1) 精神崇拝の文明の始まり:松かさ(Pine Cone)と魂の目(Eye of Soul)
西洋は数千年にわたって、精神と本能を別のものとして扱い、精神を崇める文明を推し進めてきた。ギリシア、エジプト、中東では、脳の構造が精神の存在を表していると考え、それを絵や彫像に表した。彼らは、人体を解剖すると脳の構造のなかにある松果体(Pineal gland)が、精神や霊魂の実体的な形であると考えた。松果体とは、松かさのような形をした腺の解剖学上の名である。自然のなかの「松かさ」(Pine cone)が、松果体と形がとてもよく似ていることに目をつけたのである。そのため西洋など啓示宗教を生み出した文明では、松果体に似た松かさの形の彫刻が重んじられた。それが人間の「心、霊魂、霊、精神、あるいは神から授かった理解力」を表すと考えられた。また松かさの螺旋構造は、フィボナッチ数列と黄金比を含んでいるので、人間に自然のなかの秩序を示し、それについての精神的な探究へと結びつける役割を果たしたと考えられる。
こうした現象は、数千年にわたって、メソポタミア、エジプト、ギリシア、ローマ、そして近代の西洋でも広く用いられた。バビロンの人々は、神が松かさを石像の真ん中に持つ形で神像を刻んだ。「タンムズ」はバビロニアとシュメールの地の神である。右手に霊魂を表す「松かさ」を持っている。エジプトのオシリス神の杖にも、真ん中の最も重要なところに松かさが刻まれている。エジプトのオシリス神の王笏では、霊魂を表す「松かさ」を二匹の蛇が取り巻いている。ギリシアの神ヘルメス(ローマの神メルクリウスと同じ)も、オシリスの像のように、自分の杖の真ん中に松かさを刻み込んだ。ヘルメスの杖「カドゥケウス」(Caduceus)は、松かさと二匹の蛇で飾られている。ギリシアの神ディオニュソスの杖の先にも松かさが刻まれている。ディオニュソスの杖「テュルソス」(Thyrsus)では、霊魂を象徴する松かさが杖の先を飾っている。

右手に霊魂を表す「松かさ」を持っている。

霊魂を表す「松かさ」を二匹の蛇が取り巻いている。


松かさと二匹の蛇で飾られている

霊魂を象徴する松かさが杖の先を飾っている
精神の能力を崇める文化現象は、古代から中世、近世まで、西洋の文明のなかでそのまま受け継がれてきた。中世になると、ローマ教皇庁は松かさの彫刻で聖堂の入り口を飾るようになった。ローマのヴァティカンの入り口には、巨大な「松かさ」の飾りが立っている。

近代になっても、アメリカのニューヨークにあるホワイトホール・ビル(Whitehall Building)の壁には、松かさを真ん中に置いたヘルメスの杖の彫刻が取りつけられている。ニューヨーク市のホワイトホール・ビルに飾られた「カドゥケウス」の杖では、その核心である「松かさ」の彫刻がくっきりと見える。

杖の核心である「松かさ」の彫刻がくっきりと見える
このように松果体(Pineal gland)は、松かさの彫刻として、西洋、エジプト、中東の地で数千年にわたって文明の核心として登場した後、さらに一歩発展する。松かさはやがて形象化されて、「第三の目」として表される。実際、脳にある松果体の構造を解剖学的にそのまま表した彫刻がエジプトで広く流行し、それは「目」として表された。これをエジプトでは「ラーの目」あるいは「ホルスの目」と呼ぶ。この目はさらにギリシアで、「第三の目」あるいは「魂の目」(Eye of Soul)と呼ばれるようになる。

この目はギリシアでは「第三の目」あるいは「魂の目」と呼ばれるようになる

松果体(pineal gland)の解剖学的な形を形象化したものである。
プラトンは「ホルス」の目を「第三の目」、すなわち「魂の目」として表した。彼は、精神に宿る魂の目によって、宇宙の真理を見、表すことができると考えた。
我々はいまや、魂の目を用いて、万物を貫く宇宙の光を見、永遠の真理へと向かうことができなければならない。167
彼は、我々は肉体の目ではなく、それよりも1万倍も強い魂の目を用いて永遠を追い求めなければならないと叫んだ。彼は、魂の目だけが真理に到達すると力説した。宗教的、形而上学的な発見に絶対性を与える哲学である。
魂の目は、1万の肉体の目よりも重要である。魂の目だけが真理を見ることができるからである。168
松かさが精神を表すという中東と西洋のこうした哲学は、広く長く伝わり、インドと仏教にも影響を及ぼした。そのため、インドのシヴァ神の彫像を見ると、額に魂の目が描かれている。アフガニスタンで発掘されたガンダーラの仏像の額には「第三の目」がある。その影響で、仏教の仏像にも額に「魂の目」が描かれた。また仏陀の髪も、松かさのような形の縮れた形に刻まれる。我々は仏像に、「第三の目」と「松かさの形の髪型」で飾られた、西洋の文明の影響を受けた姿を見ることになる。



魂の目は、西洋の精神の時代にも、その後にも、大きな輝きを放つ。1789年にフランスで公式に発布された権利宣言の図の真ん中には、「魂の目」(Eye of Soul)、すなわち第三の目が描かれている。アメリカで使われている1ドル紙幣の裏面にも、第三の目が神の目の形で真ん中に描かれている。アメリカの国章として、1ドル紙幣の裏面に描かれているのである。「神の目」(Eye of Providence)が、ピラミッドの形の上の部分を飾っている。

「魂の目」(Eye of Soul)が描かれている。

「神の目」(Eye of Providence)がピラミッドの形の上の部分を飾っている。
このように、松かさと魂の目を通じて人間の精神を崇める思想の基盤が、数千年の歴史を通じて西洋の文明に根づいていく。精神の崇拝は、西洋文明の近世に新しい形をとることになる。松かさや第三の目のような図像による精神の崇拝から、精神のなかへ入り込んでそれを表すというやり方をとるのである。これが、本能から切り離された精神を重んじる西洋文明の「形而上学」である。
2) 精神崇拝の文明の広がり:イメージから哲学体系へ
人間の本性についての人為的な区分と説明の代表的な例が、本能と精神(身体と精神、情念と知性、生理と心理、感性と理知、肉体と霊魂)などに二分して説明する姿勢である。西洋の文明は2000年にわたって、こうした区別を当然のものとみなし、精神を肉体と対立させて、ひとつの独立した現象として見ようとしてきた。我々は何者かという問いに対して、霊肉闘争という人性論を掲げるのである。古代のプラトンは、霊魂はイデアの世界を志向するが、肉体は感覚的な欲望に縛られて霊魂を妨げると考えた。中世のキリスト教では、霊は神的で善いものであり、肉体は欲望と罪の源として霊と対立すると考えた。西洋において神は自然の神ではなく、正義の神、善き神、すなわち精神の産物である。そして何よりも、三位一体論によく表れているように、霊的な存在である。その神のかたちにならってつくられた人間もまた、根本的に霊的で精神的な存在として扱われる。近代の西洋の合理主義において、デカルトは、精神と肉体を別々の実体として区別する二元論のなかで、精神の重要性を主張した。
古代の形而上学、中世の神本主義、近代の合理主義
ソクラテス以前のギリシアの文明では、本能と精神のあいだの「均衡」という概念がかなり大きな比重を占めていた。精神の普遍化や、精神と本能のはっきりした分離はまだなく、均衡をなしていた時代であり、アポロン的なものとディオニュソス的なものが互いに牽制し合っていた。ギリシアの文明において、アポロン(Apollo)は理性と精神の象徴である。ディオニュソス(Dionysus)は感覚と本能の象徴である。精神と本能、すなわちアポロン的なものとディオニュソス的なものが対立していた。ニーチェはこうした状況を説明している。
ギリシア芸術の二柱の神であるアポロンとディオニュソスを通じて、我々は、ギリシアの世界において、アポロン的な芸術である造形芸術と、ディオニュソス的な芸術である非造形的な音楽芸術とのあいだに、その起源においても目的においても、激しい対立関係があったことを知る……両者はひとつに結びついて現れ、この結合体として、アポロン的であると同時にディオニュソス的な芸術が生まれた。それがすなわちアッティカ悲劇である。169
こうした対立関係を決定的に打ち壊したのが、ソクラテス、プラトン、アリストテレスの三人の哲学者である。彼らは形而上学を唱えた。すなわち、精神こそが人間の本性であり、肉体は物質であって何の価値もないと主張した。人間のあらゆる努力は、肉体から切り離された精神を探究し、それを通じて永遠の真理に到達しなければならないと主張した。精神崇拝の伝統はギリシアと地中海の文明で続いていたが、それを哲学にしたのが彼らである。彼らは、ギリシア人だけが神の与える精神や霊魂を持っていると考えた。彼らの霊魂崇拝の思想はピュタゴラスから学んだものである。彼らはまた精神を人間の本質と表現したが、これは「感覚は人を欺き、精神だけが真理を認識する」というパルメニデスの思想を踏襲したものである。彼らは、とりわけアリストテレスに至って、精神を研究することを形而上学と呼び、哲学の要諦として重んじた。人間の本能をおとしめ、人間の本能は動物の本能と同じだと分析した。彼らはピュタゴラスの霊魂崇拝の思想とパルメニデスの精神崇拝の思想を結びつけ、霊魂と精神を同一視して、精神崇拝の哲学を西洋の文明に広めるうえで決定的な影響力を行使した。
彼らにとっては、精神、すなわち霊魂が重要であった。とりわけアリストテレスは、ペルシア人などの野蛮人は霊魂のない動物と同じだと考えた。そこで彼らをすべて奴隷にすべきだと主張した。本能と精神を区別する二元対立論の哲学は、ソクラテスとプラトンを経て、アリストテレスにおいて完成した。存在論的な立場から、ギリシア人と野蛮人、男と女のあいだの霊魂と精神の面での違いは永遠であると考えた。彼は偉大な哲学者であるが、人種差別とジェンダー差別の基礎を築いた。アリストテレスは著書『政治学』(Politics)に、次のような文章を残している。
しかし野蛮人のあいだでは、女と奴隷は同じである。彼らのあいだには生まれながらの支配者がいないからである。彼らは男の奴隷と女の奴隷から成る集団にすぎない。だから詩人たちは「ギリシア人が野蛮人を支配するのは当然である」と言う。あたかも野蛮人と奴隷は生まれつき同じものだと考えているかのように。170
ソクラテス以前のギリシア悲劇に表れる神への人間の服従、すなわち運命への人間の従順は、東洋の文明に表れる自然と人間の調和に似ている。また東洋の詩が人間と自然の調和を表すように、ヘレニズムの彫刻は精神と本能の調和を強調している。この点で、ソクラテス以前のギリシアの文化は、ソフロシュネー(Sophrosyne)と呼ばれる中庸の文化としての特色を持っていた。こうした中庸と均衡の状態は、ソクラテス以前のギリシア文化のいたるところに見られる。ギリシア人は宗教を持っていたが、それは一神教ではなく多神教であって、さまざまな神々が互いに牽制し合うなかで均衡をなしていた。またゼウスを含むすべての神々が、運命に従属するという宿命を負っていた。
ギリシア神話で「運命の神」(God of Destiny)は三柱の女神であり、「モイライ」(Moirai, The Fates)と呼ばれた。ゼウスなど不死の神々も、彼女たちの定める運命に従わなければならなかった。運命が神々の不死と均衡をなしていたのである。また、パルメニデスを筆頭とするエレア派の一団が示した、精神の絶対性を主張しようとする形而上学的な姿勢は、体育に大きな重きを置いたギリシア人の教育のあり方によって牽制され、均衡を保つことができた。こうしたギリシア的な均衡が、運命への抵抗と神の罰を主題とするギリシア悲劇の主題をなしている。
こうしたギリシア的なヒューマニズムが、人間の運命への抵抗と神の罰を主題とするギリシア悲劇の主題をなしている。アイスキュロス(Aeschylus)の悲劇も、運命への人間の抵抗と神の罰のあいだで均衡をなしているが、すでに風向きは人間の抵抗の側に立っていた。こうした不安定な均衡は、ソクラテスにおいて極度の緊張をもって現れる。「絶え間ない問い」と「何も知りえない」という極端な態度のあいだで、ギリシアのヒューマニズムの表現はその極致に達する。しかしソクラテスは、均衡の終着点であると同時に、分裂の出発点でもある。「絶え間ない問い」を投げかけながら、つねに「何も知りえない」という結論に至るのは、「最も賢い」ソクラテスにしかできないことである。それ以外の人間にはほとんど不可能であることを、ソクラテス以後の西洋の文化史は我々に示している。
ヘレニズムの文明は、精神と本能の調和と一体感を切り開き、精神的なものの本体を解剖して絶えず探究するなかで、精神に絶対的な価値を与える作業を始めることになる。結局、知恵よりも知識を重んじるようになる。ソクラテス以後の西洋の文明は、知識の絶対性を信じ、知恵よりも知識の探究に没頭する。精神と本能が切り離され、アポロン的なものとディオニュソス的なものが切り離されるにつれて、ギリシア悲劇もまた壊された。
ソクラテス的な理論の意味を考えてみよう。それは、「知ることこそが徳である」、人間は「無知によってのみ罪を犯す」、そして「徳を備えた人間は幸福である」というものである。楽観主義を表すこの三つの格言は、まさにギリシア悲劇の死を意味している。171
ギリシア悲劇の死は、すなわちギリシアの文明が享受していた本能と精神の調和が壊されることを意味する。本能と精神の均衡の破壊は、ソクラテス、プラトン、アリストテレスの哲学によるものである。彼らこそが、ヘラクレイトスらが唱えた不顕論を捨てて、精神を崇める示顕論を西洋の文明に選ばせた張本人である。示顕論は、ソクラテス以後、中世を経てルネサンス期に至るまで、2000年近く西洋の哲学史を支配することになる。
それは、西洋の文明が、ギリシアの文明においてソクラテス、プラトン、アリストテレスに代表されるいわゆる示顕論者たちの理論を採用し、宗教の力に拠っていたからである。ソクラテス以前のギリシアの文明には、ソクラテスに至るまで、数百年にわたってアポロンとディオニュソスのあいだで均衡をなしていた時期があった。この時期には、示顕論者たちの哲学とともに、ヘラクレイトスのような不顕論者たちの哲学も同時に重要性を発揮していた。これは、ギリシアの文明が精神と本能のあいだの「均衡」の重要性を意識していたからである。彼らは中庸と節制を強調していた。しかしソクラテスの時代には、すでに時代の流れはディオニュソスに背を向け、アポロンの側に立っていた。
西洋の精神崇拝は、何よりも宗教とかかわっている。精神を神と結びつけたからである。人間は「神のかたち」(Imago Dei)を持っている。「神は言われた。我々のかたちに、我々に似せて、人をつくろう」(創世記1:26)。「神は霊である」(ヨハネによる福音書4:24)。西洋において、神のかたちにならってつくられた人間もまた根本的に精神的な存在として扱われたのは、当然のことであった。
西洋では、宗教とともに、形而上学という哲学の分野でも精神の重要性が強調された。アリストテレスは形而上学を定義するにあたって、それを物質と対比される精神の研究として扱った。彼は形而上学を、存在と実在の本質を探究する哲学の分野として、存在論(ontology)などのさまざまな分野に分けた。こうした哲学的な傾向は、中世の宗教でも最も重要な分野とされ、近世の哲学でも精神の重要性が強調されるようになった。合理主義に大きな影響を及ぼした西洋の近世の哲学者ライプニッツ(1646―1716)は、人間の精神の偉大さについての見解を表明した。
人間が世界を知りうるということには、何の驚くべきこともない。人間は自らのうちに世界を持っており、自らが縮小された神の似姿だからである。172
神本主義が人間の精神へと移っていく合理主義の始まりである。これによって、神と人間の精神の密接な関係は、西洋の文明にいっそう広く行き渡るようになった。中世の1000年のあいだ、宗教についての書物のほかは出版が禁じられていた。スコラ哲学は、ひたすら聖書を研究し、宗教だけに集中する神本主義の哲学である。ルネサンスの初期に人文主義に立脚したボッカッチョの『デカメロン』とマキャヴェリの『君主論』が重要になったのは、それらが神本主義から人文主義への移行を告げる最初の書物だったからである。ルネサンス期の巨匠ミケランジェロが残したシスティーナ礼拝堂の天井画にも、神が人間に精神を吹き込む場面を描いた絵がある。当時のローマ教皇庁は人体の解剖学的な描写を厳しく禁じていたので、彼は神の背景に人間の脳を配置し、神が脳のなかにいるという方法を用いたのである。1510年ごろのミケランジェロの絵『アダムの創造』では、脳を背景にした神がアダムに精神を授けており、西洋の文明における精神の重要性を強調している。
西洋の文明では、精神現象を超自然的なものとして扱う。超自然的な神が、超自然的な精神を人間に授けたと信じられていた。精神は、神がほかの動物を除いて人間にだけ与えたものである。精神は肉体と対立する関係にある。「肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思う。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和である」(ローマの信徒への手紙8:5―6)。精神と本能の分離と対立は、キリスト教の重要な教義であるだけでなく、ギリシア・ローマの哲学でもそのように受け入れられていた。それは、ローマの皇帝ユリアヌス(330―363)が死の前に残した言葉にもはっきりと表れている。「わたしは哲学から、霊魂が本能よりもどれほど重要であるかを学んだ。死に臨んで霊魂が切り離されることは、苦しみではなく喜びである。」173
精神崇拝という人間の本性の解釈は、西洋の文明の核心として根を下ろすことになる。精神崇拝の哲学は、ギリシアの示顕論に始まり、中世の宗教の時代、近世のデカルトの形而上学を経て、最終段階へと入っていく。それが20世紀のイデオロギーの時代である。中世の宗教の時代に、西洋は啓示宗教の研究だけに集中する。神が人間に与える精神の研究である。中世の宗教哲学は、啓示宗教とプラトンの哲学を結びつけようと努めた4世紀のアウグスティヌスに代表される。11世紀以後、トマス・アクィナスに代表されるスコラ哲学は、宗教とアリストテレスの哲学を結びつけようとする試みであった。精神に集中しようとするこうした努力は、ルネサンス以後デカルトに影響を及ぼし、デカルトは合理主義に代表される近世の形而上学の基礎を築くことになる。彼は、中世のキリスト教的な「精神」を、形而上学的な「精神」に置き換える役割を果たしたのである。
キリスト教が支配した中世とルネサンス期を越えて、西洋は17、18世紀に哲学的な変化を迎えることになる。我々が啓蒙時代あるいは精神の時代と呼ぶこの時期に、西洋は、宗教と聖書に絡みついたドグマから解き放たれる「啓蒙」を経た。天動説など聖書に書かれていることをそのまま真理として信じるのではなく、人間の持つ精神によって検討し、その真偽を判断しようというのである。こうした検討は、西洋で進んでいた天文学の発達によって天動説が地動説に取って代わられるという巨大なパラダイムの転換から刺激を受けた。
このように、聖書に記された絶対真理の内容の一部が疑われるようになると、神の性格についての疑いが生まれた。とりわけ、預言者たちが神に会って伝えた真理、戒め、律法などが、本当に神から来たものなのか、それとも預言者の想像から来たものなのかを検討する段階に至った。そこで西洋の思想家たちは、神は存在するが人間の営みには介入しないという理神論という新しい思想を打ち立てた。理神論によって、西洋の人々は奇跡、地獄、サタンなどから解き放たれた。
理神論者たちは、預言者が伝えた神の言葉が絶対真理なのではなく、人間の精神が判断することこそが正しいと主張した。神本主義ではなく、精神に拠ることこそが知識の源泉だと信じた。精神が裏づける考えと科学への信頼を高めて、18、19世紀の産業革命の基礎を築き、神との契約による教会の権威ではなく、新しい人性論による政府の構成を追い求め、教会と国家の分離を主張した。啓蒙時代の始まりは、17世紀のフランシス・ベーコン、ルネ・デカルト、バルーフ・スピノザ、アイザック・ニュートンらの著作から霊感を受けた。
しかし、西洋の文明において、精神の能力への評価が精神の時代を経てさらに強くなったことに注意を向けなければならない。哲学的に分析すれば、西洋の文明が精神の時代を経るにあたって、二つの選択の可能性が開かれていた。西洋には、精神と本能の調和を唱える哲学に従って精神の力をあるべき場所に置こうという可能性と、精神の普遍化をなそうという哲学に従って本能をいっそう無視し、精神の力をいっそう大きくしようという可能性があった。ここで西洋は後者、すなわち精神の重要性を強調する精神の普遍化の道を選んだのである。
こうしたアポロンの側に偏った傾向が西洋の文明の基礎をなしていたため、ルネサンス期に精神と本能がともに存在していた時期は短く、流れはすでに精神の能力の普遍化の側に立っていた。精神と本能のあいだで、同じように一面の真理と偏った考えを含んでいたデカルトとマキャヴェリのうち、デカルトはたたえられ、マキャヴェリは多くの人々の非難の的となった。
精神の普遍化の時代を風靡した、デカルトからマルクスに至る西洋の精神史は、次のように図式化することができる。デカルト――我思う、ゆえに我あり(reason)。カント――考えないわたしは存在しない(pure reason)。ヘーゲル――わたしのように考えない人間は存在しない(absolute reason)。マルクス――わたしのように考えない人間は、その存在しないことを政治的な現実(praxis)によって証明しなければならない。彼らはみな、自らが唱えた精神が絶対的な価値を持つと信じていた。とりわけマルクスに至って、彼の歴史的精神の絶対的な価値は、反対者の除去を主張することで、その絶対性をいっそう強調することになった。
マルクスはこの世界を白黒の論理で見て、自分に同調しない者は無条件に敵とみなした。彼は自分が誰の側に立つかをはっきりと認識し、自分は彼らのために闘い、彼らが最後には勝利すると確信していた。174
精神が脳のなかに別に存在すると信じたデカルトから、道徳の義務論を唱えたカントとヘーゲルに至るまで、西洋の哲学は合理論者たちが支配した。彼らの影響で、人間において最も重要なのは精神であり、精神がすべてをつくり出すと思い違いをする時期が、西洋に広がることになる。人性論から見ると、西洋の哲学者たちが犯した最も重要な問題は、「精神は、本能にないものをつくり出すことができる」というとてつもない錯誤を犯したことである。西洋の合理論者たちがつくり出したこうした傾向は、イデオロギーの時代の悲劇に帰着する。人性論の面で、我々が繰り返し強調し、受け入れなければならない原則がある。「本能にないものを、精神が自らつくり出すことはできない」ということである。
西洋の合理主義者たちは、時が経つにつれて本能からますます遠ざかり、精神の能力だけに頼る現象を極限まで推し進めることになる。これが「精神の絶対化」、あるいは「精神能力の絶対化」という現象である。しかし精神の役割が大きくなれば、当然、本能がそうした精神の能力に反発することになる。西洋の文明が本能をさげすみ、精神だけを追い求める一般的な傾向を見せることに対して、それへの反作用が必然的に起こらざるをえなかった。
パーリア(Paglia)教授は、精神と本能の関係を、人間にとって避けることのできない解剖学的な脳、すなわち新しい脳と古い脳のあいだの関係として表している。「アポロンは秩序 vs ディオニュソスは無秩序」とせずに、「アポロンは秩序 vs ディオニュソスはエネルギー」と表したのは卓見である。本能は力の源であるエネルギーとなり、精神はエネルギーを調整する秩序となる。
アポロンとディオニュソスのあいだの闘いは、脳における新しい脳(the higher cortex)と古い脳(the older limbic and reptilian brains)のあいだの闘いである。結局、芸術とは、人間がつねに抱えるジレンマの表現である。そのジレンマとは、アポロンに表される秩序と、ディオニュソスに表されるエネルギーとのあいだのジレンマである。175
マキャヴェリからホッブズとショーペンハウアーを経てニーチェに至るまで、西洋の哲学史には、精神よりも本能に忠実な哲学者たちがいた。精神よりも本能に忠実であろうとするマキャヴェリの流れは、デカルトからマルクスに至る合理主義者たちの流れほどはっきりしてはいないが、ショーペンハウアーとニーチェにその痕跡を十分に見いだすことができる。同時に、ニーチェが意図したかどうかにかかわらず、彼の哲学はムッソリーニとヒトラーのファシズムに決定的な理論的裏づけを与えた。ヒトラーは、ニーチェのこうした影響などによってファシズムを育てていった。ヒトラー・ユーゲントの標語は、まさにニーチェから取られたものである。「わたしを殺さないものは、わたしをより強くする」(What does not kill me makes me stronger)。
この流れの元祖であるマキャヴェリは、デカルトが人間の本性の把握において精神に偏る誤りを犯していたように、人間の本性の把握において本能に偏りすぎる誤りを犯していた。マキャヴェリの重大な誤りは、彼が不道徳であることにあるのではなく、政治における道徳的な要因を十分に考慮しなかったことにある。マキャヴェリは人間の行動を、無道徳(amoral)な観点から観察したのである。人間は大脳辺縁系(limbic system)とともに、新皮質(neocortex)も持っている。傭兵隊長四人を奸計によって殺すチェーザレ・ボルジア(Cesare Borgia)は、重大な政治的失策を犯しているのである。176 精神を中心とする人性論のゆがみが起こると同時に、それへの反作用によって本能を中心とする人性論のゆがみもともに起こるという現象を、西洋の近代哲学史は示している。
この点で、西洋の精神文化史を、形而上学者たちが主張したように精神の発展と見る哲学が、一時流行した。しかしこうした哲学は、真実をつかむためのものではなく、精神に偏った合理主義者たちの主張であり、当時西洋が置かれていた状況を哲学によって正当化する働きをしたのである。西洋の近代史は、精神の発展ではなく、「疎外された精神」が主導権を保つなかで、それに対する「疎外された本能」の反発という形の弁証法的な状況として捉えるほうが、現実に近い。
マキャヴェリからヒトラーに至る疎外された本能の流れは、次のように図式化することができる。マキャヴェリの、道徳なき、勝利だけのための生の正当化(amoral)から、ショーペンハウアーの生きんとする意志(will to live)の哲学へ、そしてニーチェの力への意志(will to power)を経て、ついにヒトラーの、強者が生存圏(Lebensraum)を独占するという哲学へとつながっていく。
第二次世界大戦の精神文化史上の意義は、ファシズムの滅亡によって、コミュニズムの最も強力なライバルが取り除かれたことにある。コミュニズムは一部で正当化され賛美される一方、ファシズムは万人の呪いと非難を浴びることになった。ピカソは、共産主義に対する自分の心情は「喉の渇いた獣が泉へと向かう心情」だとはばかることなく公言し、サルトルらが支配した戦後の西洋の知識層は、左派のふりをしなければ尊重されず、それを誇りに思うという風潮のなかで、戦後の数十年を過ごすことになったのである。177
そして、疎外された精神であるコミュニズムに対抗すべき手段として残っているのは、疎外されていない人間の常識、西洋の哲学者たちが重んじなかった中庸だけであり、スピノザ、ヴォルテール、ゲーテ、レッシングらが、情熱と混沌の西洋哲学史のなかでも持ちつづけてきた洞察力だけである。ルネサンス以後の西洋の哲学史を見ると、「神学は大衆の形而上学であり、形而上学は哲学者の神学である」178 という言葉に共感せざるをえない。
精神崇拝の文明への批判:ヴォルテール、ニーチェ、ハイデガー
西洋の文明が形而上学的な哲学へと偏ることの問題の深刻さを、あからさまに指摘した人々がいる。18世紀の思想家ヴォルテール、19世紀の思想家ニーチェ、20世紀の思想家ハイデガーである。ヴォルテールとニーチェは、西洋の近世文明史の根幹をなす神学と形而上学の根本的な問題点を指摘した。ハイデガーは、精神に集中する西洋の哲学体系を批判し、人間の存在そのものに集中しなければならないという考えを展開した。彼らはさらに、西洋の近代史にとどまらず、西洋の文明が直面した問題の原因を、ソクラテスとプラトンのギリシア哲学にまでさかのぼって探ろうとした。彼らの示顕論を批判したのである。この三人の思想家は、形而上学の問題を指摘しながら、当然、西洋の哲学史でそれを主流にしたプラトンもあわせて批判することになる。プラトンは精神を「魂の目」と表し、精神崇拝の文明が西洋の哲学体系を支配するよう主導した人物である。
彼らの批判は、神学、形而上学、ギリシアの示顕論者たちを通じて、人間の本性の問題にまで行き着く。もちろん、ヴォルテールとニーチェの形而上学批判より前に、スピノザが本能と精神は切り離せないものであることを指摘し、西洋の合理論者たちの問題点を指摘していたが、西洋の文明は、人間の本性のうち精神の能力を重んじる方向へと哲学と文明を導いていく。そして本能を軽んじ、さげすむようになる。つまり西洋の近代史以後、西洋の文明は人間の本性のゆがみという問題に帰着するのである。人間中心主義は、人間の本性をゆがめる哲学の上に築かれたものである。
西洋の文明は、キリスト教から倫理にかかわるものを、ギリシア・ローマの伝統から知識にかかわるものを受け入れた。キリスト教は、人間と自然の関係、人間と人間の関係、精神と本能の関係において、調和よりも分離を選ぶ存在論の上に組み立てられている。西洋の文明は、こうした哲学の上に築かれた宗教を受け入れ、ギリシアの文化からも、調和よりも分離を、中庸よりも進歩に適したものを選んで吸収した。
近代史において、西洋は「形而上学的な真理」を、まるで中世の宗教の神のように奉じるようになった。こうした西洋の文明は、人間の精神、すなわち人間の精神の能力を過大に評価し、それに陶酔する哲学に拠るようになる。精神の普遍化は、結局、人性論において人間の本性をゆがめる現象を引き起こすことになるが、こうした現象に対して断固とした反対意見を表明した哲学者がヴォルテールである。
わたしは、形而上学についてのわたしのすべての考えを、これまで以上に退けるという結論に達した。また、わたしが足もとで絶えず崩れていく流砂の上を歩いているか弱い動物であり、自分がつねに正しいと信じることほど狂ったことはないという結論に達した。179
ヴォルテールは、絶対的なものを主張したり、自分の主張することがつねに正しいと見たりする形而上学の無価値さについて、次のように述べている。
ほとんどすべての形而上学の本の最後に、ローマの裁判官が同意しないときに用いた二つの語を書きつけておこう。すなわち「Non liquet」、「これは明らかでない」と。180
形而上学について、フォイエルバッハも同じ見解を示している。とりわけ、形而上学と神学の共通点は、示顕論、すなわち絶対的なものを人間が表現でき、それを真理として固く信じることにあると指摘した。彼は「ヘーゲルの哲学を捨てないということは、神学を捨てないということと同じである」181 と述べた。この面から見れば、形而上学者たちは、示顕論を追い求めるという次元で神学と同じ次元にとどまり、真の哲学の発達を妨げたと言える。
形而上学とは、結局、哲学が溶かされ単純化されていくことにしだいに警戒を覚えるようになった、神学の一種にすぎない。182
結局、ルネサンス以後の西洋の形而上学は、人間が絶対的なものを表現し、それを信じるという点で、大きな流れとしては中世の神学の連続と見ることができる。これら神学的な形而上学者たちは、形而上学的な真理を追い求めながら理想郷を示し、人間をその方向へと駆り立てようとした。
ドイツ人は、古い「理想」を取り戻し、「理想」と真理をふたたび結びつける便法を見つけた。しかしそれは結局、科学を拒む権利と嘘をつく権利を正当化する手立てにすぎなかった。ライプニッツとカント! この二人こそ、西洋の知的誠実さを最もひどくゆがめた二人である。183
ニーチェはこの点を指して、「ライプニッツもカントも」、「形而上学の殻をかぶった神学者」と見ることができると喝破した。
カントの成功は、神学者としての成功にすぎない。ルターにならい、ライプニッツにならったカントは、前進を妨げる役割を果たし、ドイツ的な硬直の不協和な拍子に合わせた、もうひとつの木靴にすぎない。184
彼らは、神学や形而上学によっては到達しえない真理を探すことに熱中して、正常な生の喜びを抑えつけつづけ、誰のためのものか、何のためのものかもはっきりしない義務だけを掲げて、人生を暗く殺伐としたものにした。カルヴァンがジュネーヴに築いた神の国も、ルターが描いたプロテスタントの社会も、クロムウェルがイギリスで束の間実現した世界も、いずれもカントが考えた道徳律が実現した社会と大差ない。
内なる必然も、深い個人的な選択も、喜びもなく、ただ義務の自動人形として働き、考え、感じること、それ以上に速く人間を壊すものがあるだろうか。これこそが、退廃と愚かさを製造する方法である……カントは自ら愚かさを選んだ。それがゲーテと同時代の人間だとは!185
生に対する西洋文明のこうした否定的な態度は、キリスト教の原罪の思想に表れる態度と根本的に一致している。こうしたキリスト教の教義が、ギリシア哲学のなかでも、生の喜びを評価しないソクラテスとプラトンの影響を大きく受けているのは当然だと言える。生の喜びを認めることは、東洋の文明の重要な特徴のひとつである。この点は、インドの仏教とも大きな違いをなしている。
インドの仏教は、「人生は苦である」という命題から出発している。これらはみな、東洋の文明が表している生の喜びを無視し、あるいは忘れている。しかし人間にとって、「生理こそが根本であって、怪理や病理が根本であることはありえない」。186 東洋の哲学が生理(人生は喜び、joy)を根本としたとすれば、西洋の哲学は怪理(人生は罪、sin)を、インドの哲学は病理(人生は苦しみ、suffering)を根本としたと言えるだろう。
『論語』先進篇で、軍事的な勝利や政治的な偉業、祖先崇拝よりも高く評価された「莫春には、春服既に成り、冠者五六人、童子六七人、沂に浴し、舞雩に風じ、詠じて帰らん」187 という「生の喜び」は、西洋の文明からはきれいに姿を消している。儒家が最も重んじる『論語』は、「朋有り遠方より来たる、亦た楽しからずや」という「生の喜び」を表すことから最初の一文を始めている。孔子は「之を知る者は之を好む者に如かず、之を好む者は之を楽しむ者に如かず」188 とまとめ、「生を楽しむことのできる能力を、知識よりも高く評価」している。
生の喜びを義務への情熱で置き換えようとする傾向は、西洋の中世のキリスト教や近世の形而上学において際立っている。しかしこうした傾向の根源は、ギリシアの文明におけるソクラテス以後の示顕論に見いだすことができる。プラトンが描いたソクラテスは、「人を怒らせ、憤らせる」。論理は整然とし、表現は壮大で優雅だが、ヴォルテールが言ったように、「朝の一番鶏が鳴いて物の怪が消えるとき」に正気に返って考えてみると、あきれるような詭弁が数多い。『ソクラテスの弁明』でプラトンは、感動的なソクラテスの最期を描いてみせている。しかし、老子と孔子をはじめとする中国のあらゆる賢人たちが戒め、退けた美辞麗句や奇妙な表現を取り除いて要点だけを抜き出すと、死と生についてのプラトンの哲学は次のように表すことができる。「死は長い眠りにすぎないか、来世につながっているか、そのどちらかである。だから長い眠りを眠るのもよいことであり、来世に行って先に着いている先輩の賢人たちに会い、楽しく語り合いを続けるのもまたよいことである。したがって、生と死のどちらがよいのかは誰にもわからない。」おおよそこのようなものである。何という途方もない詭弁であろうか。
生の喜びはみなどこへ行ったのか。ソクラテスが死をそれほど楽しいもの、よいものと考えていたのなら、他人が自分を殺しても無関心でいるか、むしろ感謝すべきではないか。実際、ソクラテスは死を淡々と受け入れたように見える。妻のクサンティッペが「あなたがこんなに不当に死ぬなんて!」と悔しがると、ソクラテスは「では、わたしが正当に死刑になるほうがよいのかね」と言い返した、あるいは慰めたと伝えられている。プラトンは生の喜びについては一切言及せず、死によってその喜びを失う悲しみについては一切考慮していない。
ソクラテス以前のギリシアのシシュポスの神話においても、冥界の王ハデス(Hades)まで欺くほど強烈なシシュポスの生の喜びへの執着は忘れられ、石を押し上げる運命に逆らったシシュポスのイメージだけが、西洋の文明で英雄のイメージとして奉られている。ソクラテスは、人間には無限の進歩が可能だという楽観主義を創始した、気丈な人間だったのかもしれない。しかし、進歩が虚構にすぎないのなら、進歩の名のもとに「本能的な生の喜び」を消し去った詭弁家だったのかもしれない。プラトンは、知識だけに価値があり、生の喜びを含むほかのすべてには何の価値もないと強弁することで、形而上学的な義務を何よりも重んじる哲学を西洋の文明に伝えたのである。
東洋の、生に対して感じる喜びは、宗教的な絶対者への崇拝や形而上学的な絶対性への服従から来る歓喜とはまったく異なる人性論に由来する。東洋の人性論は、本能と精神の一体感を認めるところから出発するが、西洋の人性論は、本能を無視し、精神の優越を認めるところから出発する。こうした人性論が、すなわち自然論と超自然論の出発点となる。本能と精神の均衡や調和を壊し、精神の優越を主張することが、すなわち示顕論の基礎となる。そして超自然性とよくなじむのである。宗教の名を借りたさまざまな迷信やドグマに立ち向かって闘ったヴォルテールは、神の示顕論的な属性は、西洋人が必要としてつくったものであって、神が人間に知らせたり命じたりしたものではありえないと考えた。
ヴォルテールによれば、西洋の人々は自らの必要のために神の属性を曲げて解釈し、思うままに利用し、他人を説得するために神に奇跡まで起こさせる。天地万物を創造し秩序を打ち立てた神に、自らその秩序に背いて奇跡を行わせることこそ、最大の不敬罪ではないか。
なぜ神は奇跡を行わなければならないのか。数人の人間に対して神の意図を実行するためにそうするのだとすれば、神は次のように言うことになるだろう。わたしは、宇宙の創造によっても、わたしのすべての宇宙の秩序によっても、わたしの永遠の法則によっても、わたしの意図の一部を成し遂げることができない。だから、わたしの永遠の法とわたしの考えを一部改めて、わたしの法と考えではできないことを実行しなければならない、と。こうした言葉は、神の能力ではなく無能を表すものであり、想像もつかない自己矛盾である。したがって、神に奇跡を起こさせることを敢えて想像することこそ、神聖冒涜を犯すことである(もし人間が神を冒涜しうるとすれば)。それはまるで、神に向かって「あなたはか弱く、つじつまの合わない存在だ」と言うのと同じである。だから奇跡を信じることは愚かなことであり、神への不敬となるのである。189
ヘーゲルはこうした奇跡を正当化しようとするあまり、「奇跡はきわめて相対的なものであり、磁石が示す現象もまさに奇跡のひとつである」190 という、あきれた強弁を、彼の有名な歴史哲学のなかで並べ立てている。奇跡を行う神は、当然、自然から切り離され、自然と対立するか、自然を超越する存在でしかありえない。そしてそのかたちにならってつくられた人間が、自らをその神と同一視することで、人間もまた自然から隔てられ、超自然的な存在へと化けるという過程をたどることになる。スピノザの哲学が主張したように、結局、神は自然と同一視されざるをえないのである。
ソクラテスがはやらせた「汝自身を知れ」(know thyself)という言葉は、まさに自らの内面の世界に目を向けよという表現であり、それはプラトンとアリストテレスの形而上学的な姿勢によって、自らの本質を知ることができるという主張へと姿を変えた。真理をつかむことができ、絶対的なものを知ることができるという態度こそが、示顕論の核心である。示顕論のこうした態度は、プラトンが描いたソクラテスによく表れている。
これこそが、理論家のなかで最も率直なレッシングが、真理そのものよりも真理を探究することに重きを置こうと勇敢に語った理由である。彼はこの言葉によってあらゆる衒学者たちを驚かせ怒らせたが、科学の深い秘密を暴いたのである。きわめて率直な表現であるこのまれな告白と並んで、ソクラテスにはじめて現れる根深い幻想が存在している。すなわち、精神の能力は因果律を土台として人間の存在の根底にまで届くことができ、それを知ることができるだけでなく、正すことさえできるという揺るぎない信念がそれである。こうした気高い形而上学的な幻想は、本能のように科学にまとわりつき、科学が芸術と化すまで絶えず科学を導く。ここにこそ、こうしたメカニズムの目的があるのである。191
しかし、汝自身を知れという格言を形而上学と結びつけると、自分が見いだした真理を絶対的に主張するという結論に通じることになる。知りえない本質を知ることができ、それを見いだしたと主張する態度は、神学と形而上学の本質である示顕論に通じる。しかし神のほかには、誰も自分の本質を知らない。ヴォルテールの主張である。
もし自分自身の霊魂を見ることができたら、じつによいことだろう。「汝自身を知れ」はすばらしい格言である。しかしそれを実現できるのは神だけである。神のほかに誰が自分の本質を知ることができようか。我々は、何か我々を動かし奮い立たせるものを霊魂と呼んでいる。我々の知力の限界のおかげで、我々はそれ以上のことは何も知らない。人類の4分の3はそれで満足し、考える存在であることについて、それ以上居心地悪く思うことはない。残りの4分の1はそれを知ろうとする。しかし誰もそれを見いだしたことはなく、これからも見いだすことはないだろう。192
ゲーテとともにスピノザを理解した数少ないヨーロッパ人のひとりであるレッシングは、こうしたヨーロッパ文明のなかの人間を指して、「人間とはまさに、自分のいわゆる精神についてしだいに誇大妄想に陥ってしまった肉食の猿の一種である」と評した。193 こうした精神的なもの、ニーチェの表現を借りればアポロン的なものに圧倒されたヨーロッパの文明のなかでは、全体をつかんだゲーテのような全人だけが、「自然の核心は人間の心ではないか」194 と叫ぶことができたのである。
ホモ・サピエンスは、ほかのすべての種に見られる生理的な欲求や必要のほかに、とりわけ発達した文化的・社会的な生活への欲求や必要を持つようになる。これが人間の特性である。人間は社会的動物(social animal)であると言われたのも、まさにこうした特色を指している。しかしこうした表現には特別な注意が必要である。人間は「社会的動物」であって、「社会的」動物でも、社会的「動物」でもない。
「精神能力の普遍化」という現象は、形而上学として、西洋の科学とともに、理論と基礎として互いに補い合う関係を保ってきた。しかし、絶対を主張した西洋の科学、すなわち示顕論の古典物理学が、不顕論の現代物理学に包み込まれることで、2000年あまりにわたって神学と形而上学が拠ってきた哲学、すなわちユークリッド幾何学とニュートンの力学体系は、限界に突き当たることになった。アインシュタインは、西洋の人々が神のように信じてきた科学的真理というものは絶対的なものではありえず、人間が見いだしたものを絶対的なものと信じるのはひとつの妄想であると述べている。
「真理」という概念は、純粋幾何学の命題には当てはめることができない。なぜなら「真理」という語は、究極的には「現実の」物体や対象と一致することをいうからである。しかし幾何学は、幾何学的な概念と経験的な対象とのあいだの関係を扱うのではなく、幾何学的な概念どうしの論理的な関係だけを扱っているからである。195
しかし、科学のパラダイムの転換を引き起こすこうした決定的な発展にもかかわらず、西洋の哲学は、歴史的な神と精神を崇める傾向から抜け出せずにいる。近世の形而上学が中世の神学を受け継いだように、新教は旧教を受け継いだ。ルターは歴史的なキリスト教の伝統を受け継ぎ、立て直したのである。
ルター、あの宿命の修道士は教会を立て直した。しかしそれよりも深刻な問題は、キリスト教がまさに消えようとしていたその時期に、キリスト教を立て直したことにある。196
このように西洋の文明が示顕論の枠から抜け出せないのは、西洋の文明の伝統のためである。西洋の文明は、ソクラテス以後2500年にわたって不顕論を遠ざけ、示顕論だけに没頭してきたので、宗教、形而上学、イデオロギーという示顕論の伝統から抜け出すことはきわめて難しくなっている。彼らの示顕論は、まさに精神と本能のあいだの均衡を壊し、精神だけを重んじる流れを、西洋の文明の核心的な要素にしてしまったのである。
精神と本能の均衡の破壊、そして精神を崇める形而上学の問題点を西洋の人々が認識するようになったのは、近世になってからのことである。とりわけニーチェの哲学において、ソクラテスの精神中心の哲学と形而上学に対する反対の立場がはっきりと表明される。ドイツの哲学者ハイデガーは、西洋の文明を精神中心の文明と指摘し、「精神を超えて存在そのもの」に集中する必要があると指摘した。人性の面から見れば、人間の存在そのものは本能と精神をともに含んでいる。ハイデガーは、精神に集中している西洋の精神史の偏りを鋭く指摘した。精神ではなく、本能まで含めた人間存在の全体に集中しようという哲学は、まさに精神と本能を結びつける東洋の哲学体系と軌を一にしている。
ハイデガーは、精神の能力に偏ったプラトンの哲学を批判した。彼は、プラトンやアリストテレスなどに始まる形而上学が問題であると見て、それが、西洋の文明が真理のゆがみを始めることになった原因であると評価した。西洋の文明のこうしたゆがみが、ギリシア時代、中世の宗教を経て、近世、現代まで続いているので、結局、西洋の哲学の伝統全体を根本から見直さなければならないと考えている。プラトンのイデア論は、結局、存在をイデア論に従属させて形而上学化し、こうした哲学的見解が啓示宗教と力を合わせて、西洋の文明を2000年以上導くことになる。とりわけ20世紀になると、形而上学が極限まで推し進められて、精神、あるいは精神に対抗する本能に偏ったイデオロギーが、一時世界を支配することになる。精神に偏った前者が共産主義であり、本能に従う後者がファシズムである。20世紀のイデオロギーは、実現しえない理想の実現のために、倫理に代表される人間の個性そのものの破壊をこととしたのである。
ハイデガーは、西洋の精神中心の哲学を指摘しながら、西洋は人間の精神ではなく、存在の思索、すなわち人間の全体を見る能力を失ったと考えた。デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という命題を、近世になって新たに始まった西洋の形而上学的な精神中心の思考の出発点と見た。彼の哲学に従えば、「精神を超えて存在そのもの」を中心とする人間は、「我あり、ゆえに我思う」とならなければならない。ハイデガーは、精神と存在の比較哲学において、存在を中心に考える方法を新たに学ばなければならないと主張した。彼は西洋の合理主義を、存在を忘却した思考であると批判した。
文化の次元から見ると、ギリシアの文化が洞察力を失って滅びたのは、ソクラテスの例に見られるように、まず精神の極大化をもたらしたからである。精神の極大化とは、すなわち精神と本能のあいだの調和と均衡の破壊を意味し、洞察力の破壊を意味する。中庸を勧めるペリクレスの遺言を振り払って、無謀なシチリア遠征を強行したことがアテネ没落の原因であったように、中庸を守れというデルポイの神殿の額に刻まれた知恵を打ち破り、精神能力の普遍化という道へと踏み込んだところに、ギリシアの均衡の破壊の原因がある。その張本人はソクラテスと見なければならないだろう。
ソクラテスとその後継者たちは、アポロン的なギリシア人が中庸と呼んだ、到達しがたい最高の道徳的な慈悲、献身、英雄的行為、恒心までも、知識の弁証法によって推論を続けることで、まるで教えることができるかのようにしてしまった。197
孔子は「中庸の徳たるや、其れ至れるかな。民鮮きこと久し」198 と喝破した。神学と形而上学を遠ざけていた東洋の文明は、中庸を守ってくることができた。キリスト教の神学と、プラトンとアリストテレスによって発展したギリシアの形而上学は、西洋の人々に、知りえない人間の本質や自然の本質を知ることができると、2000年以上にわたって主張させてきた。こうした形而上学的な傾向は、とりわけ我々が大西洋時代と呼ぶ、16世紀から21世紀の半ばまでのおよそ500年間、西洋が世界を征服する「開かれた世界」で活動していたあいだ、強い力を振るった。しかし世界征服が完成し、開かれた世界が終わるとともに、形而上学の役割も終わりつつある。
精神現象の普遍化の過程で同時に起こる現象は、因果律への執着である。因果律は、変化論を唱える東洋の文明では否定されているが、西洋では、因果律は精神現象の普遍化を正当化する進歩思想に欠かせない礎石である。人間は絶対的な真理に向かって漸進的に進歩しているという哲学が盛んになる。プラトンとアリストテレスによって確固とした表現を得た因果律は、ルネサンスの後、ふたたびライプニッツによって力強くよみがえり、進歩の文化を生かしつづけることに貢献する。そして、ダーウィンの進化論に見たように、ダーウィンに「漸進的な」進化を主張させるうえでも一役買うことになる。ヴォルテールは、西洋の文化のこうした虚構性を鋭く批判している。
わたしがはじめてプラトンを読んだとき、最も軽い原子から至高の存在に至るまで、すべての生き物を段階的に区分しているのを見て、とても感動した。しかしよく見てみると、昔、あらゆる亡霊たちが朝の一番鶏が鳴くと消えてしまったように、その巨大な幻は消え去ってしまうのであった。199
没落していくギリシアの社会で、中庸を理解しただけでなく実践に移したという点で最後のギリシア人と呼ぶことのできるペリクレスは、アテネの人々が極端な道に踏み込むたびに、彼らを中庸の道へと引き戻した。
ペリクレスは、アテネの人々が時宜をわきまえずに傲慢になり、猛り立つときには恐れを抱かせ、アテネの人々がいわれもなく恐れているときには信頼を取り戻させた。200
知恵を代表するデルポイの格言も、ペリクレスの中庸も消えていくまさにその時代、すなわちアテネが没落していく時期に、プラトンとアリストテレスは、その後およそ2000年にわたって西洋に圧倒的な影響を及ぼす示顕論という哲学の世界を広め、その哲学の世界が西洋の文明を主導することになった。それは、中世の神学、そして近世と近代の形而上学という形をとりながら変わっていった。
ギリシア人は、彼らが弱く堕落していった時代に、楽観的で、皮相で、修辞的になり、論理を求め、世界を合理的に解釈しようとしたのではなかったか。すなわち、より「冷静」になり、「科学的」になったのではなかったか。あらゆる近代思想や民主的な偏見にもかかわらず、楽観主義と、その現代的な表現である民主主義の勝利というあらゆる現象が、弱り、老い、生理的に疲れた徴候ではないと誰に言えようか。201
とりわけこの数百年に驚異的な発達を記録した科学でさえ、西洋の人々があれほど信じていたのとは違って、人間に明るい未来をもたらすということは、示顕論で武装した開かれた世界が終わるとともに、もはや確かなものではなくなった。科学の本質とは何であり、科学が人類の未来に及ぼす影響とはどのようなものなのか。
我々の科学、その科学全体は、そもそも生の徴候として何を意味するのか。科学はどこへ行くのか。さらに悪いことに、どこから来たのか。科学的精神とは、悲観主義への恐れにすぎず、それから逃れるためのひとつの防御法ではないのか。道徳的に言えば、ひとつのごまかしであり卑怯な行いではないのか。非道徳的に言えば、ひとつの奸計なのか。ソクラテスよ、ソクラテスよ、ここにこそ汝の秘密があるのか。神秘的なイロニーの名手よ、ここにこそ汝のイロニーがあるのか。202
ほとんどの西洋の哲学者は、問いを推し進めて何かを見いだしたと思うと、それを絶対的なものとして掲げる。示顕論と進歩の哲学は結びついている。そうしてはじめて、開かれた社会において「進歩」が正当化されつづけるからである。しかし、実際に「絶対的な真理」が人間の手の届かないところにあるのなら、我々は、レッシングが喝破したように、「真理よりも、真理を探究する道をより重んじ」なければならないのかもしれない。これが人間の条件であるなら、孔子が言ったように、「之を知るを之を知ると為し、知らざるを知らずと為す」ことが、人間の持ちうる知識の限界となる。「吾が生や涯り有りて、知や涯り無し」という道家の哲学を受け入れるなら、形而上学を唱える西洋の文明の精神能力の選択は限界に突き当たり、結局、没落の道を歩むことになると見ることができる。
3) 精神崇拝の文明の没落:イデオロギー、精神と科学の野合
果てしなく前へと突き進んでいた西洋の精神崇拝の思想は、20世紀に没落の道へと入っていく。「合理主義」で武装した精神は、「科学的な」社会ダーウィニズムと野合して、イデオロギーの時代を生み出す。しかしイデオロギーは誤った人性論に基づくものであり、西洋の精神世界を破滅の道へと導く。精神と科学の野合が、西洋で実現したのである。精神は本能から離れて活動することはできないのに、西洋の合理主義はそれが可能だと誤って判断し、社会ダーウィニズムの漸進的闘争論という検証されていない思想が、科学として20世紀の西洋世界に広まった。切り離された精神と虚像の科学が結びついたもの、それがイデオロギーの本質である。
ダーウィンは、人間は神の特別な創造によるものではないという進化論を唱えたが、最初の生命体を含む自然の創造は神によるものだと確信していた。こうしてダーウィンは、自らの宗教的信念と進化論は両立しうると主張し、自分の神への信仰には変わりがないと説明した。
生命は、そのいくつかの力とともに、はじめ創造主によって少数の、あるいはひとつの形態に吹き込まれたのであり、この惑星が定められた引力の法則にしたがって回りつづけるあいだに、かくも単純な始まりから、限りなく美しく驚くべき形態が進化してきたし、いまも進化しつつある。こうした生命観には壮大さがある。203
ダーウィンの進化論は、結局、「神の創造と自然の進化」を結びつけたものとなった。ダーウィンの進化論は、徹底した自然論的な進化論ではなく、神の創造と自然の進化が同時に並び立つ理論である。啓蒙時代の理神論者を含む多くの西洋の思想家がそうであったように、彼らは西洋の思想を完全に自然論へと変えることができず、神と自然を並び立たせる方法をとった。ダーウィンも偉大な思想を提供したが、その哲学体系は西洋哲学の思考をそのまま受け継いでいた。ギリシア・ローマ時代の示顕論と中世の宗教の徹底した示顕論の傾向は、それほどまでに彼らの思想のなかでなお大きく働いていたのである。
社会ダーウィニズム:「自然は飛躍しない」、「万人の万人に対する闘争」
社会ダーウィニズム(Social Darwinism)はダーウィニズム(Darwinism)から出発したが、ダーウィンの予想とは違って、イデオロギーの時代を開くうえで決定的な役割を果たすことになる。ダーウィニズムとは、人間や地球の生物は神が一つひとつつくり出したものではなく、自然のなかで進化によってつくられたものだという主張である。啓示宗教のドグマの核心である創造論を打ち壊す、革命的な理論である。ダーウィンの進化論が刊行されたのは1859年であった。
問題は、ダーウィンの進化論そのものではなく、そこから派生した社会ダーウィニズムである。社会ダーウィニズムは、精神の力を極大化するのに必要な、哲学と科学の野合という結果をもたらすうえで、「科学的な」役割を果たすことになる。「偉大な発見は発見者の努力であり、そこに含まれる問題は時代の問題である」という考えを取り入れれば、進化論はダーウィンの偉大な業績である。しかし、ダーウィンが、西洋の思想に深く内在していた闘争論と漸進論をそのまま自らの進化論に用いたのは、誤りのなかの誤りであった。
進化論は、西洋の思考体系のなかで打ち立てられた。そのため、西洋近代の哲学体系において誰もが当然の科学的真理として受け入れていた命題が、ダーウィンの進化論を説明するメカニズムとして用いられる。こうした命題が、当時西洋の哲学界を席巻していた精神崇拝の文明と結びついて、社会ダーウィニズムをつくり出すことになる。そのメカニズムは二つである。「自然は飛躍しない」(Natura non facit saltum, Nature does not make leaps)と、「万人の万人に対する闘争」(Bellum omnium contra omnes, War of all against all)である。当時の多くの思想家は、命題の正当性を強めるために、ラテン語の表現を好んで用いた。
社会ダーウィニズムは、ダーウィンの進化論が人間の歴史において漸進的で闘争的な進化を引き起こすだろうと思い違いをしてつくられたものである。204 この理論は、「自然は飛躍しない」と「万人の万人に対する闘争」という概念を核心としている。これによって、西洋の人間の営みをイデオロギーの時代に没入させたのである。
社会進化論の創始者スペンサー(1820―1903)は、適者生存と自然選択は人間の社会にそのまま当てはまると主張した。したがって、社会も自然と同じく競争を通じて発展するのだから、「無能な者を人為的に助けることは社会の発展を妨げる」という思想を展開した。
こうした主張を取り込んだイデオロギーは、不平等、人種差別、帝国主義を正当化するために、社会ダーウィニズムを積極的に用いた。とりわけ、人間の本性は「進化」しうると見る考えは、あらゆる倫理と人道主義を抹殺する政策を可能にした。社会ダーウィニズムの漸進論と闘争論は、共産主義、ナチズム、人種差別、優生学において「科学」として用いられた。彼らは漸進論と闘争論を、適者生存と自然選択という代わりの用語として用いながら、科学性を広げようとした。こうした社会ダーウィニズムは、20世紀に悲惨な誤りを犯した後、誤った思考であると判明した。人間の本性に反するからである。いまでは廃棄された状態にある。
漸進論と闘争論の哲学は、ダーウィンの進化論の始まりから予告されていた。ダーウィンは、あらゆる変化は「漸進的に」起こるという西洋の哲学を、そのまま自らの進化論に取り入れた。「自然は飛躍しない。」この金言は、19世紀の西洋の哲学と科学界の思考の礎石であった。これと結びついた概念が「闘争論」である。「万人の万人に対する闘争」がそれである。この概念は、漸進論とともに、ダーウィンの進化論の核心である。ダーウィンはそれを適者生存(Survival of the fittest)と表現した。漸進論と闘争論というダーウィン進化論の核心的な哲学は、多くの問題を引き起こした。ダーウィンの進化論は結局、社会ダーウィニズムへと変質し、理想郷の実現のためなら人間の倫理に背いてもよいという、悲惨で無慈悲な「イデオロギーの時代」(the Age of Ideology)を生み出すことに寄与することになった。
しかし一部の思想家は、当時流行していた漸進論と闘争論をこうしてそのまま進化論に用いることに対して、反対の意見を表明した。ダーウィンの進化論を擁護する側に立ったハクスリーは、『種の起源』の刊行前にダーウィンに手紙を送り、漸進論をそのまま進化論に用いるダーウィンの問題点を指摘した。
わたしは、あなたの理論のためなら、必要とあれば火刑台に上る覚悟さえできています。わたしは進化論を守るために、爪をいっそう鋭く、くちばしをいっそう尖らせています。しかしあなたは、「自然は飛躍しない」という法則を何の留保もなく全面的に受け入れることで、不必要な障害を自ら招いているのです。205
しかしダーウィンの進化論の漸進的な性格は、西洋の文化の底に流れるひとつの強い流れである。ダーウィンが『種の起源』で引用したラマルク(Lamarck)の進化論である「用不用説」も、漸進的な性格のものであった。ダーウィンが進化の漸進性を強調するために好んで繰り返した「自然は飛躍しない」という言葉は、これまた科学者や哲学者に広く受け入れられていた概念であった。ダーウィン自身が『種の起源』のなかでそれを強調している。
自然選択は、わずかで連続的な有利な変異を積み重ねることによってのみ働くので、大きな、あるいは急激な変化を引き起こすことはできず、ただ小さくゆっくりとした歩みで働くだけである。したがって、あらゆる新しい知識によってその真実性が証明されつつある「自然は飛躍しない」という規範は、この理論においても明らかである。206
「自然は飛躍しない」という言葉をはやらせたとされるライプニッツは、著書『人間知性新論』のなかで、次のように述べている。
何ものも突然には起こらない。「自然は飛躍しない」というのは、わたしの重要な格言のひとつであり、最もよく確かめられた格言のひとつである。207
漸進論と闘争論のために、社会ダーウィニズムを唱える人々は、人間の本性は進化しうると考えた。人間は生きている一生のうちに、あるいは世代を重ねて進化していると見たのである。ダーウィンをはじめとする進化論者たちは、人類は出現以来ずっと進化しつづけていると信じ、コント、マルクス、ヒトラーらは、こうした進化論の上から出発したか、こうした理論に決定的な影響を受けた。
進化は漸進的に、闘争を通じて起こるというダーウィンの自然選択説は、自然科学においては単なる誤りにすぎないのかもしれない。しかしダーウィンの進化論が自然科学の分野を離れて社会科学に当てはめられたときに生まれる社会ダーウィニズムは、単なる誤りではなく、ヒトラーの人種差別的な優生学に見られるように、巨大な悲劇となる。ダーウィンの記述とヒトラーの記述は、驚くべき類似を示している。ヒトラーは著書『わが闘争』のなかで次のように書いている。
こうした認識は国家に、宇宙を支配する永遠不変の法則にしたがって、最もよく最も強いものを育て、悪いものと弱いものを抑える義務を負わせる。208
ダーウィンは、『種の起源』第8章「本能」の部分を、次のように結んでいる。
結局、これらすべての本能を、特別に与えられたもの、あるいは創造されたものと見るよりも、あらゆる生物を繁殖させ、変異させ、強い者を生かし弱い者を死なせて進歩へと導く、ひとつの一般法則の小さな結果と見るほうが、論理的な帰結ではないにしても、はるかに満足のいく説明なのである。209
ヒトラーのファシズムがダーウィンの進化論に大きく頼っていたように、共産主義も、ダーウィニズムに表された「万人の万人に対する闘争」の理論を科学的な真実として信じ、頼ろうとした。マルクスは、ダーウィンの進化論に執拗で強い好奇心を示した。マルクスは、自らの分身であるエンゲルスに、興奮に満ちた手紙を送った。
ダーウィンの洞察力は驚くべきものだ。彼は動植物の世界に、分業、競争、新しい市場の開拓、「発明」、そしてマルサス(Thomas Malthus)的な「生存闘争」をはっきりと見抜いている。それは万人の万人に対する闘争を意味しているのである。210
自らの理念体系を科学的なものとみなそうとしていたマルクスは、ダーウィニズムのなかに、自らの共産主義を支える科学的な証拠を探そうとした。1861年、マルクスはラサール(Lassalle)に送った手紙のなかで、こうした意図をありのままに表している。
ダーウィンの著作は重大な意味を含んでいる。それは自然科学として、わたしの思想体系の土台をなしうるものであり、歴史的に階級闘争の必然性を証明してくれている。211
イデオロギーと社会ダーウィニズムの結合は、何よりもダーウィンが唱えた闘争的で漸進的な進化についての説明に由来している。イデオロギーは、ダーウィニズムを、自らの闘争と漸進的な変化の「真理」として用いようとした。ダーウィンは著書『種の起源』のなかで、新しい種は「漸進的で闘争的な」自然選択(natural selection)によって生まれると、繰り返し強調している。
自然選択は、毎日毎時、世界じゅうで、どれほどささいなものであっても、あらゆる変異を詳しく調べている。悪いものは取り除き、良いものは保存して積み重ねながら。212
ダーウィンの自然選択説の闘争的な性格は、彼自身が記したように、マルサスの『人口論』から着想を得たものである。
次の章では、地上のすべての生物が幾何級数的に増える高い能力を持つ結果として必然的に生じる「生存闘争」の問題を扱うことにする。これはマルサスの原理を、動植物界全体に当てはめたものである。213
マルサスやダーウィンのこうした見解は、マキャヴェリの『君主論』やホッブズの『リヴァイアサン』に見られるように、生存を闘争と見る西洋の文化の底に流れる特性を、繰り返し強調したものと見ることができる。道徳を顧みず(amoral)、生存と勝利のためにあらゆる手段を正当化したマキャヴェリも、「万人の万人に対する闘争」を自然状態と見たホッブズも、214 生存闘争を人間の社会と自然界に当てはめたマルサスも、進化論のダーウィンも、みな西洋の文化の流れのなかにいるのである。
当時の大多数の博物学者は、創造論に立脚して、「それぞれの種は別々に創造された」ものであり、変わらないものだと考えていた。215 ダーウィンはこうした見解に反対して、種は「ゆっくりとした、わずかな、連続的な進化」216 によって形づくられたという、機械的で直線的で反作用的な進化論を唱えた。人間の本性は刻一刻と進化していくと主張することで、ダーウィンは、進化と進歩の神話を19世紀のさまざまな理念運動に提供した。20世紀のイデオロギーの時代を生み出すことに絶対的に寄与した社会ダーウィニズムは、こうしてダーウィンの進化論から直接の影響を受けることになる。
人間は、自然によって与えられた変異を選ぶことができ、また実際に選んで、望むとおりに変異を積み重ねる。こうして人間は、動植物を自分の利益や楽しみに合ったものにしていく。217
ダーウィンは、こうした漸進的な積み重ねは、自然においては生物の利益のためだけに、人間においては人間自身の利益のためだけに選ばれると仮定した。それは適者生存という自然と人間の法則に従っていると主張したのである。
人間は自分の利益のためだけに選ぶ。自然は、自らが世話をしている生物の利益のためだけに選ぶ。218
自然の適者生存の原則は、人間が援用することができるのだろうか。ダーウィンは十分に証明できると考えた。社会ダーウィニズムは、自然の進化に働く適者生存の原則を人間が利用して、人間の社会において人間どうしのあいだに適者生存の原則を当てはめることができる、という主張の根拠となる。
人間の手のなかでこれほど強力であることがわかった選択の原理は、自然界にも当てはまるのだろうか。わたしは、それがきわめて有効に働くことを証明できると考える。219
人間の本性をこのように捉えることは、啓示宗教に表れた存在の人性論とは正反対の方法である。啓示宗教は、生まれ持った人間の個性は変わらないと考えた。ダーウィンの進化論は、人間の本性は刻一刻と進化していく過程にあるという主張である。これは東洋の変化論的な人性論とも異なる。東洋は、人間は同じ人間の本性を持って生まれるが、生まれた後、持って生まれた人間の本性の範囲のなかで人間の個性は変わっていくと見る。精神は、本性というすべての人間が生まれ持つ限界を超えることはできないが、その限界のなかで精神が働くと見る東洋の人性論と、ダーウィンや社会ダーウィニズムの人性論とは、根本的に違いがある。
漸進性と闘争論は、進歩と進化に欠かせない性格である。それは、相対性と自律性を否定し、決定論と因果律を主軸として形づくられたルネサンス以後の西洋の科学と哲学に蔓延しており、ダーウィンはそれを踏襲した。ダーウィンは、西洋の哲学が固く信じていた「自然は飛躍しない」と「万人の万人に対する闘争」という偏見を拒むことができなかったのである。したがって、ダーウィンの進化論の漸進的で闘争的な性格は、新しい理論ではなく、当時の西洋の文化に内在していたものと見ることができる。
ダーウィンの進化論 vs 断続平衡説(Punctuated equilibrium)
ダーウィンが唱えた漸進的な進化論、すなわちすべてはつねに進化しているという理論は、科学的にしだいに揺らぎはじめた。漸進論を支えるミッシング・リンク(missing link)が、多くの努力にもかかわらず見つからないことが主な理由である。ミッシング・リンクとは、漸進的な進化の過程で経なければならない生物の種があるはずなのに、その痕跡が見つからないという仮説である。もしそうした痕跡が見つからないままなら、ダーウィンの進化論の修正は避けられない。その修正された理論のひとつが「断続平衡説」(punctuated equilibrium)である。1972年にグールド教授が発表したこの理論によれば、種は長い安定期を経た後、短い期間に急激に分化するという進化論である。この時期を除けば、人類はホモ・サピエンスへと進化してからは、「非進化的な適応」(non-evolutionary adaptation)を示している。
断続平衡説は、神が泥から人間をつくったという創造論とは異なる。また、人間を含むすべての生物が絶えず漸進的に進化しているというダーウィンの進化論とも違いがある。しかし、人間の非進化的な適応論は、道の文明が強調する変化論とよく合っている。肌や目の色、鼻や唇の形などは、現生人類をなすそれぞれの人種の特色である。西洋の学者たちは便宜的に、かつて現生人類を黄色人種(アジア)、白色人種(西洋)、黒色人種(アフリカ)、褐色人種(インド)、赤色人種(アメリカ)に分類し、それらは異なる人種であると主張した。しかしいまでは、彼らはみな同じ人種であり、人種の特色は変化したものにすぎず、人間が進化したのではないという主張が受け入れられている。
ホモ・サピエンスへの最後の変異は、多くの場所で同時に起こったものと見られる。初期のホモ・サピエンスの遺伝子プール(pool)から、現生人類の遺伝子が地球上の多くの地点で育ち出て、それを共有した現生人類が地球上を覆うようになったのである。今日、世界各地にいるすべての人種は、ホモ・サピエンスというひとつの種に属する亜種である。すなわち人種のあいだの違いは、地理的な隔離と風土の違いへの適応から来たものであり、ひとつの種のなかの違いにすぎないのである。220
我々がホモ・サピエンスとしての身体を持っていること、そして分化した人種としての「身体的特徴」を持っていることは、どのような意味を持つのだろうか。身体的特徴、すなわち肌の色、目の色、鼻の形などの違いは、ホモ・サピエンスの身体そのものが進化していく過程なのだろうか。それとも、カメレオンの肌の色が環境に応じて変わるように、進化とは関係のない単なる変化にすぎないと見るべきなのだろうか。ここで、創造論に立脚した西洋の神の文明は、20世紀前半まで、人類の身体的特徴を、異なる人間として創造された特徴とみなそうとした。この点は、19世紀後半のダーウィンの進化論以後も変わりがなかった。つまり、人間がいまの姿のまま創造されたのではなく、進化していまのようになったのだとしても、異なる人間へと進化したものとして区別して扱おうとしたのである。
ダーウィンをはじめとする進化論者たちは、ホモ・サピエンスは出現以来ずっと進化しつづけていると信じ、コントやマルクスのような思想家も、こうした仮定の上に自らの哲学体系を打ち立てた。しかし、19世紀の西洋を熱風のように席巻した進歩思想が退潮するのと時を同じくして、進化についての理論も変わりはじめた。人間という生物学的な種が変わりつづけているという進化論者の主張がくじかれるにつれて、人間の社会が進化しつづけているという考えも変化を経験することになる。
化石に表れた証拠によれば、ホモ・サピエンスが出現して以来、脳の容積や構造が変化したという証拠は何もない。221
「種の進化の境界において、脳は10万年から20万年来、不変の状態にある。」222 我々がこうした見解を受け入れるなら、すなわちホモ・サピエンスが出現以来進化していないのなら、進化はダーウィンが主張したように「漸進的に」起こるものではありえず、彼があれほど否定しようと努めた「飛躍」によって、進化は突然起こると見なければならない。彼の言うミッシング・リンクは、存在するのに見つかっていないのではなく、単に存在しないのでなければならない。人間の脳は漸進的に大きくなったのではなく、比較的短い時間のうちに突然飛躍的に大きくなり、その後は変化していないと見なければならない。人間の脳の進化についての理論は、次のように説明されている。
人間は、世代ごとに脳が漸進的に大きくなって進化してきたのではなく、断続的に、小さな脳を持つ種から大きな脳を持つ種へと置き換えられてきたのである。223
実際、ダーウィン以来、化石の発掘作業が盛んに行われてきたにもかかわらず、ミッシング・リンクは見つかっていない。すなわち、地質学と古生物学による証拠は、ダーウィンの漸進的な進化を否定している。こうした物的証拠を事実としてそのまま受け入れて、断続平衡説という、ダーウィンの漸進的な進化論とは異なる新しい進化論が発表された。これは、19世紀の進化論と進歩思想に立脚したあらゆる理念を覆すほどの画期的なものである。社会ダーウィニズムはその根拠を失ってしまうからである。224
断続平衡説の要点は、次のように説明されている。種は漸進的に変化するのではなく、地質学的な時間の概念から見れば比較的一瞬のうちに現れ、ほとんど変化せずに数百万年のあいだ存続する。225 これまでの古生物学的な証拠は、既存の種の安定性と、新しい種の突然の出現という二つの特性を示している。種の変遷と進化において、既存の種の安定性は、ひとつの種の初期の化石と末期の化石がほとんど同じであることで証明され、突然の出現は、わずかな変化の積み重ねではなく完成した形で新しい種が現れることで証明される。226 すなわち化石が示す証拠によれば、新しい種は突然現れ、消えるときも突然消える。227 進化は一般に、隔離された一部によってなされるのであり、ひとつの種がゆっくりと連続的に変化して進化がなされることはほとんどない。228
なぜわざわざ選択の理論を、不必要で、おそらくは誤った仮説と結びつけなければならないのか。我々に知られている化石は、漸進的な進化の概念を裏づけていない。ひとつの動物群はきわめて短い期間のうちに絶滅し、新しい種はつねに突然現れる。どの化石の証拠も、中間の段階にある連結の種を示していない。同じ地域の古い石をすべてひっくり返してみても、そうした化石の証拠はない。229
ダーウィンの進化論において、漸進的な性格は闘争的な性格と切り離せない関係にある。したがって、漸進的な性格が修正される以上、闘争的な性格も修正を受けざるをえない。19世紀のダーウィンやその追随者たちが考えていた動物の世界は、残酷なものであった。すべての動物が一分一秒を生存闘争に捧げているような世界であった。成功の尺度は、すなわち戦いで何度勝ったか、どれだけの相手を屈服させたかということであった。しかし今日では、動物どうしの戦いは実は生きるか死ぬかの闘争ではなく儀式にすぎないことが多く、共生関係や協力関係も、生死の闘争に劣らず、生活と進化にとって重要な部分であることが明らかになりつつある。230 生存闘争は、進化においてダーウィンが考えたほど大きな意味を持たない。断続平衡説は、生存闘争の重要性を否定しているのである。
同じ種のそれぞれの個体は、その種が現れたときに持って生まれた変異の範囲のなかでのみ、互いに競争する。したがって、個体のあいだの生存闘争は進化上の価値をほとんど持たないので、たいした意味を持たない。231
ダーウィン自身、『種の起源』のなかで、自らの自然選択説が正しいことを証明する方法は、光の波動説が正しいことを証明する方法と同じだと記している。232 しかし我々が知っているように、アインシュタインが1905年に光電効果によって光が粒子の性質も持っていることを証明して以来、光は波動と粒子の二つの性質を持つというのが定説となっている。233 また、ダーウィン自身、地質学的・古生物学的な事実が漸進的な進化を裏づけていないことを認め、こうした事実が自らの自然選択説への挑戦となりうると記しているが、今日実際にそうした事態が起こったのは興味深いことである。
地質学は、生物がわずかずつ漸進的に進化してきたことを示す、そうした細かな連続の鎖をたしかに明らかにしていない。そしてこれは、わたしの理論に対して向けられうる最も明白で重大な反論であろう。234
19世紀まで猛威を振るい、物理学はもちろん哲学まで支配してきたガリレオとニュートンの力学体系が、20世紀にその絶対性を失い、アインシュタインの相対性理論に包み込まれたように、ダーウィンの進化論もまた、グールド教授が唱える「断続平衡説」のような、より包括的な進化論に包み込まれなければならない時が来たのである。西洋の思想体系は、物理学的な根拠だけでなく、生物学的な根拠まで、たちまちのうちに失ってしまった。進歩思想は支えを失い、宙に浮いた砂上の楼閣となってしまったのである。
しかし、ダーウィンが唱えた進化の理論が否定されたからといって、彼が明らかにした進化という事実が否定されるわけではもちろんない。ダーウィンの学問的な功績は、もちろん、あらゆる個々の種が創造されたという啓示宗教のドグマを打ち破り、種は進化によって生じたということを不変の事実として確立したことにある。ダーウィンは、当時偏見にとらわれていた人々から嘲笑を受けながらも確信を曲げない、勇気と洞察力を持った人物であった。偉大な思想の長所は個人のものであり、短所は時代の影響であるという考えのとおり、ダーウィンが、人間は進化論的な存在であることを明らかにするという偉大な業績を残したことは間違いない。しかし彼はまた、時代の影響を受けて、進化という事実を説明するにあたって時代の誤りを犯したことも間違いないのである。
ダーウィンの進化論によって、もはや、すべての花はそれに対応する昆虫のために特別につくられたというような創造論を唱えることはできなくなった。この点で、進化論は伝統的な創造論と相いれない。これについては異論の余地がない。しかし、核心である偶然性の問題はいまなお未解決のまま残っていることを否定する手立てはない。秩序正しい宇宙のなかで生命が発展し、進化した高等生物が現れるという点では、まったく違いがない。それが偶然によるものだと考えるのは、依然として愚かな妄想とみなされるようになった。235
ダーウィンの進化論は、解釈によっては、人間が神を取り除いて超越者の座につき、自然を支配することができる。この点で、ダーウィンはなおキリスト教徒でありえた。実際ダーウィン自身も、「この本に示された見解が、なぜ誰かの宗教的な感情を傷つけることになるのか、十分な理由が見当たらない」と述べている。236 この点で、ユダヤ・キリスト教の創造論もダーウィンの進化論も、人間と自然の関係という問題については態度が一致している。人間は自然を支配しうる存在なのである。これは、人間は自然の産物であり自然に従わなければならないという東洋の道の概念と、真っ向から相反するものである。
ギリシアの文化を除けば、西洋の文明が運命と自由を同時に包み込み、あるいは調和させたことはない。大きく見れば、中世までは運命が、ルネサンス以後は自由が、基本的なものとして受け入れられた。そして19世紀に入ると、ユダヤ・キリスト教的な神が精神に置き換えられるにつれて、自由もまた宿命的なものとなってしまった。中庸の概念を無視しあざ笑う彼らは、「運命のなかの自由」という本当の自由の意味を悟る文化的な基盤を持っていなかった。ダーウィンは、中国人や古代ギリシア人が持っていた中庸という概念を理解するどころか、それに対して冷ややかで冷笑的な態度を見せている。
飼育家は中庸をたたえもしないし、たたえようともしない。彼らは極端を好むのである。237
ダーウィンは、完成に向かって進歩しない個体や種は落伍し、敗れて自滅するということを、不変の自然法則として主張した。
自然選択は、ただ各生物の利益によって、その利益のために働くのだから、身体的および精神的なあらゆる資質は、完成へと向かって進歩する傾向を示すことになるだろう。238
しかし、個体や種が進化するのではなく変化するのだとすれば、偽りの進化と進歩のために、熱に浮かされた軽薄な者たちによって動員される無慈悲な暴力と狡猾な知恵は、正当化されえない。西洋の文明に内在する分離と闘争の基本概念は、西洋の進化と進歩の思想と表裏の関係にある。ダーウィニズムは、人間の生物学的な進化が起こりつづけているという考えから生まれた20世紀の西洋の哲学思潮である。しかし20世紀の人間中心主義のイデオロギーが消え去ったことで、21世紀になると、人間の生物学的な進化を基礎として社会科学を設計する思想家はいなくなった。
4) 20世紀のイデオロギー、反倫理的な人間中心主義
西洋の哲学は、古代の精神の普遍化に続く近世の精神の絶対化を経て、ついに近代の精神の人間中心主義(anthropocentrism)に到達する。こうした経路が西洋の哲学史の流れである。人間中心主義は人本主義(humanism)とはまったく異なる。239 人間関係を解き明かす次元で、人本主義は形而上学や神本主義と対をなす思想である。それは東洋的な哲学の核心思想であり、道家と儒家はこうした思想を堅持している。西洋の哲学史では、中世1000年の暗黒時代を耐え抜いて西洋がルネサンスの時代に入るにつれて、人本主義を経験することになる。啓示宗教が4世紀にローマの国教と定められてから、はじめてギリシア時代の人本主義へと回帰したときにつけられた名である。人本主義とは違って、人間中心主義は、人間の精神の力に頼る形而上学的な思想や神本主義的な思考が、人間関係を超えることができるという立場を掲げる。「真理」が人間関係を超えることができるという哲学である。典型的な西洋の示顕論に立脚した体系である。不顕論に従って真理を人間が表現することができないのなら、そうした真理は人間関係を超えることができないからである。
示顕論のドグマを離れて、西洋には驚くべきことに、科学の名において倫理に反する哲学を展開する思想家たちがいる。ハーバート・スペンサー(1820―1903)がそれに当たる。彼はダーウィンの進化論『種の起源』を読み、自然選択の概念を社会に当てはめて、社会ダーウィニズム(Social Darwinism)を発展させた。彼は1864年の著書『生物学原理』(Principles of Biology)ではじめて、適者生存(Survival of the fittest)という表現を用いた。こうした主張は、ダーウィンの進化論の漸進論と闘争論に根拠を置いている。ダーウィンは1859年の著書『種の起源』(On the Origin of Species)で、「強い者を生かし弱い者を死なせて進歩へと導く、ひとつの一般法則」を説明した。これを社会化した思想家がスペンサーである。スペンサーは、「社会も自然と同じく競争を通じて発展する」という論理を展開し、したがって「無能な者を人為的に助けることは社会の発展を妨げる」と考えた。スペンサーは、東洋の哲学ではありえない反倫理的な哲学体系を唱えたのである。儒家は「君子は急を周いて富めるに継がず」(『論語』雍也6:4)という倫理を説いている。スペンサーの強者の哲学思想は、自由放任の資本主義と帝国主義を正当化するうえで大きな影響を及ぼした。西洋の帝国主義者たちは諸手を挙げてそれを歓迎した。さらに、共産主義とファシズムのイデオロギーも、それを積極的に活用した。
マルクスは、環境、とりわけ経済的な要因によって人間の本性は変わりうると信じていた。ダーウィンは進化論で、「自然選択は、毎日毎時、世界じゅうで、どれほどささいなものであっても、あらゆる変異を詳しく調べている。悪いものは取り除き、良いものは保存して積み重ねる」と主張した。マルクスは、人間の本性は自然選択によって変わるという仮説に立脚していた。もしマルクスが東洋の文明のように変わらない人間の本性の存在を信じていたなら、実現するはずもない理想郷を夢見ることはなかっただろう。また、「能力に応じて働き、必要に応じて取る社会」や、「各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件となる社会」の実現のために暴力を用いることを正当化することもできなかっただろう。社会ダーウィニズムに拠って理想郷を建設しようとする共産主義の理論は、人間の本性をゆがめたために失敗せざるをえなかった。そして、そのために独裁体制を正当化し、倫理を超えようとした。共産主義の理論についてはさまざまな評価が可能である。しかし、実現するはずのない未来の理想郷のために現在の倫理を裏切った点で、共産主義は非難されるべき、あきれた哲学の残酷なアイロニーである。
しかし、遺伝の重要な要素のひとつが隔世遺伝である。一般に親の形質は子に直接現れるが、ある場合には、親の世代では現れずに一世代を飛び越えて孫の世代に現れることがある。英語では、隔世遺伝より広い概念として、アタヴィズム(Atavism)という語を用いる。これは、進化の過程で消えた祖先の形質が子孫にふたたび現れることを説明するものである。祖先の形質の再出現は、二世代にとどまらず、より広い祖先を含む。いまは無能な人でも、次の世代やその子孫の世代では、きわめて有能な子を持つことがありうるというのが、遺伝の秘密である。その逆も成り立つ。漸進論と闘争論を無力にする遺伝の法則である。無能な人を人為的に助けることは、人間の社会の自己保存の本能の一部である。倫理はこうした価値を反映している。19世紀のダーウィンの進化論のメカニズムであった漸進論と闘争論は、20世紀後半のグールド教授の進化論である「断続平衡説」において再評価され、適切性を失うことになった。
共産主義やファシズムのように絶対的な真理を主張するあらゆるイデオロギーは虚構である。人間の本性に照らして実現しえない目標を掲げるからである。そして、こうした虚構の理想を実現するために、倫理など人間として捨てることのできないものを投げ捨てるよう強いる。そのほかのイデオロギーもまた、客観的な真理の表現ではなく、当時の社会的な必要に応じて心理的に組み立てられた物語である。自由、平等、博愛などは偉大な思想であるが、状況によって適用の範囲などが変わるので、客観的な真理ではありえない。同様に、社会主義、民族主義、自由主義などは普遍的な真理を主張するが、心理的に分析すれば、結局は特定の集団の利害と権力をかばう役割を果たしている。核心は自己保存の本能である。
人間中心主義という西洋の文明の特異な形は、ただ数人の思想家がつくり出して生まれたものではない。人間中心主義は、西洋の啓蒙時代に生まれた理神論を経て、精神の役割を極大化し、さらにそれが「科学」と結びついてつくられたものである。結局、精神の役割が広がりつづけるなかで、人間中心主義においては、精神が人間全体に取って代わる役割を果たすようになる。こうして西洋は、20世紀に、人間がつくり出したさまざまなイデオロギーによって世界を征服しようとする極限の闘争の時代へと突入していく。
人本主義は、人間中心主義とはまったく異なる哲学体系である。人本主義という表現は、ルネサンスの時代に宗教観から解き放たれて人間の本性を求めていこうという意味で、神本主義(Theocentrism)に対する語としてよく用いられる。そしてルネサンスが代表する哲学が人本主義に近いので、このころの人文主義を人本主義と呼ぶこともある。儒家の基本的な哲学も、人本主義という表現でよく呼ばれる。もちろん、西洋のルネサンスの人本主義と儒家の人本主義は、神本主義に対するという点では似ているが、東西の違いを示している。人本の思想において、西洋は個人の自由と合理性を強調したのに対し、儒家は道徳的な責任と社会の調和を重んじる。すなわち、西洋の個人主義と東洋の関係主義の違いを示しているのである。
人間中心主義とは、人間を世界の中心と見る観点である。自然やほかの存在(ときには神の存在も含む)よりも人間の地位を優先させる哲学的な態度である。つまり、人間がすべての中心であるという思考である。人間中心主義は、人本主義とはまったく異なる哲学体系である。とりわけ倫理の問題において、核心的な違いを示す。人本主義は、東洋の文明や西洋のルネサンスの時代に最もはっきりと姿を見せている。宗教ではなく人間の本性を中心に人間の社会を組み立てようというのである。一方、人間中心主義は、人間の精神が本能に絡みついているという限界を認めていない。無限の可能性があると見ようというのである。そのため理想の型を定め、それを達成するためにあらゆる手段を正当とみなすので、人間の基本的な倫理を越えようとすることになる。精神の役割が強調されるということは、精神が「発光体」として倫理までつかさどるということになる。倫理は本能に由来するという考えを拒むことになるのである。
人間中心主義は、人間は絶対真理をつかむことができるという示顕論に立脚している、というのが核心である。人間中心主義は、自らに与えられた運命を認めない、節度のない自由である。自然の産物である人間が、自然の与えるものを何の制限もなく使い、自然を人間中心に思うままに扱ってもよいという意味を持つことになる。そうなると、人間は、衣食住の生活に縛りつけられた本能を無視し、まるで古い脳なしに新しい脳だけで生きる生物であるかのように思い違いをする誇大妄想に陥ることになる。そうなれば、レッシングが説明したように、「人間は、自分の精神の能力を評価するにあたって誇大妄想に陥った猿」となる。人間の精神が神に取って代わりうると見る幻想に陥ることになり、自然の道である道を人間が説明でき、思うままに活用できるという幻想に陥ることになる。人間中心主義についてのこうした哲学的な説明は、西洋で生まれ、東洋で否定されるという文明史的な側面を示しているので、東西の文明の比較において重要な要素となる。
西洋の文明は、啓蒙時代の理神論を通じて形而上学にいっそう没入しながら、精神の絶対化へと向かっていく。我々はこの時期をイデオロギーの時代と呼ぶ。人間は精神の力を過信し、有神論において神が果たす役割をすべて人間の精神が果たすことができるという、誇大妄想的な状態に突入する。こうした問題を人間の本性の面から見ると、精神の絶対化という現象には本質的な問題があることがわかる。人間の本能と感情に対する一部の制御能力が新しい脳に生まれたということは、人間がそれだけ動物的な本能から「解放」(emancipate)されたことを意味する。しかし、この解放という意味の特殊な性格に注意する必要がある。新しい脳は動物的な本能の行為の一部を調整することはできるが、そこまでである。人間は動物的な本能を生み出したり、なくしたりすることはできないという限界を持っている。したがって、本能を離れた形而上学的な純粋知識、すなわち精神の力だけに頼る知識というものは不可能なのである。
精神が人間に取って代わろうとするデカルトの合理主義は、バークリー、カント、フィヒテ、ヘーゲルらを経て、西洋の哲学の主流となる。しかし、西洋の哲学のこうした精神崇拝は、ついに、超人的な人間が新しい世界を創造するという人間中心主義という「狂った状態」へと至ることになる。
近代の哲学はデカルトから始まる。デカルトは自らの思考とその存在を固く信じ、そこから外部の世界を推論しなければならないと考えた。こうした態度は広がりつづけ、バークリーとカントを経て、すべては自我の表現にすぎないと信じたフィヒテに至る。これは一言で言えば狂気の沙汰である。その後の哲学は、こうした極端な態度から、日常生活の常識へと絶えず逃れようと試みてきたのである。240
人間中心主義を掲げるイデオロギーの時代は、結局、西洋の文明の精神崇拝の終着駅となる。社会ダーウィニズムが核心的な役割を果たすことになる。本書では、精神崇拝の哲学の出発点であるソクラテスと、その終着駅であるイデオロギーの時代だけを検討する。イデオロギーの時代を検討するにあたっては、とりわけ、イデオロギーの時代を可能にした社会ダーウィニズムの核心を見ることが重要である。社会ダーウィニズムは、さまざまなイデオロギーが帝国主義、人種差別、経済的不平等を正当化する役割を果たしたからである。もちろん、実現しえない理想郷の実現のために正当化したのであるが、それはダーウィンの進化論を社会化して、人間の本性の改造が可能だと考えたからである。
イデオロギーが人間の倫理を克服し、超越し、あるいは無視しようとする傾向を見せたことは、イデオロギーに反対する人々が示す最大の問題点のひとつに数えられる。倫理が本能に由来するということは、すなわち人間の精神の能力に限界を認めることである。一方、倫理が精神に由来するということは、すなわち人間の精神の能力に限界がないことを認めることになる。倫理の面から見れば、「人間を進歩の手段」とみなす人間中心主義が生まれることになる。人間中心主義が残酷な側面をあらわにするのは、倫理と、倫理の基礎となる人間の本性を無視するから生じるのである。
ファシズムの言う「生存圏の確保」や、共産主義の言う「能力に応じて働き、必要に応じて取る社会」といったものは、本能を無視した状態で精神を動員して理想郷を実現しようとすることから生まれる、実現しえない妄想である。ファシズムが生存圏の確保のために軍事力を動員した民族抹殺の政策をとることも、共産主義が理想郷を目指すためにプロレタリア独裁を擁護することも、まさに人間の基本的な倫理を踏みにじってもよいという妄想に当たる。ところがイデオロギーは、人間の本性という限界を結局飛び越えることができず、そのため、理想郷の達成のために示された一時的な犠牲が、人間中心主義の恒久的な政策として残ることになる。あらゆるイデオロギーは、人間の本性を考慮せずにそれを飛び越えようとしたために、結局失敗せざるをえないのである。
西洋の文明において、精神が「狂った状態」へと突入するためには、精神の力を極大化する科学的な裏づけが必要であった。その役割を果たしたのがダーウィンの進化論である。ダーウィンは1859年に進化論を発表し、創造論に縛られていた西洋の世界に衝撃を与えた。「偉大な発見は発見者の努力であり、そこに含まれる問題は時代の問題である」という考えを取り入れれば、進化論はダーウィンの偉大な業績である。しかし、ダーウィンが、西洋の思想に深く内在していた方法論、すなわち闘争論と漸進論を、そのまま自らの進化論に用いたのは、誤りのなかの誤りであった。
ダーウィンの進化論が社会科学と結びつくにつれて、西洋は、我々が「社会進化論」と呼ぶ教条的な哲学を生み出す。イデオロギーの時代を開くうえで決定的な役割を果たしたのが、まさに社会ダーウィニズムである。物極まれば必ず反す。ダーウィニズムは、西洋の精神の時代の幕引きを意味することになった。
イデオロギーの時代については、さまざまな哲学的方法で分析し解釈することができる。しかし最善の方法は、人間の本性による分析と判断である。イデオロギーは、人間の精神が絶対的な真理をつかみ、これからそれをつくり出すことができると仮定するところから出発する。これは、20世紀の西洋の特異な環境、すなわち神学、形而上学、イデオロギーへと進む過程で到達した最後の段階である。ここで最も重要な核心は、人間の精神の役割である。人間の本性は本能と精神から成り、精神は本能が与える範囲を抜け出すことができないという人性論を受け入れるなら、イデオロギーは、こうした人性論を大きくゆがめるところから出発し、結局は完全に失敗せざるをえない哲学となる。
精神は、本能の枠を抜け出して、それ自体の自由を享受することはできない。結局、本能は発光体、精神は反射体であるから、「精神に頼ろう」という主張は虚構とならざるをえない。こうした基本的な哲学体系を無視して、西洋は20世紀のイデオロギーの時代を通じて、精神に頼って人間の問題を完全に解決しようとした時期であった。そしてその結果は、我々に悲惨な悲劇をもたらした。イデオロギーの時代がこうした問題を引き起こしたことについては、さまざまな説明が可能である。何よりも、本能を無視して精神だけに頼ろうという人性論のゆがみによって生じたものと見ることができる。
東洋の文明とプロタゴラスの人本主義:「人間は万物の尺度である」
イデオロギーを中心とする人間中心主義は、20世紀の西洋の哲学界を席巻した。人間中心主義は、形而上学が主張する「真理」や神本主義の「ドグマ」が「万物の尺度」となると主張する。それらが人間を超越するからである。これとは違って、東洋の文明は本質的に人本主義である。どんな真理やドグマも、人間関係を損なうことはできない。道家と儒家は、形而上学的な真理や神ではなく、人間こそが人間の社会の中心であるという思考を核心としている。彼らは、人間の本性と人間の修養を核心的な価値としている。孔子、孟子、荀子の思想はいずれも、神や形而上学に頼らず、人間の道徳的な可能性と社会的な責任を強調しているが、これこそが人本主義の特徴である。
弟子が孔子に鬼神にどう仕えるべきかを尋ねると、孔子は「未だ人に事うること能わず、焉んぞ能く鬼に事えん」と答えた。神本主義を退け、人本主義の重要性を強調した答えである。またその弟子が死について尋ねると、孔子は「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん」と答えた(『論語』先進11:12)。形而上学的な抽象を退け、この世の実際の生、すなわち人本主義に集中することを強調した答えである。孟子も、その哲学において神や形而上学的な真理を退け、仁義礼智に集中して人間社会の現実性に目を向けさせ、孔子の人本主義を受け継いだ。荀子も「雩せずして雨ふる」と宣言しながら、教育と法律による人間社会の教化を唱えた。神や形而上学的な真理を遠ざけ、人本主義によって個人と国家を運営しようというのが核心である。道家もまた、神、形而上学的な真理、イデオロギーをすべて遠ざけており、自然から人間が学んだ道を実行しようという哲学体系も、人本主義と思考を同じくしているのである。
こうした哲学体系は西洋にも存在していた。すなわち、神本主義(theocentrism)や人間中心主義(anthropocentrism)に対する人本主義(humanism)という哲学思想の体系が、ギリシアとルネサンスの時代に現れる。プロタゴラスに代表される、ギリシア時代から存在してきた人本主義がそれである。その後、西洋が中世の啓示宗教の神本主義に対抗して、ギリシアの文明から人本主義を取り戻そうという意味で、文明の再生、すなわちルネサンスを実現しようと努めたことがその例である。少なくとも示顕論がギリシア文明の主流となる前には、人本主義はギリシア文明の核心的な要素のひとつであった。プロタゴラス(紀元前481―前411)は、人間は文明の中心にいるほかないと宣言した。
人間は万物の尺度である。いまあるすべてのもの、すべての事柄、存在するもの、存在しないもの、これらすべてが含まれる。241
神が下した教義に縛られず、人間自身の自律的な考えを重んじようという考えである。一種のルネサンス的な人本主義の考えの表れである。神やイデオロギーなどは、いったん確定されると、人間中心ではなく、教義やイデオロギー中心になってしまう。人間の考えることはもはや重要ではなく、確定された教義が人間を支配する。プロタゴラスは、宗教を神聖視し、絶対真理を表現できるという方向へとギリシア哲学の中心が移りつつあったときに生きた思想家である。こうした時期に、プロタゴラスは、人間が絶対的なものの表現を信じてそれに縛られることを否定し、人本主義的な立場を保たなければならないと主張した。
プロタゴラスは、何が正しいかは絶対的な基準ではなく、人間の経験と認識によって異なると主張した。当時は神が判断の基準であったが、プロタゴラスは人間を基準として世界を理解しようとした。人本主義の哲学である。古代ギリシアにおいて、神話的な世界観から人間中心の思考へと転換する重要なきっかけであった。彼の命題は、さまざまな意見がみな尊重されうるという哲学的な根拠となった。これに対して、ギリシアの示顕論者たちは意見を異にした。プラトンはこの命題を批判し、すべての意見が真であるなら矛盾が生じると指摘した。アリストテレスも、真理には普遍的な基準がなければならないと主張した。
プロタゴラスの命題はイデオロギーに反対する。イデオロギーは人本主義に反対するものだからである。イデオロギーは神本主義と軌を一にしている。人間が絶対真理を表現する能力を持つというような人間中心になれば、それはまた別の形の神本主義となる。神を中心とする生活と何も変わらなくなる。人間が神に取って代わるだけである。啓示宗教の倫理までも、人間が思うままに左右できるようになる。イデオロギーにおいては、人間の精神が神に取って代わることになるからである。こうした面があるため、宗教はイデオロギーと両立しがたい。イデオロギーの時代には、自らが唱えるイデオロギーの絶対性を主張するために、神に仕える有神論を公然と非難することになる。共産主義は無神論を唱え、ファシズムでは指導者が絶対性を持つので、伝統的な宗教は政権の道具となる。
イデオロギーは、西洋の合理主義を源としている。合理主義者たちは結局、人間の精神が神の存在にならって古い脳を無視し、単独で働くことができるという状態へと、西洋の文明を追い立てつづけた。しかし、精神は反射体であって発光体ではないという点で、イデオロギーはもちろん、合理主義もまた根本的な限界を抱えていた。人本主義は、絶対真理は人間には表現できないという不顕論に立脚している。だからといって、人間の努力をあきらめようというのではない。表現できないからこそ、いっそう最後まで努力しなければならないということを意味する。すなわち、人間はどれほど努力しても絶対真理に到達することはできないが、だからこそいっそう最善を尽くして相対的な真理を見いだし、自らが生きる世界に必要な哲学を備えようというのである。ここで重要なのは、相対的な真理は他人に押しつけることができないということである。人間中心主義は示顕論に立脚している。そのため、彼らが唱える形而上学的な真理は絶対的なものとなり、それをいくらでも他人に押しつけることになる。すべての解決を約束する絶対真理の達成のために、倫理さえも無視されることになる。
西洋の人本主義は、ルネサンスの時代に、中世を支配してきた神本主義に対抗して、人間は万物の尺度であるという命題を確立した。しかし人本主義がデカルトの合理主義へと転じるにつれて、神本主義の核心である精神崇拝の思想へと偏り、数百年の時を過ごすことになる。そして20世紀に至って、社会ダーウィニズムと野合し、神を精神が置き換える人間中心主義に到達する。しかも人間中心主義は、神本主義が重んじる神の倫理まですべて捨てるという、哲学史でもまれなアイロニーを演じることになる。
人本主義と人間中心主義もまた、結局は、精神と本能の関係をどう設定するかという人間の本性によって、その妥当性が判定される。あらゆる哲学と科学は、多かれ少なかれ人間の本性とかかわっている。どれほど人間の本性から遠く離れているように見えても、それらは結局人間の本性へと帰着する。宗教、示顕論、不顕論、自然哲学、自然信仰など、すべてが人間の哲学と結びついている。我々が、人間の考える心は神と道より前にすでにあったという考えを受け入れるなら、我々は人間が中心となる人本主義を認めることになる。反対に、神は人間より前に存在しており、人間を創造したという哲学に立脚すれば、文明は神学や形而上学、人間中心主義へと流れていく。西洋の近世の合理主義が、西洋の文明をこうした流れに合流させる役割を果たすことになる。こうした傾向が強まれば、結局、人本主義は人間中心主義へと豹変するのである。
東洋は西洋のイデオロギーをどのように受け入れたのか
繰り返しになるが、ダーウィンは生物学者として、進化論という偉大な業績を残した。しかし進化論を説明するメカニズムにおいて、ダーウィンは大きな誤りを犯し、それが文化的な進化というダーウィニズムを生み出すことになる。これは、精神の能力に極度に偏った当時の西洋の文明の影響を、ダーウィンがそのまま受け入れたからである。著書に記されたとおりのダーウィンの進化論は、徹底して西洋の哲学と古典物理学の理論に従っている。漸進論と闘争論がそれである。こうした理論が基盤となって、ダーウィンの進化論はイデオロギーと接触し、社会進化論へと向かうことになる。社会進化論のおかげで、イデオロギーは未来のユートピアの建設が可能だと考え、そのための強力で極端な措置をためらうことなくとるようになる。実現しえない未来のユートピアのために、不変の現在の倫理が無視されるという事態を引き起こすのである。
西洋の神の文明では、精神と本能は対立的、あるいは敵対的に存在する。「神と同じになりうる精神を、本能がつかまえて離さないのが人間である」という哲学を、西洋は数千年以上持ちつづけてきた。それはギリシアの哲学の世界から近世の合理主義の哲学へと続いていた。そして、人間の本性のこうした設定、すなわち精神が人間の中心であるという設定が、彼らの神学と形而上学、そしてイデオロギーを生み出す根源として働くのである。
人間の本性の問題において、東洋は西洋とは根源的に対立する哲学に従っている。この次元で見ると、東洋が西洋のイデオロギーを西洋の人々のように崇めることは難しかった。西洋が執着した精神能力の絶対化という現象、すなわちイデオロギーの時代をつくることは、人間はひたすら精神の流れに従って動くという錯覚を起こさせる文明においてのみ可能である。彼らは、人間の本性に対する巨大なゆがみを、進歩と進化の先駆的な使命だと主張したのである。西洋のこうした「狂った」形而上学的理論に魅せられた国が、西洋のほかにもうひとつあった。19世紀後半から20世紀前半の日本である。
日本は東洋にありながら、人種差別主義に陥った西洋の文明を崇め、それにそのまま従っていく流れにはまり込んだ。東西の違いを完全に無視し、西洋の思想だけが未来の日本の成功を可能にしてくれると信じるようになった。福沢諭吉(1835―1901)は、19世紀の明治維新のころ、日本の思想界に大きな影響を及ぼした。新聞、複式簿記など、西洋の先進的な制度を日本に導入し、日本の近代化に欠かせない肯定的な存在として浮上した。彼の思想の大きさは驚くべきもので、まさに「ルネサンス人」と呼ばれるにふさわしかった。彼の肖像が日本の一万円札を飾ったほど、日本では彼への尊敬の念が大きい。
ところが彼は、西洋のイデオロギー的な適者生存のやり方を、そのまま日本の国際関係に導入しようとした。すなわち、ダーウィンの適者生存の進化論と、のちにヒトラーが掲げることになる生存圏(Lebensraum)論が示した戦争論を、東アジアに持ち込もうとしたのである。242 生存圏論は、ドイツの地理学者ラッツェル(Ratzel)が1897年の著書『政治地理学』で用いたもので、国家を生きた有機体にたとえ、ドイツは成長と生存のためにより広い領土を必要としていると主張した。「万人の万人に対する闘争」という理論を、国際社会に当てはめたものである。福沢は、当時西洋で流行していたスペンサー(1820―1903)の思想を奉じ、それを東洋に当てはめようとした。スペンサーは、適者生存と自然選択の原則は、科学的な進化論においてだけでなく、人間の社会においてもそのまま働くと確信していた。福沢は、こうした理論を国際的にほかの国にも当てはめようとしたのである。
福沢は、韓国と中国は進化論的に遅れた国であり、日本がともに生きることのできない永遠の後進国であると評価した。「脱亜入欧」(アジアを脱してヨーロッパのようになろう)という理論を掲げて、後進国であるアジアの隣国を征服しようと考えるようになったのである。アジアを脱してヨーロッパ、すなわち西洋のようにならなければ、未来に生き残り、栄えることはできないという考えが、彼の思想の全体を支えるようになった。日本はヒトラーのドイツと同盟を結んだ。日本人は、未来を代表することにおいて最も先を行っていると見たドイツのあらゆるものをまねようとした。その結果、ヒトラーのドイツが西洋全体を戦争に巻き込んで満身創痍にしたように、日本は東アジア全体を戦争に巻き込んで満身創痍にすることになった。
福沢の西洋式の適者生存論は、ヒトラーが西洋で滅びたように、結局東洋でも失敗に終わった。彼は、不顕、倫理、陰陽、補完の思想という東洋の精神をことごとく捨て、示顕、法治、善悪、闘争に基づく西洋の適者生存論に没入した。精神が狂っていくなかでイデオロギーをつくり出した西洋の文明に圧倒された現象である。彼は、国家どうしのあいだにも倫理がなければならないという東洋の古い伝統と奥深い文化、哲学を、一片の価値もない弱者の論理として片づけた。征服、搾取、軍事力を先に立てた西洋の弱肉強食の非文明的で野蛮な行動様式を、日本はそのまま手本にしたのである。次は、福沢が1885年に発表した論説「脱亜論」に込められた内容である。
西洋の文明が東洋に到来すれば、東洋のあらゆる木々も草の葉も、西洋の風になびくことになる。わたしの考えでは、西洋の文明が東洋を征服するとき、中国と朝鮮という二つの国は独立して生き残ることのできない存在となる。これは、無知と不法、暴力と残忍さのなかに暮らす村のすぐ隣に、正しい人が住んでいるという状況に似ている。我々は、中国と朝鮮が開明して、彼らとともにアジアを興す時を待つことはできない。むしろ我々はアジアの隊列を完全に離れ、西洋の国々と未来をともにすることに身を投じなければならない。未開の者と交わる者は、未開の者とみなされる。だから我々は、アジアの未開の国々を、我々の心から完全に抜き去らなければならない。243
しかし、福沢と日本の軍国主義のこうした努力にもかかわらず、西洋のイデオロギーの東洋への伝播は、結局失敗した。東洋の国々は、イデオロギーに対して西洋とは異なるパターンを示している。西洋の国々は本心からファシズムや共産主義というイデオロギーを実行しようとし、そうした国々は、イデオロギーの失敗とともにみな消え去った。消えた原因は、イデオロギーが人間の本性についての誤解ないし誤った判断に基づいていたからである。しかし東洋は、イデオロギーに向き合う態度が西洋とは違っていた。日本はドイツのファシズムを吸収しようとし、中国はソ連の共産主義を吸収しようとした。ところが東洋の国々は、イデオロギーに忠実に従ってそこに国の運命をすべて投げ出すという西洋式のやり方よりも、イデオロギーを国の運命のために活用しようとする融合主義(syncretism)という東洋の伝統的なやり方をとったのである。
ファシズムのドイツの滅亡と共産主義のソ連の消滅によってイデオロギーの時代が終わると、東洋の国々がこうしたイデオロギーをどう処理するかが関心の的となった。彼らは、東洋の融合主義の形で西洋式のイデオロギーを受け入れている。東洋で共産主義を掲げる国々も、共産主義の理念にしがみつくのではなく、その理念に含まれる内容のうち国家の運営に必要なものは活用するという姿勢で進んでいる。結局、こうした融合主義的な国家運営の姿勢という東洋式のやり方によって、共産主義を掲げる国々は西洋ではすべて消え、東アジアにだけ残ることになった。
日本の場合、軍国主義の時期のあいだ、東洋の文明の特性を捨て、西洋の二分法的な分離と闘争の哲学に従おうとした。しかし第二次世界大戦でアメリカに敗れた後、突然ファシズムを捨ててアメリカの民主主義の体制を宣言し、それに従おうと努めた。驚くべき変身である。ファシズムから民主主義へと急変できたのは、日本が結局、西洋とは違って、東洋式に西洋のイデオロギーを活用する方法を見いだそうとする努力から来たものであった。日本は、こうした形で、極端に、また迂回的に、東洋の文明の特性を発揮していると見ることができる。戦後の日本の国内政治も、西洋の政権交代のように理念で分かれた政権のあいだの交代ではなく、ひとつの政党のなかの派閥間の調整によって政権の交代を実現する傾向があり、これも東洋の文明の特性を示している。
中国は、東洋の思考の根幹を保ちながら、西洋のイデオロギーを活用するという方法をとっている。中国は、融合主義という哲学の枠のなかで、共産主義を国の運命のひとつの手立てと見て活用しようとしている。国家の運営を共産主義の哲学に任せてそのまま従うという西洋式の示顕主義的なやり方とは違って、中国は東洋の文明的な特性に従う努力を続けている。西洋の共産国家はみな共産主義を捨てて滅びたが、中国は共産主義を保ちながら、その必要な一部を国家の運営に活用している。歴史的に中国が道教、儒教、仏教をすべて国家の運営に用いたように、共産主義についても、その理念に含まれる内容のうち必要な部分を国家の運営に活用しようというのである。中国は共産主義を活用しながら、政府が儒家の思想も活用し、孔子を中国文明の代表者として掲げて世界に広める「孔子学院」としても活用している。これは、中国の文明が、あらゆる哲学や仮説に縛られるよりも、融合主義(syncretism)にしたがって、人間がつくったあらゆる哲学体系を国の運命のために活用しようとする東洋の文明の特性に従っているのである。
結局、思想の輸入の面でも、国の運命の面でも、東アジアの共産国家の融合主義的な態度は、滅んだ西洋の共産国家が没入していた教条的な態度との文明的な違いをあらわにしている。西洋がつくり出し、20世紀に一時世界を支配したイデオロギーに対する東洋のこうした理解と適応は、東洋の文明に潜在している特性のためである。そうした特性は、何よりも、東洋の文明に内在する人間の本性についての理解に見いだすことができる。人間の本性の面で、東洋の文明は西洋のように精神の命令に従うのではなく、本能と精神を陰陽的に調和させた補完論に従うので、それが可能なのである。