは自然を敬う意味を持っていると見た。しかし東洋の文明において、自然への敬意は、西洋の宗教のように自然が神聖であるとか聖なるものであるという含意を持つものではなかった。なぜなら、中国の思想体系のなかでは、超自然的なものを神聖視する哲学を尊ばず、むしろ蔑みを感じるからだと見た。東洋の文明は、自然に存在する法則に従って働く、自らを律する体系が最善の方策であると見て、そうすることですべての人に最大の利益をもたらすものと考えた。そのため、支配者は民のために率先垂範すること以外には干渉しないのが最上の支配の方法であり、これこそが無為の思想である。
啓蒙の時代の思想家たちにとって、無為の思想の重要性は、ケネー、ド・グルネー、ポワーヴルら重農主義者たちだけにとどまらなかった。彼らは、法律と政治経済の思想が、いずれも自然哲学と無為の思想にならわなければならないと見た。彼らは、「法を定める人も法も、ともに自然の道という原則を認めなければならない」と考えた。そうすることで、「中国の理想的な行動様式である無為」にならうことができると見た。「中国では、無為の思想こそが政府の政治経済の中心思想である」と評価したのである。437